久しぶりにこのブログを再開することにした。
正直に言えば、ある同い年の著名人の早世は一つの契機であった。
彼女と同い年位の二人の子を持つ父として、妻と彼女らのための文章という意味も込めてもう一度ここで徒然の想いを綴ることにしたいと思う。
昨晩、金曜日の夜。ごく当たり前の、平和で静かな夜。
娘どもが向こうで騒いでおるなーと思いつつ居間でトレーニングをしていると、気がついたら騒ぎ声が止んだ。
ふと寝室を覗くと、母と両隣に二歳と五歳の娘が仰向けに寝っころがって夢中になって絵本を読んでもらっている。
夜が空けて、寝坊助の父が居間に起き出してくると、今度はソファに座った母の両隣で娘がこれまた絵本を読んでもらっている。
「まぁしかし本が好きなもんだなぁ」と思うが、テレビがない我が家では、彼女らの娯楽は父とトレーニングをすることと本を読むことと歌うことぐらいなのだ。
本というものに対して、僕がある種の信仰にも似た思い入れを抱くようになってから、久しい。
本という即物的な「紙が折り合わさったモノ」という物質自体にではなく、重々しいハードカバーの何百というページのなかに織り込まれた文字の一つ一つに、
命懸けでそれを書いた人間の凄まじい気迫と書かれた時代がゆらとが立ち昇ってくるような文章に触れることこそが読書である限り、我が家において本というものは娯楽や趣味のうちのたんなる一つではあり得ない。
娘達には栄達して欲しいという気がないでもない。
ただし、その為に本を読めというような思いはさらさらない。
本を読んだ結果、革命家となって20歳で死のうとも、それも奴らの人生だ。美しく生きることが大切なのであって、長く生きることは二次的な問題である。
娘がこれから彼女らの人生で出会うであろう苦難な孤独に立ち向かうなかで、図書館と本屋と我が家の書棚にある幾千幾万の本たちのなかのひとつの文章が、
彼女らを勇気付け励まし、時には羅針盤となってくれることは願う。
そして数多の本のなかから人生のなかで繰り返し読み返す本と出合い、自身が生きるについての原理原則を見い出してくれさえすれば、大学の学位も大企業の名刺も必要ない。
父としては、彼女らが将来どんな男と出会い結婚するかということ以上に、彼女らがこれからどんな本と付き合っていくのか、興味は尽きない。