2014年4月29日火曜日

もうすぐ二歳です優子さん

最近面白いのは、人間の幼児の言語の習得過程を間近で見物できること。
優子さんの最初の日本語の「文章」は、大きなラブラドール・レトリーバーを公園でみかけて言ったこの言葉。

「ワンワン シー」 (訳:「犬がシッコしとる~」)

最近は、主語と述語と目的語を駆使できるようになって、夕食のときの両親の会話に割って入っていったこの言葉。

「マァマ モゥモゥ ダーチュキ」 (訳:「お母さんは牛さんが大好きね~」)

こんな幼稚な言葉から始めて、そのうち過去形が入ってきたり、仮定法を使えるようになったり、あるいは副詞を用いてより具体的に事象を説明したりするようになって、やがて哲学を読むようになれば形而上のことも含めて論じるようになるのかーと思うとまことに感慨深いものがある。

はて、言葉があるから人類は他の動物よりも優れているのだろうか?
そうは簡単に結論付けることは俺にはできない。
言葉とともに我々は戦争を手に入れてしまった。表象機能を有する複雑な言語を手に入れた人類だけが、大規模な組織的武力闘争を行うということは、これはけっして偶然ではないだろう。

言語とは即ち意味である。
言語を手にした瞬間に、優子は厳密な意味での純粋さを失う。
言語は世間一般に流通するために必ず普遍性を備えているが故に、それを使うものを意味という決まり事で拘束する。まぁそれがあるから意思の疎通ができるわけだが。
芸術家はこれに抵抗する人だなーと、ピカソのゲルニカなんかをみると思わされる。
ニーチェもそうだ。だからこそニーチェは「読めるわけがない」のであって、自分で読むしかないのだ。

ようやく話し始めた娘。
言語という一つの「権力」を崇拝してこれを疑うことを諦めるのではなく、これが常に書き換えられるべきものであることを分からせてやることが俺の大切な役目だろうと思う。
嗚呼、君もついにこっちの世界に来てしまったんだねぇ。
嬉しいような悲しいような。