2013年6月12日水曜日

歳を重ねるということ

31歳である。俺が、である。もう二ヶ月が経つ。
自分の認識は兎も角、世間様からすりゃ立派なオッサンの仲間だろう。なんだか変な話だなと思うが、歳をとりたくなけりゃ死ぬしかないわけで、意思でもってどうこうできるもんでもない。

学生の時、ちょっと気になる女の子がいて、この子が社会人とデートに行く〜という話を聞いて、俺は頭のなかでは嫉妬とともに、今となっては北朝鮮の将軍様の肖像画並みに粉飾された大人の男が想像された。ダンヒルの象牙のカフスボタンで袖口を留め、エルメスのシルクのタイで胸元を飾り、英国製の上等な生地のスーツを纏い、颯爽とアウディで迎えにくる、そんな馬鹿げたイメージ。でもって数千万円を稼ぐ。いるだろうけどね、こういう人。

自分が31歳になって、さらに驚くべきことに夫になり父にまでなったわけだが、まるで俺はクソを丁寧に漢字で書いて枕詞にくっ付けたいほどの餓鬼だ。想像していた大人の男のイメージから、一日ごとに離れていっているような気さえする。そして残念ながらこれは子供の心を忘れていない、なんていう意味ではまったくない。

もっとも、自分が世の平均よりはるかに馬鹿だと言うほど俺は自虐的な男ではないから、世の男は多かれ少なかれこういうところがあるんだろうと思う。
粗い言い方をすれば、年齢はあまり男を測る尺度としての意味はないのだと最近よく思う。俺は吉田松陰より既に2年以上長生きしているわけだが、29歳までにあれだけの人物を日本に残した松陰先生に比べれば自分の31年はアメーバの何回かの収縮運動程度のもんだろうと真剣に思う。

俺の娘は、いま1歳だ。大人の基準からすれば、すべての意味で彼女は「馬鹿」である。だが彼女を馬鹿呼ばわりする本物の馬鹿はいない。彼女はこれからいくらでも学び成長していけるという可能性を皆が知っているからだ。
そして、程度の差はあれど、20代までそういうことはある程度言えたような気がする。それは、未来が大きく開いて目の前にあったからだ。だから、高校で赤点を何個とろうが悠然と黙殺できたわけだ。

だが、歳を重ねてくると、当たり前だが、俺に残された時間=未来はどんどん小さくなり、自分がそこで成長していく余地も常識的には小さくなる。歳を重ねるということの本質は、死に近づくということではなくて、未来が縮小していくということのなかに感じ取られているような気がする。
こうなれば、自分という人間は、「これからどうあり得るか」よりも「いま現在どうあるか」によって周りから評価されるようになる。ここでは、自分は自分の現在と過去によって評価されるのであって、ありもせぬ未来の自分の株価の上昇など誰ももはや期待しはしない。だから、現在の自分、それを作り上げた過去の自分について一切言い訳ができない。
簡単な言い方をすれば、条件がまったく同じならば、1歳の馬鹿のほうが18歳の馬鹿よりよく、18歳の馬鹿のほうが31歳の馬鹿よりよい。

歳をとるというのは、大河を背にして目の前に聳える要塞を攻め落とそうというときに、少しづつ武器弾薬、食糧や船を焼いて河に投げ捨てることによく似ている。持久戦や撤退の可能性がどんどんなくなっていき、最後には「背水の陣」を敷いて敵の真っ正面へ捨身の突撃を敢行するほかなくなる。

だが、こう考えると、歳をとればとるほど人生から無駄ともいうべきほかの可能性が削ぎ落とされ、ただ一つのことに死に物狂いになって生きていくとう道が拓けるかもしれない、とも思う。男の人生は、単純明快を旨とすべし。秋山好古でした。

結局のところ、人間というもの存在の巨きさは、この一つの道にどれだけ命を燃やせられるかだと俺は思う。背水の陣をしいてから、尻尾巻いて河に飛び込むか、突撃して勇ましく死ぬか英雄になるか。
こういう場面がこれからはますます増えてくるから、格好いい男とそうでない男がくっくりと区別されるようになるだろう。いや、格好よく生きていても、一度間違えれば尻尾巻いて逃げ出すほうになる危険は常にある。危険だ。

だから、この話は結局こういう結論になる。高校時代のヤクザのようなトレーナーが、静かな夜に17歳の俺らにえもいわれぬ気迫を込めて言ったあの言葉。

"人生はなぁ、やるかやられるかなんよぉ..."