2015年1月12日月曜日

雑記

◯我々にとって最も容易いことは、人を批判し、自身の境遇に不平を言い、さして重要でもない事柄に怒りを表わすことだ。この3つは本当に誰にでもできることだ。この3つを三ヶ月だけでもやめることができるならば、貴様は一端の紳士になっているに違いない。

◯我々は国務大臣や大企業のトップに立って初めて祖国を背負い歴史に対面するのではない。どれだけ小さくとも1人の責任ある大人として生きる限り、家族を含めた自身の見える範囲の者に対する責任は、総理大臣が国民の幸福と安寧と歴史に対して負うあの責任と性質において変わるところがない。人間はそうやって自分を鍛え上げていくことで、やがてくる大きな舞台に向けて少しづつ準備を重ねていく。無駄な準備になったとしても全然かまわない。「人間」がでかくなっとるんだから。それは進化を責務とする我々にとって、一つの勝利であるのだから。

◯チャーチルがダンケルクが陥落する直前に、「たとえフランスが降伏しようとも、我々はただひとりでもヒトラーと戦い続ける、さもなくば合衆国の援助などなく、世界は我々の威信を疑うだろう」と言ったという事実は、東アジアに巨大な軍事大国の勃興を見、かつての大英帝国とおなじく合衆国の軍事力に恃むところ大なる今の我が国にとって示唆的である。

◯本田「我れ拗ね者として生涯を閉ず」読了。さすがに俺が出会った人間のなかでもっとも予定調和的で日本的な会話が成立しない内田の推薦本だけあって、面白い。「生き様」という言葉も日常使われなくなったが、まさに生き様である。新聞記者が日本を変える、その純粋な覚悟と実行に戦慄しつつ、深い敬意を表したい。だが、奥さんは大事にしないといけない。



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2015年1月4日日曜日

初詣

久しぶりの靖國へ。
実は初詣の時期に来るのは初めて。
屋台が沢山参道に並んでいる。

靖國に並ぶ屋台は平和の香
硝煙なき世を尊しと思ふ

もいっちょ。

靖國の父よ兄貴よ先輩よ
我も祖国の基なるらん

神保町で、以下を購入。

-「出家とその弟子」
-「ザ・フェデラリスト」
-「アラビアのロレンス」
-「三十三年の夢」(宮崎滔天の自伝。平成人にはよい漢文の勉強ならんや...)
-「塵壺」(河井継之助の日記で、方谷先生の高弟にあたる三島中洲先生が明治23年に長岡の悠久山に作られた河井継之助の碑へ寄せた撰文も収められている) 

2015年1月3日土曜日

犬か阿呆かの選択

貴様がその昼飯を大戸屋で食らうのはなんのためだ?
腹が減ったから食うのか?犬か貴様は?
日本の未来のために食うのか?阿呆か貴様は?
犬か阿呆、人生色々なんて言うが、実はこの犬になるか阿呆になるかのどちらかしかありゃしない。


平成二十七年年頭雑感

◯トマス・ピケティを「こだま」のグリーン車でじっくり読む。民主主義にとって資本主義的産業社会における経済成長が極めて重要なのは、それが経済的平等と関連するからだ。ある人が親から相続した資産は、高い経済成長率を維持する国にあっては、経済が停滞した国におけるよりも価値が低く、結果として個人は自らの力で富を築くほかない。他方、低成長の経済では、相続する資産が少ない人は、自らの労働によって生まれた時からの経済的な格差を克服することが困難だ。もちろん成長は新たな富の不平等や分配を生むだろう。しかし、それに対して個人個人が如何に納得できるかということは、我々が想像する通り重要と思う。
バブル崩壊後の日本のデフレが日本国家にとって恐ろしいのは、経済の縮小がそれによって富める者とそうでない者を社会的に固定し、一つの国家のなかに話す言葉以外は共有するものを持たぬ階層=クラスを生み出す可能性があるからだ。
アベノミクスが目指すインフレ率2%がやがて実現するとして、この時実質成長率1%を目指すとしたら、名目成長率は3%が必要になる。人口が減少していくため、一人当たりGDPの成長率は3%を超えないといけない。従って、2015年に500万円の所得を得ている人は、2020年に580万円の所得を得て初めて1%の経済成長の恩恵に預かったということができる。名目で3.5%となれば、ほぼ600万円が必要になる。

◯仮にアメリカの19世紀後半のフロンティアを求めての西進が、21世紀のこの時代に行われていたら、恐らくそれは今の「イスラム国」の怒涛の勢力拡大と同じように報道されるかもしれない。イスラム国は、単に「イスラム過激派武装勢力」という範疇を超えているように思う。イラクから権力が消えシリアが数年来の内戦でボロボロになるなかで、第一次世界大戦のあとにサイクス・ピコ協定などによって人工的に形成されたイラン、イラク、ヨルダン、シリア辺りの政治秩序を、新たに塗り替えんとする運動なのではあるまいか。首切りを擁護するのかという批判が来そうだが、ただこの運動を歴史的な文脈のなかに置いて理解したいのである。

◯なぜにマンションの広告チラシに「データでみる青葉区の行政ランキング   私立中学校進学率No.1!」なんてものが書かれているんだろうか。素朴に読むと、「公立中学校が暴走族やヤンキーだらけだからみんなコストをかけてでも私立に行かせるんかな?」と田舎もんは思ってしまうんだが、それとも横浜市は青葉区の住民が私立中学校に通いやすいように補助をしているんだろうか?(橋下大阪市長は、府知事の時に大阪府に私立高校授業料支援補助金制度を作った)

◯今朝の日経朝刊一面の左側に「なくせ偽装バリバリ」。つまりは仕事してないのに仕事をしているふりをして残業したりするのをやめようということ。
総論で賛成なんだが、「無駄な残業」を数年来やってきたサラリーマンとしては全面的には首肯できない。
確かに、夜日が沈んでからオフィスや工場に残ってダラダラやっていても生産性は低いだろう。だが、仕事の振り分け、英語でいうジョブ ディスクリプションがあるようでない日本企業においては、実は若年者が知識の部分で年配の連中に追いつくには残業の時間というのは非常に重要である。例えば用もないのに21時から2時間くらい大昔の契約書をコーヒー片手に眺めていたら今の商売に使えるアイデアが得られるとか、夜遅くになると近くに座っている普段ろくに話もしない先輩がやたら商売の歴史を語り出すとか、そういう泥臭い、不恰好な、「生産性」を求めるという合理的思考では掴みきれない価値が、俺もやってきた「残業」というもののなかにはあるのではないかと思う。
ビジネスの現場において無駄を省くことは当たり前のことであって、俺が勤務する商社の「朝バナナ、残業禁止」は沢山のメディアが特集するほど有名にもなった。
だが、我々保守主義者は、ハイエクに倣って、アプリオリに「何が無駄で何が無駄ではなく必要か」を完全に知悉できるほど賢くはないということもまたしっかりと銘記しておかねばならない。たまには、阿呆なほどの大無駄も、未来の躍進や革新には必要なのである。つまり、高校時代の理不尽や今風に言う「体罰」にだって幾許かの意味があるように、この世の中、豚や牛の糞さえも人によっては大切なものなのだ。
ま、これからは自宅のトイレからでも渋谷の40階のバーからで自在に仕事ができる時代だ。

◯米軍が本格的に無人機を攻撃用途に使用し始めたのが2000年代前半のアフガン戦争、イラク戦争だった。それから10年、Amazonが無人機で本を宅配しようとしている。10年先を普通の人が見通したければ、世界で最も最先端の技術を金に糸目を付けずに開発している米軍を観察するとよいかもしれない。十分ではないとしても無駄にはならないだろう。
HPからしてガンダム的で未来的な米軍国防高等研究企画局(DARPA)のサイトはこちら。

◯安倍政権の最大の課題が経済であり財政であることは言うまでもない。
しかし、与党が衆院の3分の2を支配するというこの状況。この時機を逃せばいつあの醜悪な他国の人が勝手に書いた憲法と呼ばれるものをいつ改正できるのか。
国民主権を謳いながら、起草したのは米国人というのは異常である。不磨の大典などこの世には存在しない。
戦後70年の今年は、2085年までこれまでの70年間と同じ時間が同じように続く70年の最初の年なのか?それとも、戦後という一つの歴史から果敢に訣別し、謂わば「戦後・後」の時代を我々の力で構想していかねばならぬ転換の時なのか。
もはや答えは自ずから明らかであるように思う。祖国の独立と繁栄と未来に責任を持とうとする者は、前例踏襲主義に遊ぶことは許されず、不確実な未来へ挑戦する勇気が常に必要なのだ。







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