2013年1月7日月曜日

脳みそのなかの断片達


○Edmund Burkeを読む。遅々として進まない。
平日にさぼったり他を読んだりすると下手をすれば1週間で10ページとか、15ページとか。それでも、亀のような月日を重ねるとやがてその本も赤鉛筆の下線で朱色に染まってくる。そしてこれまで全く理解していなかった彼の思想、彼の人間性のようなものが、文章を通して3Dのように俺の眼前に立ち上がってくる。「イギリス人の自由を守るために18世紀末のロンドンで書かれたこのフランス人宛ての書簡を、220年後に日本人がワシントンDCで読んでいるとはお墓のBurkeさんもよもや思うまい」などと思えば、とても愉快だ(こういう愉しさは、誰かと共有する必要のないものである)。
1日に3ページ、4ページの読書。なんと平凡なことだろう。しかし、平凡を積み重ねていくほかないのが我々の人生だ。
絶えることのない平凡の集積。俺はこれを尊ぶ。富士山は富士山という一個の巨大な原子ではなく、無数の岩と砂と土の原子の集合なのだ。その一つ一つの原子が無意味であるなどと、一体誰が言えるだろうか?


「戦争好きなの?」という質問を発する人間は阿呆だ。俺にはこの問いが、「人生好きなの?」という問いと同じに聞こえる。合コンで出会った可愛いあの子に「そういえば、人生って好き?」と尋ねれば、まず間違いなく変人扱いしてもらえるだろう。好きだろうが嫌いだろうが学ばざるを得ないもの、研究せざるを得ないもの、それに備えざるを得ないものが戦争である。
戦争の歴史を知らぬ人間は人間の歴史を知らぬものであり、人間の歴史を知らぬものは人間を知らぬものであり、人間を知らぬものは己を知らぬものであり、己を知らぬものは一生地に足のつかぬデラシネである。


時に、物理的に最も近しい人間が、最も自分から遠い単なる物理的存在であるように思えることがある。
時に、物理的にも時間的にも最も遠い人間が、自分ととても似通っていて、自分と同じことを考えていて、最も自分から近い精神的存在であるように思えることがある。
だから、俺は全ての人間関係において距離というものを重視しない。
だがこうは言える。
物理的に最も近しい存在の人間が、精神的に最も近しい存在であることも当然あり得る。
これは奇跡的なことだから、それを見つけた時には我々はそれに気付くことができるほどに賢明でなければならない、と。


己自身の世界を持つことは、外部の世界から自己を遮断するための不可視の防波堤でもなければ塹壕でもない。俺は一人で居るとき最も強烈であり、自然のなかに一人でいるとき最も華やかであるような、そういう人間になりたい。
だが己自身の世界と言ったとて、客観的かつ不変的なものとしてそれは在るのではない。常に不断の外部からの更新を受け、絶えず生まれ変わりいくべきものだ。人間の成長、人間の巨さの成長は、実にここにこそあるというべきだろう。


「全く新しいクラウン」と社長がのたまう14代のクラウンは、特にそのデザインについて賛否両論いろいろあるようだ。
一つ思うのは、先々代のプラットフォームをそのまま流用して「全く新しい」というのはどうか。自動車の骨格であるプラットフォームを変えずに(エンジンは変わってはいるが)「全く新しい」と叫ぶのは、虚偽とは言わぬまでも誇大広告の誹りは免れんだろう。そりゃピンクのクラウンは「全く新しい」けど。
あの車を売ることができるのだとすれば、トヨタの営業力・宣伝力・政治力にもはや感嘆するしかない。
思い切って、「トヨタは高級FR車は全てレクサスに移管しクラウンも廃止、トヨタブランドでは移動手段としての快適性と経済性をとことん追求する乗用車を提供していきます」と言えなかったのだろうか。
かつての名車であるブルーバード、セドリックが日産のラインナップから消えた。ホンダの屋台骨を支えてきたシビックも既に役目を終えてフィットに後を託した(N-Boxか?)。カローラを買っていた人はいまはアクア、プリウスに乗っているだろう。であれば、人口縮小・所得減少のこの社会でトヨタブランドが350万円以上のFRセダンを維持する必要はあるのだろうか。真剣に疑問に思う。
多くの人が(トヨタ好きの人も含めて)あのとってつけたような顔面を見て、「トヨタは真面目に車を作っているのだろうか」と考えただろう。過去の遺産(「トヨタは壊れない」「高く売れる」)に胡坐を掻いていては、未来は覚束ない。
トヨタはVWに勝てるだろうか。