暗闇があるといつでもそこに身を隠すことができるし(まぁ、同様に悪者が潜んでいる可能性もあるが、そこは危険を察知する動物の本能を研ぎ澄ませよう)、何より夜に昼のように明るくないからよく寝られるようになった気さえしている。
実際のところ、外苑前の会社を出て渋谷まで歩く時の246号線の暗さは明らかで、こころなしか東京の月の輪郭が以前より判然とするようになった。
寝る直前まで蛍光灯の光がギラギラと照っていては、なかなか寝ようとはしないし、そうして起きている間に人々はくだらんお笑い番組を見ているのだ。特別面白いとも思わずに、ただなんとなく。それが人生の無駄であることを忘れながら。それで浪費される電気だって、合計すれば結構な数字になってGDPを押し上げるのだから、我々はいい加減にGDP信仰を疑うべきだ。
思えば、俺は昔から薄暗い場所が好きだった。一人暮らしをするようになってすぐに間接照明の小さなライトを買って、大学と大学院の六年間、夜家で一人で過ごす時にはいつも小さなこのライトだけで読書も食事もした(これを書いている今もそうだ)。普通に考えれば、蛍光灯の真っ白な人工的な明かりの下で、一体どれだけの偉大な思想の書が書かれるというのだろう。そりゃ無理というものだ。人間には何を行うにも適した環境というものは確かにあって、ヘーゲルだってマックス・ヴェーバーだって、パチンコ屋の騒音と明るさのなかではどんな思索もできなかったに違いない。
だから、節電などと言わずに、今までより少し暗い生活を楽しもう。もしかしたら蝋燭の薄明かりの下ではあなたの妻がオードリー・ヘップバーンに見えてくるかもしれない。
薄暗いところにいると早く眠たくなるから、日付が変わる前にさっさと眠ってしまう。自然、朝は早く目が覚める。朝は瞑想に最適の時間だ。
大人の男は、少し暗いバーのほうが似合うのだ。煌々と電気の光が灯るファミリーレストランかマクドナルドしか似合わないガキのような男になってはいけない。
独り言:
○「だるい」「面倒くさい」「疲れた」
これらの言葉をたぶん過去10年以上言っていない。
街で「あぁ~超疲れたんだけど」と言い合う男子高校生。
電車で空席を見つけると即座に座ってゲームを始める大学生。
喫茶店で「あー疲れたぁ」と言いあうサラリーマン。
いつから男が「疲れた」だの「だるい」だのと言うことが許される時代になったんだろうか。
昔の男は(少なくとも俺のオヤジは)こんなことを絶対に口にしなかった。
自分がやがて数十万の軍を率いると一度でも考えたことがある男は絶対にこんなことを言わぬ。
そんなことを言った瞬間に、兵は一人たりとも自分の命令に従って動くことはないだろう。
男が思ったことを全部口から出してしまうことが許される社会というのは、なんと幼稚な社会だろうか。
○長渕剛が、東北の被災地を訪ねて、「本物の歌手の歌を聞いてください」と言って、「とんぼ」などを熱唱した。
炊き出しに行く芸能人は多いが(それ自体は素晴らしいことだ)、彼のようにギター一本抱えて「俺には歌しかねぇ」と言って自分の喉で打ちひしがれた人たちに何かを伝えたいと思って行動する男は少ない。こんな状況で、津波で崩壊した街で歌うことが「似合う」歌手など長渕剛以外にあり得ない。そこらへんでしょうもないラブソングを歌って小遣い稼ぎをしている商売歌手達は、この国難に直面して語る言葉も全然持たない。
長渕剛は、いつも苦しんでいる誰かの為に(たぶんまず自分のために)歌っている。その歌は、曲であるよりもまず彼の思いがこめられた詩である。だからこそ、こんな悲惨な状況のなかでも彼はー彼だけはー歌うことができるし、人々に彼の歌と思いはまっすぐに届く。
今日本が求めているのは、AKB48の踊りではない。長渕剛の魂の砲声である。長渕剛の「俺には歌しかねぇ」という壮絶な覚悟は、男として最高の尊敬に値する。
危機において最も輝く男になりたい。平和な時代は桑を持ち、有事にあっては采配を振るう。そのためには平和な時代から常に有事のための鍛錬と勉強を欠かしてはならぬ。
「男の身体と精神は、常に危機に向かって振りしぼられた弓のように緊張していなければならない」(三島由紀夫)。
○最近サボり過ぎだ。ちびちびまた書いていこうと思う。色々と賑やかでね身の周りが。正直言って勉強が少々不足もしている。岸本「バーク政治思想の展開」を手に入れたので、じっくり読む。
ついでにGW末までに、トインビー「歴史の研究」、カーネギー「人を動かす」、マキャベリ「君主論」、ヘーゲル「歴史哲学講義」を再読するつもりだ。今年の後半は、再読・精読に力を入れて自分の畑を深く耕して行きたいと思っている。
多読も俺のような若輩には大切であるが、知識を腹で溶かして自らのものとするような、そういう勉強の仕方も必要だと感じる。骨太の人間になるには、避けては通れない。