2013年6月16日日曜日

「アラブの春」は「アラブの冬」なのか

アメリカの"Red line"をシリア正規軍はなんともあっさり越えてしまった。自国民に対してサリン(日本人には特別嫌な響きを持つ化学兵器だ)を使って攻撃し、100人以上を殺したという。
正義の大国アメリカはといえば、アラブでの三つ目の戦争を今からやるつもりはさらさらなく、最後の一線が越えられた後も政権高官の発言は極めて抑制的で、部隊の派遣もシリア上空に飛行禁止区域を設定することも当面なさそうだ。
オバマ大統領の二期目の最重要課題とは、たぶん中東での戦争を片付けて経済を立て直し移民問題をどうにかすることだから、シリア内戦に介入することはワシントンの大方針の正反対だ。

さらにことを難しくしているのは、アメリカにとってこの2年以上に亘って続く悲惨な内戦に介入することの目的が全くはっきりしないことだ。ブレジンスキーが最近言っていたが、シリア内戦は民主主義とか自由のための戦いというより、権力を巡っての血みどろの闘争だ。その片方を手助けしたところで、新たな独裁政権を生むだけではないのかという疑念はもっともだ。これを疑う人はYoutubeで「Syria Violence」で検索して欲しい。凄まじく凄惨な虐殺の場面の動画がいくらでも見つかる。最もひどいのに至っては、Free Syrian Armyの者が、シリア正規軍の兵士を心臓を食っているのだ...。アサド大統領の軍隊も虐殺を繰り返していることは明らかだから、これは言わば英雄なき戦争である。

この戦いがどういう終わりを迎えるにせよ、勝者はアメリカが好むような民主主義によって国を治めようとはしないだろうし、できはしないだろう。だから、少なくともシリアで起きていることは何をどう評価しても「アラブの春」ではない。

シリア内戦の影響によってシーア派とスンニ派の対立が激化しているイラクでは4月に700人が自爆テロなどで死んだ。過去数年間で例のない数字である。イラクは内戦勃発の瀬戸際にいる。ヨルダンにはシリアから大量の難民が押し寄せている。その数百万人以上。イラクが不安定化すれば北部のクルド人の動きにアンカラ(トルコ)は気が気ではいられないだろう。アルジェリアでは日本人を含む多数の犠牲者を出すテロが起き(これはリビアからカダフィがらいなくなったことに関係しよう)、アルジェリアの南のマリやニジェールではイスラム系のテロリストが暗躍している。最近では原子力大手Arevaのニジェールのウラン鉱山施設への攻撃で生産がストップした。
我々が中東と北アフリカで目撃しているのは、明らかに「アラブの春」などではなく、これにペルシア=イランの核問題とイスラエルが絡めば、数年のうちに破滅的な結果を導くかもしれない。それは誰も望まぬ「アラブの冬」である。

ところで、日本の平和主義とは、こういうことを全く無視して(たまに国連とアメリカに金を出して)、世界の平和に何も貢献しようとしないことである。
呑気なもんだ。

2013年6月12日水曜日

歳を重ねるということ

31歳である。俺が、である。もう二ヶ月が経つ。
自分の認識は兎も角、世間様からすりゃ立派なオッサンの仲間だろう。なんだか変な話だなと思うが、歳をとりたくなけりゃ死ぬしかないわけで、意思でもってどうこうできるもんでもない。

学生の時、ちょっと気になる女の子がいて、この子が社会人とデートに行く〜という話を聞いて、俺は頭のなかでは嫉妬とともに、今となっては北朝鮮の将軍様の肖像画並みに粉飾された大人の男が想像された。ダンヒルの象牙のカフスボタンで袖口を留め、エルメスのシルクのタイで胸元を飾り、英国製の上等な生地のスーツを纏い、颯爽とアウディで迎えにくる、そんな馬鹿げたイメージ。でもって数千万円を稼ぐ。いるだろうけどね、こういう人。

自分が31歳になって、さらに驚くべきことに夫になり父にまでなったわけだが、まるで俺はクソを丁寧に漢字で書いて枕詞にくっ付けたいほどの餓鬼だ。想像していた大人の男のイメージから、一日ごとに離れていっているような気さえする。そして残念ながらこれは子供の心を忘れていない、なんていう意味ではまったくない。

もっとも、自分が世の平均よりはるかに馬鹿だと言うほど俺は自虐的な男ではないから、世の男は多かれ少なかれこういうところがあるんだろうと思う。
粗い言い方をすれば、年齢はあまり男を測る尺度としての意味はないのだと最近よく思う。俺は吉田松陰より既に2年以上長生きしているわけだが、29歳までにあれだけの人物を日本に残した松陰先生に比べれば自分の31年はアメーバの何回かの収縮運動程度のもんだろうと真剣に思う。

俺の娘は、いま1歳だ。大人の基準からすれば、すべての意味で彼女は「馬鹿」である。だが彼女を馬鹿呼ばわりする本物の馬鹿はいない。彼女はこれからいくらでも学び成長していけるという可能性を皆が知っているからだ。
そして、程度の差はあれど、20代までそういうことはある程度言えたような気がする。それは、未来が大きく開いて目の前にあったからだ。だから、高校で赤点を何個とろうが悠然と黙殺できたわけだ。

だが、歳を重ねてくると、当たり前だが、俺に残された時間=未来はどんどん小さくなり、自分がそこで成長していく余地も常識的には小さくなる。歳を重ねるということの本質は、死に近づくということではなくて、未来が縮小していくということのなかに感じ取られているような気がする。
こうなれば、自分という人間は、「これからどうあり得るか」よりも「いま現在どうあるか」によって周りから評価されるようになる。ここでは、自分は自分の現在と過去によって評価されるのであって、ありもせぬ未来の自分の株価の上昇など誰ももはや期待しはしない。だから、現在の自分、それを作り上げた過去の自分について一切言い訳ができない。
簡単な言い方をすれば、条件がまったく同じならば、1歳の馬鹿のほうが18歳の馬鹿よりよく、18歳の馬鹿のほうが31歳の馬鹿よりよい。

歳をとるというのは、大河を背にして目の前に聳える要塞を攻め落とそうというときに、少しづつ武器弾薬、食糧や船を焼いて河に投げ捨てることによく似ている。持久戦や撤退の可能性がどんどんなくなっていき、最後には「背水の陣」を敷いて敵の真っ正面へ捨身の突撃を敢行するほかなくなる。

だが、こう考えると、歳をとればとるほど人生から無駄ともいうべきほかの可能性が削ぎ落とされ、ただ一つのことに死に物狂いになって生きていくとう道が拓けるかもしれない、とも思う。男の人生は、単純明快を旨とすべし。秋山好古でした。

結局のところ、人間というもの存在の巨きさは、この一つの道にどれだけ命を燃やせられるかだと俺は思う。背水の陣をしいてから、尻尾巻いて河に飛び込むか、突撃して勇ましく死ぬか英雄になるか。
こういう場面がこれからはますます増えてくるから、格好いい男とそうでない男がくっくりと区別されるようになるだろう。いや、格好よく生きていても、一度間違えれば尻尾巻いて逃げ出すほうになる危険は常にある。危険だ。

だから、この話は結局こういう結論になる。高校時代のヤクザのようなトレーナーが、静かな夜に17歳の俺らにえもいわれぬ気迫を込めて言ったあの言葉。

"人生はなぁ、やるかやられるかなんよぉ..."

2013年6月2日日曜日

憲法96条改正

第九十六条:
この憲法の改正は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行われる投票において、その過半数の賛成を必要とする。

衆参いずれかの33%が反対すれば、どれだけ改憲の必要があろうができないというのは馬鹿げている。
分かりやすく言えば、衆参722人(480人+242人)の国会議員のうちで参議院の80人(国会議員全体の11%)が反対すれば、国民は国民投票の機会され与えられない。日本国民1億2800万の最高法規が、たった80人の反対が故に身動きがとれない。
96条改正反対派は、「9条改正のためまず96条を改正するのはだめだ」などと言うが、9条改憲の是非は議員ではなく国民投票で直接民意を問えば良い。最高法規の改正について民意を信頼しないというならば、我々はなぜにかくも有難くデモクラシーを「民主主義」と誤訳してまで有難く祀って来たのが意味が分からぬ。

「全電源喪失はありえない」という前提で原発の危機管理マニュアルを作っていた国で、全電源喪失が原因のチェルノブイリに次ぐ原発事故が起きたにもかかわらず、いまだに「戦争に備えたら戦争になる」という戯言に耳を貸している暇は全くないでしょう。

「自分の国は自分で守る」という、「人を殺してはいけません」というのと同じくらい当たり前のことを、日本で言えば「右翼」と言われる。
馬鹿じゃないかと思う。いや馬と鹿のほうがよっぽど馬鹿じゃないだろう。