2013年5月9日木曜日

壊れゆく日本という国 神戸女学院大学名誉教授・内田樹(朝日新聞5月8日朝刊)

世界規模に拡大した資本主義体制における国民国家・国民・営利企業の関係に関心をお持ちの方は、この小論文を是非ご一読下さい。


折角ですので、個人的な意見を述べます。が、先に下の内田氏の文章を読まれたほうがいいです。

国民国家、しかも先進国の日本のような国民国家はことごとく民主主義体制となっており、ここにおいてはあまりに雑多な利益団体が「国益」ではなく「自分たちの利益」を求めて争い合います。
TPP交渉などはその典型でしょう。それぞれが、「これが国益になるのだ」と言ってはいても、内心では「これは自分に有利なのだ」と考えている場合がほとんどでしょう。
そういう場合に、民主主義的国民国家の政府は、営利企業ほどは容易かつ大胆果断に新しい政策を行うことができないのです。
それはなぜでしょうか。

民主主義とセットであるかのように思われている資本主義経済体制における営利企業の「政策決定」は、全然民主的ではなくそれはどこまでも独裁的です。いや、上意下達の独裁的権力が営利企業のトップに付与されていなければ、営利企業はその適者生存の闘いに勝ち残っていけないでしょう。この意味で、営利企業の組織的分化は、上官の命令が絶対である軍隊と極めて似た性質を持っております。軍人が営利企業において多くの場合問題なく適応できるであろうと僕が考えるのはこの理由大きい。民主主義に多くの場合付随する自由経済は、その根本的要素として独裁権力を前提としています。世界最大の時価総額を有するに至ったApple社を築いたSteve Job氏の独裁的経営はよく知られるところです。
CEOや社長には人事政策を中心とした絶大な権限が与えられ、特に日本企業における企業トップの地位は経営成績に関わらず極めて安定していると言ってよいでしょう。

そして、もう一点の営利企業と民主主義的国民国家の大きな違いは、それらの目的の重層性において現れます。
前者の目的は、国境の島を守ることであり、全国民に普遍的な教育を与えることであり、また夜の歌舞伎町を監視することなどなど、上げればキリがありません。無数にあります。
他方で営利企業にとっての目的とは、マルクス主義的な言い方をすれば、「資本の再生産」(ある資本を以て投資を行い、その投下資本+金利以上の利益を収得すること。そしてこれを無限に最大化していくこと)にあり、その目的の単純性は民主主義的国民国家における政府が目指すべき目的の重層性と比較する時、極めて顕著なものとなります(CSRなどがもてはやされるようになっていますが、それさえ投資家向けのポーズであることが多い)。

要すれば、営利企業における①政策決定の速度と指導者に与えられた独裁権力と、②営利企業の目的の単純性が、営利企業をして資本の再生産という目的のための迅速果断な行動を可能にしています。これらは、営利企業における資本主義の世界化に対する対処の可能性と容易性を説明するのみで、そのグローバル化の理由ではなりません。

ではその理由はなにか。
なんらかの理由でこれ(=グローバル化)をあえて行わない営利企業は、多くの場合生存競争に勝てず倒れてしまいます。日本人の3分の1の給与で一日12時間必死に働くベトナム人ではなく合えて日本で日本人をひどく高い給与で雇えば、製品コストが上がるのは当たり前です。そして、この闘いは、いまや国民国家の枠を優にこえ、世界規模で展開しております。
その結果、世界規模の闘いに勝ち、資本の最大化に成功し「実弾」を豊富に備えた営利企業は、成熟した民主主義的政権に対する圧力団体となるわけです。
そのため、内田氏がいうような日本のグローバル企業のトップは、自身の選好として日本を超え出てグローバル化しているというのではまく、まして彼らが日本という国を破壊しようとしているのでもなく(彼らはそんなことに関心はありません)、むしろ彼らは善良で一生懸命なちょっとしたエリートかつ上司や株主の言うことに忠実なる経営者であって、そこには一見してもはや「選択の余地がない」としか思えぬことにこの「問題」の重心があるというべきでしょう。内田氏が繰り返しこの論文のなかで言っているように、企業経営者にとっては、このグローバル化戦略は、全く合理的であるし正しい選択なのです。

内田氏のこの論文は読み物としては面白いのですが、他方で何の解決策というか対案も提出していないという謗りは免れないでしょう。
また、世界規模の資本主義が日本という国家を破壊させつつあるという右翼的な言説をこともあろうに朝日新聞が紙面に載せていることが滑稽なのですが、グローバル資本主義がー他にもっとよい方法があったかもしれないという幼児のごとき主張を放っておくとしてー世界の十数億の人々を貧困の淵から救い上げてきたことも、また確かなことでしょう。
韓国の現大統領の父が大統領であった頃、韓国という国は世界で最も貧しい国のひとつでした。それが今や世界に家電から自動車からさらには原発までを日本と競争して売り込むまでの国になりました。その過程で、いわゆるグローバル企業が果たした役割に、全然価値がなかったとは僕には思えません。古くは日本の自動車メーカーがアメリカの自動車市場を奪い、アメリカ人から職を奪いました。そうしたらアメリカ人はMicrosoftDellAmazonAppleを作って復活したわけです。アメリカから奪った自動車市場を韓国や中国に奪われるというのなら、アメリカ人がやったように新しい産業を築いてみせるという気概がなくては、生き残れないでしょう。

内田氏のこの論文は、極めて島国的な論考であり、日本がこれまでの70年とは全く異なる新しい日本に成り変わっていくことの可能性すら検討しようとしていないという点で、知的怠惰と僕は言いたいと思います。
企業が「人事コストを外部化」するためにグローバル人材を大学に育てるよう要請しているなどというのは笑止な話で、英語で読み書き話すことができないということの不利を知っていればこそ、あのドイツでさえあっという間にオランダや北欧のような準英語圏の国に変貌したわけでしょう。

歴史を振り返ってみれば、こういう朝日新聞的な「企業は自分の利益のことだけを考えているからけしからん」というロジックは、過去70年を振り返れば正しいのですが、そもそも通時代的に適用し得るものでしょうか。
これまた内田氏が言うように、主権国家体制というものは、歴史において常に存在し続けたわけではありません。ウェストファリア条約締結から、せいぜい350年ほどの歴史があるにすぎません。まして国民一般の利益と主権国家の利益がかなり一致していた時代は、戦後の日米欧ぐらいではないでしょうか。歴史における例外というべきです。だから、未来を見通すときに過去の70年が普通の状態であると考えることがそもそもの間違いなのです。
歴史において、多くの統治のあり方が存在したのであり、これからもそれは変わらないと考えることが理に適っていると思うのです。

我々が知っている「日本」-それは恐らく、皆一生懸命働けば「日本人」であればクラウンに乗るぐらいのお金を平等に稼げた時代(日本国内限定の平等と公平)-は歴史においては相対的なものでしかなく、これを守ろうという努力は大切であるという考えにはなんとなく賛同したくもなりますが、それを守ろうとする闘いに敗れたとして我々はまた生きていかねばならない。そしてそれが日本というこの列島ではない可能性や、生活や仕事において用いる言語が日本語ではない可能性も当然にあるわけです。 
この現在の日本の政治経済システムを守る闘いに敗れた後に生きていくために必要な意思と力を得るためには、内田氏がいうように、「グローバル企業の利益がすなわち日本の国益である」という幻想を捨てないといけないと思います。それは確かなことでしょう。企業は従業員のためだけに存在するのではありませんから。

ですが、企業がグローバル化するなら、そして時代がそれを否応なく要求するのであれば、国民もグローバル化すればいいではないか、というのが僕の今の考えです。敢えて言えば、その努力をせぬものが倒れたとしても、それは仕方がない。
我々日本人はこの70年間、暗黙にこう世界に対して言ってきたのです。「日本が豊かなのは日本が頑張ったからだ。他の国も頑張ればいい。」と。「いや、そんなことはない」と言ったとて、それは間違いなく真実です。そうであれば、誰かが、「僕が豊かなのは僕が頑張ったからだ。君も頑張ればいい。」ということも、同様に正しいはずです。
それができないというのは、江戸時代が終わって幕府が消えた後に丁髷は落とせぬ刀も捨てられぬと頑なになった頭の固いお侍と同じではないかと思います。
日本で生まれたから日本で育って日本で学んで日本で働いて日本語だけを話して日本人とだけ競争して日本で死んでいくということを保守することが日本の保守主義であるはずがないのです。
そんなところに日本という国の栄光があるはずがない。ではどこに?と尋ねられると困ってしまうのが不細工なのですが、いまそれだけは断言できます。

以下が内田氏の朝日新聞に掲載された論文です。

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 日本はこれからどうなるのか。いろいろなところで質問を受ける。「よいニュースと悪いニュースがある。どちらから聞きたい?」というのがこういう問いに答えるときのひとつの定型である。それではまず悪いニュースから。
 それは、「国民国家としての日本」が解体過程に入ったということである。
 国民国家というのは国境線を持ち、常備軍と官僚群を備え、言語や宗教や生活習慣や伝統文化を共有する国民たちがそこに帰属意識を持っている共同体のことである。平たく言えば、国民を暴力や収奪から保護し、誰も飢えることがないように気配りすることを政府がその第一の存在理由とする政体である。言い換えると、自分のところ以外の国が侵略されたり、植民地化されたり、飢餓で苦しんだりしていることに対しては特段の関心を持たない「身びいき」な(「自分さえよければ、それでいい」という)政治単位だということでもある。
 この国民国家という統治システムはウェストファリア条約(1648年)のときに原型が整い、以後400年ほど国際政治の基本単位であった。それが今ゆっくりと、しかし確実に解体局面に入っている。簡単に言うと、政府が「身びいき」であることをやめて、「国民以外のもの」の利害を国民よりも優先するようになってきたということである。
 ここで「国民以外のもの」というのは端的にはグローバル企業のことである。起業したのは日本国内で、創業者は日本人であるが、すでにそれはずいぶん昔の話で、株主も経営者も従業員も今では多国籍であり、生産拠点も国内には限定されない「無国籍企業」のことである。この企業形態でないと国際競争では勝ち残れないということが(とりあえずメディアにおいては)「常識」として語られている。
 トヨタ自動車は先般、国内生産300万台というこれまで死守してきたラインを放棄せざるを得ないと報じられた。国内の雇用を確保し、地元経済を潤し、国庫に法人税を納めるということを優先していると、コスト面で国際競争に勝てないからであろう。外国人株主からすれば、特定の国民国家の成員を雇用上優遇し、特定の地域に選択的に「トリクルダウン」し、特定の国(それもずいぶん法人税率の高い国)の国庫にせっせと税金を納める経営者のふるまいは「異常」なものに見える。株式会社の経営努力というのは、もっとも能力が高く賃金の低い労働者を雇い入れ、インフラが整備され公害規制が緩く法人税率の低い国を探し出して、そこで操業することだと投資家たちは考えている。このロジックはまことに正しい。
 その結果、わが国の大企業は軒並み「グローバル企業化」したか、しつつある。いずれすべての企業がグローバル化するだろう。繰り返し言うが、株式会社のロジックとしてその選択は合理的である。だが、企業のグローバル化を国民国家の政府が国民を犠牲にしてまで支援するというのは筋目が違うだろう。
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 大飯原発の再稼働を求めるとき、グローバル企業とメディアは次のようなロジックで再稼働の必要性を論じた。原発を止めて火力に頼ったせいで、電力価格が上がり、製造コストがかさみ、国際競争で勝てなくなった。日本企業に「勝って」欲しいなら原発再稼働を認めよ。そうしないなら、われわれは生産拠点を海外に移すしかない。そうなったら国内の雇用は失われ、地域経済は崩壊し、税収もなくなる。それでもよいのか、と。
 この「恫喝(どうかつ)」に屈して民主党政府は原発再稼働を認めた。だが、少し想像力を発揮すれば、この言い分がずいぶん奇妙なものであることがわかる。電力価格が上がったからという理由で日本を去ると公言するような企業は、仮に再び原発事故が起きて、彼らが操業しているエリアが放射性物質で汚染された場合にはどうふるまうだろうか? 自分たちが強く要請して再稼働させた原発が事故を起こしたのだから、除染のコストはわれわれが一部負担してもいいと言うだろうか? 雇用確保と地域振興と国土再建のためにあえて日本に踏みとどまると言うだろうか? 絶対に言わないと私は思う。こんな危険な土地で操業できるわけがない。汚染地の製品が売れるはずがない。そう言ってさっさと日本列島から出て行くはずである。
 ことあるごとに「日本から出て行く」と脅しをかけて、そのつど政府から便益を引き出す企業を「日本の企業」と呼ぶことに私はつよい抵抗を感じる。彼らにとって国民国家は「食い尽くすまで」は使いでのある資源である。汚染された環境を税金を使って浄化するのは「環境保護コストの外部化」である(東電はこの恩沢に浴した)。原発を再稼働させて電力価格を引き下げさせるのは「製造コストの外部化」である。工場へのアクセスを確保するために新幹線を引かせたり、高速道路を通させたりするのは「流通コストの外部化」である。
 大学に向かって「英語が話せて、タフな交渉ができて、一月300時間働ける体力があって、辞令一本で翌日から海外勤務できるような使い勝手のいい若年労働者を大量に送り出せ」と言って「グローバル人材育成戦略」なるものを要求するのは「人材育成コストの外部化」である。要するに、本来企業が経営努力によって引き受けるべきコストを国民国家に押し付けて、利益だけを確保しようとするのがグローバル企業の基本的な戦略なのである。
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 繰り返し言うが、私はそれが「悪い」と言っているのではない。私企業が利益の最大化をはかるのは彼らにとって合理的で正当なふるまいである。だが、コストの外部化を国民国家に押しつけるときに、「日本の企業」だからという理由で合理化するのはやめて欲しいと思う。
 だが、グローバル企業は、実体は無国籍化しているにもかかわらず、「日本の企業」という名乗りを手放さない。なぜか。それは「われわれが収益を最大化することが、すなわち日本の国益の増大なのだ」というロジックがコスト外部化を支える唯一の論拠だからである。
 だから、グローバル企業とその支持者たちは「どうすれば日本は勝てるのか?」という問いを執拗(しつよう)に立てる。あたかもグローバル企業の収益増や株価の高騰がそのまま日本人の価値と連動していることは論ずるまでもなく自明のことであるかのように。そして、この問いはただちに「われわれが収益を確保するために、あなたがた国民はどこまで『外部化されたコスト』を負担する気があるのか?」という実利的な問いに矮小(わいしょう)化される。ケネディの有名なスピーチの枠組みを借りて言えば「グローバル企業が君に何をしてくれるかではなく、グローバル企業のために君が何をできるかを問いたまえ」ということである。日本のメディアがこの詭弁(きべん)を無批判に垂れ流していることに私はいつも驚愕(きょうがく)する。
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 もう一つ指摘しておかなければならないのは、この「企業利益の増大=国益の増大」という等式はその本質的な虚偽性を糊塗(こと)するために、過剰な「国民的一体感」を必要とするということである。グローバル化と排外主義的なナショナリズムの亢進(こうしん)は矛盾しているように見えるが、実際には、これは「同じコインの裏表」である。
 国際競争力のあるグローバル企業は「日本経済の旗艦」である。だから一億心を合わせて企業活動を支援せねばならない。そういう話になっている。そのために国民は低賃金を受け容(い)れ、地域経済の崩壊を受け容れ、英語の社内公用語化を受け容れ、サービス残業を受け容れ、消費増税を受け容れ、TPPによる農林水産業の壊滅を受け容れ、原発再稼働を受け容れるべきだ、と。この本質的に反国民的な要求を国民に「のませる」ためには「そうしなければ、日本は勝てないのだ」という情緒的な煽(あお)りがどうしても必要である。これは「戦争」に類するものだという物語を国民にのみ込んでもらわなければならない。中国や韓国とのシェア争いが「戦争」なら、それぞれの国民は「私たちはどんな犠牲を払ってもいい。とにかく、この戦争に勝って欲しい」と目を血走らせるようになるだろう。
 国民をこういう上ずった状態に持ち込むためには、排外主義的なナショナリズムの亢進は不可欠である。だから、安倍自民党は中国韓国を外交的に挑発することにきわめて勤勉なのである。外交的には大きな損失だが、その代償として日本国民が「犠牲を払うことを厭(いと)わない」というマインドになってくれれば、国民国家の国富をグローバル企業の収益に付け替えることに対する心理的抵抗が消失するからである。私たちの国で今行われていることは、つづめて言えば「日本の国富を各国(特に米国)の超富裕層の個人資産へ移し替えるプロセス」なのである。
 現在の政権与党の人たちは、米国の超富裕層に支持されることが政権の延命とドメスティックな威信の保持にたいへん有効であることをよく知っている。戦後68年の知恵である。これはその通りである。おそらく安倍政権は「戦後最も親米的な政権」として、これからもアメリカの超富裕層からつよい支持を受け続けることだろう。自分たちの個人資産を増大させてくれることに政治生命をかけてくれる外国の統治者をどうして支持せずにいられようか。
 今、私たちの国では、国民国家の解体を推し進める人たちが政権の要路にあって国政の舵(かじ)を取っている。政治家たちも官僚もメディアも、それをぼんやり、なぜかうれしげに見つめている。たぶんこれが国民国家の「末期」のかたちなのだろう。
 よいニュースを伝えるのを忘れていた。この国民国家の解体は日本だけのできごとではない。程度の差はあれ、同じことは全世界で今起こりつつある。気の毒なのは日本人だけではない。そう聞かされると少しは心が晴れるかも知れない。