自分という個人が社会のなかで特別な存在でありたいと思う感情と脈通じるところがあるものでしょう。
自分が生きている時代で世界が終わるとか、自分は世界の大転換の時代に生きているとか。
自分の死が世界の終末や現在の世界のあり方の終わりであると信じたい人は、確かに一定数存在します。
東北での大震災後、こういう言説は強化されました。
そりゃそうです。
映画「ディープ・インパクト」のような世紀末的映画でしか観られそうもない巨大津波が文字通り町そのものを飲み込んでいくところを目撃した我々は、原子力発電所の破滅的な危機も相俟って、世界はもはやこれまでと同じではありえないとか、世界は変わらなければならないとかいう多くの声を聞かされています。
もちろん、それは、多くの利益団体や既得権益者にとって、自分に望ましい方向に社会を変えるための最大の機会であるという大きな理由もありますが、最初に書いた理由からも、恐らくそれだけでは説明できぬものでしょう。
同じ年に、近代国民国家を真っ先に作り上げた欧州はといえば、終わりそうもない金融危機にのたうち回り始めました。
そして、民主主義が必然的に招導する財政における社会民主主義が、論理的帰結として財政危機に至るという現実を我々は目の当たりにしています。
そして、それが破裂したとき世界がどうなるのか、誰しもが固唾を飲んで見守っている、なんてことはありませんね。
大袈裟に言えば、産業革命以降の世界を形作ってきた技術主義と、資本主義と国家主義のアマルガムとしての大いなるシステムが終わろうとしているという時代認識がかつてないほど強烈に意識された年が終わり、新しい年がやってくるわけです。
だけど、新幹線は去年と同じように今年も年末年始の帰省客をいそいそと大量かつ正確に運ぶし、阿呆な芸能人はハワイに出かけ、大衆はその映像を居間のコタツで観させられるのです。
東北が、日本が、どれだけの損害をこうむったとしても、それは日本人1.28億人全員の生活を変えたわけではないし、まして世界をひっくり返したわけではないのです。
我々はひたすらに終わりなき毎日を生きて行かねば、生き抜いていかねばならぬということです。
年の瀬で区切りがつくものなんて、実際のところ何かひとつでもあるでしょうか。
恋愛、夫婦関係、仕事、戦争、外交交渉。
北朝鮮のミサイル、拉致問題。中国の海洋進出。欧米と日本の債務危機。
すべて、今日のこの日にも大いなる問題であるし、来年の元旦にもそうであるし、恐らく来年の年末にはさらに悪化しているのでしょう。
だから、年の瀬だ年賀だといって、ひたすらに流れていく自分の人生や歴史に、なにか決定的なものが生まれるわけではないし、新しいものが始まるわけでもないのです。
むしろ、これだけの危機の年の後であっても、こんなにも普通に正月がやってくることの異常さに注意したい。
そして、そう思うとき、我々の人生はどこまでも、ひたすらに平凡なものだと思い知らされます。
これだけ破滅的と思われ、実際そう言いふらされる地震や危機の只中にあっても、我々が生きているのは平凡なる日常でしかないのです。
人生に意味などない。そうかもしれません。
確かにあるとは言えない。少なくとも、「俺の人生には意味がある」ということを証明することは絶対にできないのです。
肉親を失った多くの同胞に、そう強く言いたいとも思わないし、それが正しいことだとも思えません。
だけど、そうやって平凡な毎日のなかに一度沈み込んでから、泥にまみれて這い上がってくるところに、我々の命が輝く場所が漸く存在するのだと思います。
人生を、「どうせ終わるものだから」と思って享楽的に生きて快楽主義に堕していくことも、あるいは阿呆な宗教者のように人生に大前提的に意味があると考えて熱狂することも、はたまた自分が他の時代とは異なる特殊な時代を生きていると妄想することも、畢竟、格好悪いのです。
格好良く生きよう。
断固たる決意を持って。
俺のために生きてくれたすべての人のために。俺の後に続くすべての人のために。
すべてを受け入れながら、しかしすべてに反抗しながら。
三谷原基拝