「野戦と永遠」(佐々木中)。。。なんと艶っぽいタイトルだろう。
フーコーがニーチェをどう理解していたのかについては非常に興味深いです。
保守主義者と自認していたのに、フーコーフーコーとかなんとか言って五月蝿い姉貴の左翼ぶりが大嫌いだった僕は、いつからかオルテガやバークを離れて、ニーチェやマーク・ローランヅに強い影響を受けるようになりました。
そして、なんとなくは予感していましたが、佐々木中を介してフーコーに至ったというわけです。
「監獄の誕生」をまずは精読する必要があります。
自分としては、ニーチェを読むことが保守主義者を自認する自分にとってどういう意味があることなのかなんとなく分かっていたような気もします。
特に、戦後日本の55年体制が民主党政権になっても全く改革されぬこの政治の現状では、また世界規模での資本主義が恒常的なバブル生成と崩壊を抜きにはすでに成り立たなくなっているこの世界の現状では、僕が少しずつでも現状に対して、フーコーの言う「戦争」をしかける方向に向かわざるを得なかったように思います。
世界を恒常的な「戦争」状態として認識するというこの一点において、僕は完全にFoucaultに賛成します。
世界は、Staticではありえない。静的状態を求めるのは、既得権益の上に座った豚たちです。
しかし、それでも革命は、
Revolution、つまりRevolve=回転するわけです。
世界を回転させて、つまり天を回す=回天させ、現状を打破して新しい世界を啓いていくのが革命と理解するならば、現状肯定・追認なぞ保守主義でもなんでもないことが分かります。
しかし。戦争は常に目的であるべきではないのです。
生きている形態としての我々の生の高揚を求める生き方は、必然的に闘争的になるでしょう。
それが目指すものとしての目標は、もしかしたら風船でしかないのかもしれない。
しかし。
ーコーの言う「主権権力」「規律権力」「生権力」。
それらすべてから、彼女は何故かくも自由なのでしょう。
不思議です。