2011年12月17日土曜日

呆け頭の独り言

こんにちは。

よい天気です。
冬だというのに、南を向いた窓の傍の僕の書斎は、右舷45度からの真冬の温かい陽光が黒のアンダーアーマーをぽかぽかに温めてくれて、ついつい読書をしていると睡魔ーなぜこれは睡”魔”なのでしょうねーに襲われてしまいます。
まったく、こういう休日の昼下がりに、妻が淹れてくれたスマトラの珈琲を飲んでいると、ドイツが南欧のひとたちの生活を破綻させてでもハイパーインフレの悪夢を絶対に避けようとしていることや、アメリカが世界帝国たる目標を捨てて)、代わりに確固たる帝国主義国家としての勢力圏をTPPによって東アジア・西太平洋に作り上げようとしていることや、大王製紙の元会長のかつての香港での豪遊や、東電福島第一原子力発電所の怪しい「冷温停止」や、東北の被災地に訪れた厳しい冬のことなどを、完全に違う世界のことのように思いがちなのは、一体全体僕の想像力の欠如の故なのか、それとも一見したところ明らかな幸福の悪しき結論なのか、よく分かりません。
実のところ、最近の仕事における忙しさによって、頭が多少呆けているようです。暖房のせいでしょうかね。

僕の妻のお腹に僕らの子供が生まれたことが判ってからようやく1か月半が経ちました。
もうすぐ妻の妊娠も五か月目になります。
自分が父になる準備が完全にできたと思って父になる男がいないということは、死が眼前に訪れたその瞬間に、なんの後悔もなく健やかに死ねる確言できる男がいないということと同じように思います。
だけど、それでもみなたまに苦悩呻吟しつつ、たまに悦びに泣きながら、父となり、親父となり、爺ちゃんになり、死んでいくのでしょう。
死に向かう道程に数多ある一里塚の一つが、我が子を生み育てることであるとすれば、確かに僕はこの小さな世界のなかを走る自分の一本道の宿場のうちで、疑いもなく最大のものの一つにようやく到達しようとしているようです。だからといって、そのことが意味するものは僕の個人としての偉大さへの接近でも後退でもないことは明らかですから、僕は自分の子供だけを生きがいとして生きるようではいけないわけです。これは、絶対に正しいことです。
というよりも、生きがいがなければ生きられないという弱い男では生きる価値はないし、さっさと死ねばいい。生きがいなんぞあろうがなかろうが、ライオンはシマウマを襲うし、人間は戦争に向かうのです。

なんと言えばいいのでしょうかね。
僕は、足りぬ頭で自分の子供が生まれるということの意味を、論理的に記したいという欲求を抑えることができないのだろうと思います。
だけど、歌い踊ることが常に論理を超え出て行くように、この世界には確かに論理と科学では捉えきれないものがあって、自分の子が妻の子宮に宿っているという事実そのものが、記述の対象ではないように思います。
別に、それを感動的なことだ!と決めてかかっているわけではないのです。
なぜといって、どれだけ個人にとっては感動的で衝撃的な自分の子供の誕生も、統計的に見れば一つの数字でしかないし、産婦人科の看護婦さんからしたら、僕の子供の誕生は、僕がオフィスからお客さんに電話をして話をすることとさして変わらぬことでしょう。

子供が出来ると、死がそれまでよりも身近に感じられるという体験をした人が必ずいるはずです。
新たな命の誕生の予感はーしかも自分の命を引き継ぐ自分の子供ーは、その反対側にあるもの、つまり自分の死を、とても優しい女性的な方法で僕に突き付けざるを得ません。
新しい世代が生まれ、成長していくことは、必然的に、自分が老い朽ちて骨となっていくことと完全に生物学的に連動しているわけですから。

結局のところ、孤独と死こそが我々にとって最も大切な友人なのです。彼らは、常に僕の側にいて、僕を詰り、中傷し、励ましてくれるのです。
妻と子を、人生における救済者としてしまうところに我々男の最大の過ちがあるのです。そうすることによって、男は男であることをやめてしまうのです。いや、それが幸福であるという選択もあるのでしょうが、それは僕が認める「男」としての生きざまではないのです。
むしろ、彼らは、われわれに生きがいを与えてくれる人たちではなくて、家族という最も近い存在でありながらも依然として渾然一体とはなれぬという現実を我々に明証することによって、我々を叱咤激励してくれる、そういう存在なのだと思います。男は、無意味な人生という当たり前の現実から逃げることなく、その荒漠たる砂漠にビルを建てるように自らの意味を打ち建てる場合にのみ、男たりえるのです。
もし、自分の家族が存在しなくなったときに、打ちひしがれてすべての活力を失い末人のような風貌を曝す弱い男を、どうして妻も子も尊敬して憧れてくれるでしょうか。僕は、弱さの故につながりあう二人の関係を唾棄したい。強さと強さーそれは、互いの死を別個のものとして断固として受け入れて、個人としてこの世界に立ち上がった男女の精神の姿勢ですーで結びついた男と女でなければ、世界に「否!」と喧嘩を売ることができる個人は育てられません。

そう理解するからこそ、われわれは、「他人」である家族を愛してやまないのです。

妻が後でぼそっと言うのですが、「誠実であることは孤独だ」そうです。
ふーむ。

ではまた。
最近ノートに書きためていることを書き連ねようと思います。