実に、この山桜ブログから遠ざかること久しかった。皆が遠ざかることはもっと久しかったのだろうと思う。
何をしていたかというと、何もしていなかった。
身体も精神も全てある一人の女性に向かって一直線に飛ぶ那須与一の矢のようになり、彼女こと以外を考えることが全くできなかった。
2ヶ月の間、ずっとだ。ずーーーーーーっと。
こんなことをここで告白することは、少し恥ずかしいことかもしれない。いや、絶対にそうだろう。だからこそずっとブログから遠ざかっていたわけで。
だが、生きるだ死ぬだ戦争だ思想だのを一年間に渡って綴ってきたこの場所で、俺が彼女のことを話さなければ、俺はもはやこのブログを閉じるほかないと思った。 そして俺はこのブログを閉じたくはないのだ。
これまでの百数十の記事の全てに共通している唯一つのことは、俺が考えていること感じていることを素直に100%書き記すということだ。
その点において、このブログは他の何かの便利に役立つようなブログなどとは隔絶しているというのが俺の自負であり、自己満足だ。
そうであれば、俺が今彼女について、彼女と俺について書くことなく、復興計画やドアホウ首相の迷走ぶりについて議論することは、キャンプを狼の群れに囲まれた家族が「このステーキおいしいね」と恐れ戦きながら晩御飯を食べているようなもので、どうにも腰が落ち着かぬ。
百人の読者もいないブログだが、この一年で俺は俺の言葉が誰かにとって光明であり得る可能性を知ってしまった。もちろん、誰かにとっては毒であるやもしれぬ。
だから、書き続けたいと思うし、そのために上の理由で彼女のことについて書かざるをえない、そういうやむにやまれぬ必然性があっての下記の駄文であることを先に断っておきたいと思う。
昔、恋愛を馬鹿にしていた。特に学部生のときは、ことさら激しく。
「付き合って下さい」「はい、付き合いましょう」という軽薄な口約束に(軽薄ではなかった人たちへ:ごむぇん)虫唾が走り、ゼミの友人だのが誰と付き合っているだのどうだのという会話を昼食の1時間ずっと続けられる人たちが存在することに絶句した。
はっきり言えば、恋愛なんぞというものは、この個人主義万歳のクレイジーな時代にあって、肉欲と自己愛を道徳的に充足するために方便でしかないと見限っていた。(11月のブログ参照)
だから、そういう「恋愛ごっこ」のごときものをしている人とは、矢張り友達になれなかったし、今でも付き合いが深い友人は、多くの場合大学時代に彼女がいなかった男が多い。
孤独に自分を縛っていた時間をわずかでも持っている男の目は、輝きが違う。
とどのつまり、現代の恋愛とは、「私的なもの」だという観念を俺は捨てられなかったのだと思う。
我々がテレビドラマなどで洗脳されてきた、段階的な恋愛の発展形態の最終的なステージが、セックスという肉欲のぶつかり合いでしかないことは重大な意義を持っていた。
肉欲を開放しそれを充足することが恋愛の最終的な形態であるとすれば、そしてそれが我々「幸福ジャンキー」にとっての至高の価値であるとすれば、生命を保存するという最も根本的な本能に打ち克って戦った俺の英雄達は、ただのかわいそうな「戦争の被害者」になってしまう(実際にそうされている)。
こうして我々は、恋愛を賛美して戦争と英雄達を貶めたのだが、それは実は自己を貶めるということに他ならなかったことに気が付く人は少ない。
公的な事柄において、雄雄しく戦うのが男であり、そういう男を尊敬して愛するのが女性であるという理想を俺は放棄しない。俺が尊敬する男は、皆そうだからだ。
戦後における恋愛というものは、自己の欲求をよりよく満足させることと何が違うのか?と俺は考えていた。戦後日本に蔓延した民主主義・個人主義という包丁で、恋愛という腐臭を放つ魚を捌いてみれば、まな板の上に転がり出てくるのはドロドロした「我欲」以外にはないのだ。
映画「失楽園」の、中年の男女が日常の世界から逃避して、セックスに耽って挙句に服毒自殺(だったよね?)という世界観、それが多くの観衆をひきつけたということは、俺を十分過ぎるほど落胆させた。中年のおばさん達が、現実から映画館のなかでだけ逃避して悦に入って、「あぁ、私もあんな燃えるような恋愛をしてみたい」と思っているのだろうか?と考えただけで、吐き気がした。
セックスを含めた恋愛の無条件の賛美とは、つまり戦後における個人の欲望の無条件の肯定(及びその裏返しとしての公への奉仕の蔑視)と同義であり、それは当然に戦前・戦中を否定して、日本の歴史を断絶するものであると思われた。俺の言動の一貫性を保持しようとすれば、俺は関学で可愛らしい日傘を差して歩くどこぞのお嬢様を捕まえて懇ろになることなど、考えられぬことだったのだ。
だが。
(だが、と言ってしまったからには、ここから俺は恋愛を肯定せにゃならんわけだ。
ここからが、これまでの俺との違い、かな?)
上のように言ったとしても、しかし、我々人間は、恋愛を断固として肯定できる。
恋愛を肯定するというよりも、人間個人の意思の発現の一形態として、これを我々は肯定することができるように思う。
私的な肉欲の充足なんぞに満足せず、さらなる高みへと登っていく恋愛が有り得る。
公的なもの...それはなんだろう。とりあえず、「我欲」を超え出て行くものだと理解するべきだと思う。もっともっとも大らかで、寛大なものだ。
性欲の満足、安全、自尊心、そういう小さなものを超えて、その女性の裡に自分以上の価値を見出すことができるか。 その女性の向こうに自分が暮らす世界を見出すことができるか。
恋愛において「生命尊重以上の価値」(三島由紀夫)を相手のなかに確認することができぬあらゆる”恋愛”は、弱きものの同盟であり、慰み者達の避難所である。
混じりっ気のない恋愛の只中にあって、男が獲得するものは「俺はこの腕のなかに俺より大切なものを抱いている」という栄誉である。この時男が抱くものは、肉ではない。彼女の魂である。
恋愛が永遠の相に進入し始めるのは、まさにここにおいてに他ならない。肉を抱いているだけの”恋愛”では、肉滅びれば即ち愛も滅びる。
論理必然的に、肉が衰退すれば(お互いが年をとれば)、その恋愛は終わる。
そこら中の夫婦にあって、結婚が続いていても恋愛がとうの昔に終わっているのは、こういうことだろう。
そして、自分がそういう大切なものを守らねばならぬ天命を与えられた男だと自覚するとき、男の命はカタパルトにすえられ射出準備の整った空母上の戦闘機となる。近づくと危険だ(うそです)。
エンジン(魂)は暖められ、見渡す限りの海原へ一騎駆け出し天空を目指すための勇気は、この「自分を超える価値」がもたらしてくれるものであって、自分のためだけに勇気を振り絞って戦うことができる男は単なる戦闘狂か仕事中毒者だ。
俺と彼女がこれから生きる時間のなかで、楽しいことが沢山あるだろう。もちろんそれはそうだ。
だが、俺ら二人は、別に輝かしい未来のために、結婚するのではない。
俺ら二人は狼である。サルではない。
将来二人でいたら楽しいから結婚しようと思うのではない。もちろんそんなことではない。彼女との関係は投資ではない。
彼女は、彼女自身でこの瞬間に俺が守りたい全ての価値を体現している、否、その価値そのものなのだ。
これまで、「俺の命は俺を超える価値のために与えられた」と思って生きてきた。というより、こう思えばこそ、これまで生きてこられた。大学で野球と決別してからは、それが何なのかを一人で必死に探索し続けた。このブログにしてからが、そういう俺の取るに足らぬ努力の末端を示している。
俺は、これを見つけた。
自分の目の前にいる人が、自分を大切に想ってくれる人が、自分の全てを投げ出してでも護りたい人である---俺の足りない想像力では、人間という生き物の人生において、これほどの天佑は考えられない。
これは天佑である。
俺にこんな奇跡が起きたことを不思議に思い、天の見えざる力を畏れ、御先祖様に感謝する。
俺と世界にとって、彼女は、人間の真善美を一身に体現して輝く強烈な一個の光である。
彼女は、日本という文明が、弐千年(2000年)をかけて培ってきた、大和魂の結晶である。
以上、インチョン空港14番ゲート前の無線LANスポットより、単なるノロケ話を山桜のリズムでお届けしました~(と最後にボケておくぐらいの平静は保っています!)
みんなよい週末を!