2012年9月28日金曜日

絶対的瞬間

今自分がなしていることについて、自ら客観的な視点など持つことなく、ただその瞬間がそれだけのためにあって、それ以外のどんな未来や過去のためにも存在しないとき、我々は最も幸福である。

反対は、例えば、次のような親や教師の言い付けをよく守って他の意思もなく生きる人の危険すぎる生き方だ。

「小学校や中学校ではしっかり勉強しないといけません。そうしないとよい高校には行けません。高校ではしっかり勉強しないといけません。そうしないとよい大学に入れません。よい大学に入れないと、よい会社に入れません。」

今時分にこんなステレオタイプもないか。

この人が、例えば高校生として過ごす三年間は、将来よい会社に入る(よい会社?)ためにあって、その三年間そのものには内在的で独立した価値がないとすれば、彼の高校生活の価値は彼の将来によってしか定められない。そのため、高校生として「この瞬間、どう在るべきか」は全然問題にならない。数字だけがついてきていればよろしい。
彼の高校時代は社会人としてやがて生きる時代のためにあるのであって、その瞬間そのものには価値がない。
もし時代をタイムマシンでワープできるならば、この小学生は23歳くらいまで人生をすっ飛ばして「東京大学法学部卒業」の肩書きとともにどこぞの上場企業にでも入ればよいということになる。お勉強なんて大学の卒業証書を得るための面倒な方策なんだから。

今思えば、高校の時にあれほど「勉強」が嫌いだったのにはこういう理由も少しあった。
大人から、「君らが遊びで野球をやるのも元気いっぱいでいいことだが、勉強しておかないと将来困るよ」と言われる度に俺が舌打ちしつつ上の空で聞きながら感じていたのは、この大人が持っていた、それ自体では無価値と彼らが考えていた「高校生の時間」に対する軽蔑だ。「俺の生き方」に対する侮辱ともいえる。
俺は自分の高校生活が、それ以外のなにか他のもののためにあるなどと考えたことはなかったし、実際それはそうだった。そうでなければあれだけ自信満々で赤点を三年間取り続けられる訳がない。

脱線した。戻る。

今という瞬間が、将来のためにしか存在しないならば、我々にとって将来は絶対に失われてはならないものになる。
今を生きる理由を未来に投射しながら瞬間を意味付けるこの生き方は、この人にとって今この瞬間の死を、恐ろしいもの、絶対に避けなくてはならぬものにする。なぜなら、未来のためだけに過去にこれまで在って、現在在る我々の時間は、未来によってしか意味付けられぬが故に、死は想定されている彼の未来を奪い去ることによって、彼の過去と現在から意味を奪い去ってしまうからだ。空虚な人生が空虚なまま終わっていいと思える人は多くないだろう。

しかし。
そんなものかね。

家族や仲間と囲むテーブルでの食事と会話は、それだけで絶対の価値を持つものだと俺は確信できるし、それは他の何かのためにあるものではない。大学での勉強は、世界の歴史を学び理解し、日本の行く末を考え抜くという大学生一般の「今の」義務のためにあった。それはそれだけで、いくばくかの価値があることと俺には思われた。図書館の地下で独り読書をしている時に「将来のためにバイトもしないと」と阿呆に言われても彼の言葉が最早日本語には聞こえなかったのは当然だ。
そういう瞬間を持てた、持っている人間こそが、言葉の真の意味で幸福な人なのだと思う。

ここでは、マーク・ローランズが言うように(「哲学者と狼」)で言うように、彼のその瞬間の感情はほとんど意味を持たない。家族や仲間との食事は多くの場合、「快」や「喜」の感情をもたらすだろうが、アスリートが緊迫した場面で舞台に立ち、失敗し、期待に答えられず多くの人を失望させたとしても、それでも幸福はここに確かに存在する。それは現代の世俗的な意味での幸福とは質的に異なるものだ。過去も未来も侵入しえぬ現在の瞬間のなかで、一心不乱になって敵と戦うという経験は、実のところ最も愉快で儚い、仲間との語らいとさほど違うところはない。
どちらも刹那的で、それが故にとてつもなく愛しいものだ。我々は、社会を率いるにはまだ若いのかも知れぬが、人生のなかでそんな時間があまり多くないということを理解できる程度には歳を重ねてきた。

そして、そういう瞬間が多いか少ないかは、人生全体の価値に対してあまり関係がないように思える。
ニーチェが言っているが、たった一度だけでも、魂が奥底から揺さぶられるような体験があれば、あなたはどんなありふれた毎日であっても強く生きていけるだろう。腹の底から愉快になってしまう、あの記憶、今を生きる自信。

そうであるならば、つまり人生の価値にとって、上のような絶対的瞬間の数が問題でないとすれば、恐らく人生の長さも人生の価値を決定することはできないということになりはしないか。
俺が特攻隊員や英霊を敬いこそすれ、可哀想な人達だとどうしても思えないのは、まさにこの理由による。
仮に俺が2000年8月に野球をやめた後交通事故で死んでしまっていたとしたら、それはそれで一人の信号を無視したバカタレの、それなりに真っ当な一生と総括できたんじゃないかと思う。

繰り返して言うが、この瞬間に意味はないという人にとって本当にこの瞬間に意味はない。無意味なのだ。なのに生きている我慢強さには敬服するが。
自分が今まさに、有難くも生きているまさにこの刹那に価値があると思えぬ者は、何をどうやってもこの瞬間に価値を与えられるような強い生き方はできないだろう。
それは自らの人生を毎日毎日朝っぱらから諦めた慰み者の言い訳だ。

こう考えてみると、人生の価値にとって最も大切なものがはっきりと姿を表してくる。
それは意思だ。腐り切った雑誌やテレビが吐く「幸福」が最重要なわけではない。
循環論法というか禅問答というべきか知らぬが、何かを信じて一日一日を丁寧に、根気強く、仏像を少しづつ彫っていくように、刀を鍛えるような生き方にこそ、明るい価値が宿る。
だからこそ、信仰は偉大なのだと思う。
「最も大切なあなたは、すべてを失った後に残るあなただ」(マーク・ローランヅ)

もう寝よ。
長過ぎて誰も読んじゃくれないだろうな。別に長くなけりゃ誰かがーなんて甘えたことは考えておらぬが。
まぁ、誰か、たった一人でも。10年後でも、50年後でも。
たった一人で書いたんだから。
いや、それはちょっと違う気がするな。

2012年9月23日日曜日

スタバとiPhoneが人間の全てであるならば

「...ゆえにこれが引き起こした騒乱は西洋とイスラームの全面的な闘争となる。ルジャンドルが繰り返し口にする『表象の戦争』とはこれだ。すなわち、クルアーンというテクストのフィクション、その『合法性』に基づいて自己を創設するイスラームと、世俗化や神の死というフィクション、[国家]を枢軸とする政治的フィクション、そして『純粋理性』『美』『芸術』などの近代的理念というフィクション、その『合法性』に基づいて自己を創設する西欧近代との、際限のない闘争」

「野戦と永遠」の294ページ。
1988年の「悪魔の詩事件」についての記述の一部である。イスラムを冒涜するものとされたサルマン・ラシュディによる「悪魔の詩」に対して、今のように各地でデモを引き起こしインドやパキスタンでは死者も出た。

反米闘争を「テロ」だと紋切り型に断罪してしまってはいけないなどとありふれた事を言いたいのではない。

世界には、スターバックスでコーヒーを飲みながらiPhoneとかiPadとかいう奇怪な機械を指先でクリクリと操り、好きなものを好きなだけ喰らって肥え太ってからモルモットのようにトレッドミルの上でドタバタ喘ぎ、好きなだけセックスをしてからなんとなしに結婚し、仲が悪くなれば離婚して、会社に与えられた利益とかいう得体の知れない、実体がどこにあるのかも分からないものに縛り付けられ、資本主義マネージメントという宗教に汲々と媚び諂って生きることが、最も高貴な生き方だとか、そういう生き方しか最早ないのだとか、それが人間が最終的に辿り着いた究極の生の在り方なのだとか、そういうふうには考えていない沢山の人達が生きているということだ。

「新しいものとの新しい関係ではなく、古いものとの古い関係でもなく、『古いものとの新しい関係』のなかから、自由を紡ぎ出さなくてはならない」

ー「野戦と永遠」p.300

なんと愉快な言葉だろう。

繰り返し生起することの肯定。
繰り返しなされることの受容。
そのなかにおいて30世紀へと続く21世紀の保守主義は、何を見出し物語ってみせるのか?


独り言。
何年経っても同じことを言っている人間は、ー俺がそうであるような気もするがー阿呆かもしれない。その年月の間、自分の精神というOSの更新をしてこなかった可能性がある。自分の考えを紛いなりにも持とうとすれば、不断の自己批判を継続せにゃ恥ずかしくて「自分の考え」などと言えたものではない。
だが、思想なく、時代が流す情報と言葉にただ従順に従っているが故に前に会ったときと言うことが変わっているだけの人間には塵芥ほどの価値もない。

2012年9月16日日曜日

歴史

ツキュディデスもリシュリューもビスマルクもメッテルニヒも今や年老いたキッシンジャーも、彼らが見てきた国際政治における国家の対立と戦争を、現在の中国と日本、韓国と日本の関係と区別することはないだろう。
そもそも自分たちは平和国家であって、過去のように戦争なぞせずともこの世界を生きられるという馬鹿げた思い込み(或いは時代遅れの戦略)は、過去を生き、過去に戦争をせざるを得なかった人たちよりも自分たちのほうがひとつ上の立場にあって、過去の馬鹿は戦争をしたが自分たちは違うのだという傲慢と救いようのない勘違いとナルシシズムに由来するものだ。或いは、彼らは自分たちは20世紀の悲惨な戦争の歴史を知っていると言うやもしれぬ。だが、第一次世界大戦のときの指導者たちもペロポネソス戦争や30年戦争やナポレオン戦争やその他の多くの戦争を知っていたのだ。知らなかったはずがない。だが、それから二度も世界大戦は勃発したし、その後も戦争は絶えたことはない。
マルクス主義につながるヘーゲル的な唯物史観の歴史哲学は、ひとつの究極的な世界史の到達点として人類は絶対平和を確立するか、若しくは人類皆揃って破滅するかのいずれかになるだろう。
つまり、世界史は、「終わる」ということだ。核戦争により人類が滅亡して終わるのか、それとも世界政府が世界を支配して国家間の友好・対立という世界史が終わるのか。
いずれをとるとしても、世界史は大きなひとつの流れのなかにあって、それは不可逆的であって、客観的な法則に支配されていて後戻りなぞしないーこういう幼稚園児レベルの歴史哲学が、特殊な世界観に根差したものであるということが長く日本では隠され続けてきたように思う。
自分の祖国はもはや老いゆくだけの古ぼけた島国で、若者が活躍しなければならない理由が高齢者の年金と医療介護費用を負担するためだけだと若者が感じているとしたら、彼らの肢体になんの緊張感もなく呆けた面をさらしているのも幾分理解できるところがある。

だが。
この竹島や尖閣を巡る対立が、日清戦争や日露戦争や大東亜戦争を引き起こした原因とは全然異なるなどと言うことは正しいのだろうか。
これらの対立は、今や経済的な相互依存がかつてないほど深化したグローバリゼーションの時代における一部の馬鹿な政治家のアクロバットによる、「ブラックスワン(黒い白鳥=通常はあり得ないと考えられていること)」だと理解するべきなのだろうか。

歴史は繰り返すなどと陳腐なことを言いたいのではない。
だが、我々が生きる時間は膨大なのだ。あと5年で世界が終わるのならば、人類が消えてしまうのならば、それが確かに確証されるならば、もしかしたら我々は運命をともにする世界共同体として、世界規模の絶対平和を実現できるかもしれぬ(たぶんこの場合には、そうはならずに予定より早く人類は自らを滅ぼしてしまうような嫌な予感がするが)。だが、我々が生きる時間は長いのだ。人によっては絶望的なほどに。だから世界は終わるという幻想はここ百年と何十年の間、やたらと人気で歴史哲学の人気ランキングで常に一位を座を占めてきた。まぁ、分かりやすくて物語りやすくてなんだか格好いいような気もするから、お子様には見栄えがいいのだろう。
しかし、古今東西の歴史をすべて学び過去のリーダーがどういう場面でどういう決断を下しそれがどういう結果となって今に繋がっているかを強く自覚する大の大人であるならば、世界史の理解を自分の嗜好によって決めるはずがないし、どんなことも(再び)起こり得るものとかまえておくべきだろう。

道を歩けば犬の糞を踏むことがある。
居酒屋のトイレの排水溝から巨大なゴキブリが飛び出してくることがある。
ワシントンの地下鉄でスーパーヘビー級のおばさんのピンヒールで足を踏まれることがある。
突然大好きだったあの子と結婚することがある。

世界とはそういう意味不明で、混沌としていて、容易には理解しがたいものだ。
だってそうだろう。GDPで二位と三位と十五位の国々が、そのGDPからしたら毛ジラミほどの小さな島を巡って戦っているのだから。これを合理的に説明できる人がいるだろうか。いやしないだろう。日本人たちの言う、戦後の平和というものこそが「ブラックスワン」であって、今我々が目撃していることこそが、過去数百年の人類の歴史における通常の国家同士のあり方ということにさして誇張はないだろう。

俺は、そうだからこそ人間が好きだ。
人間も国家も世界史も、クソガキどもが理解するにはまだまだ巨きなものなのだ。だから、退屈している暇はないし、本を手放すことも無理な相談だ。


さて、独り言。
ちょっと嬉しいもので。
DCへのフライトが日曜日で今日は一日空いたものだから、市内を散歩。ふいに見つけたBarbourでずっと欲しかったワックス塗りのInternational Jacketを調達。
日本で買える値段のちょうど半分くらいだから、よい買い物。防水使用で最高に格好いいから、秋から春に優子丸を連れて遊ぶときにはこれにハンチングですな。
もちろんMade in England。50歳まで大切に着ようっと。
Piccadelly Circus駅からRegent StreetをOxford Circus駅方面に徒歩3分のところにお店があります。キルティングジャケットを含めて、スポーティで機能的だけどどこか大人っぽいものが沢山あります。
http://www.barbour.com/

2012年9月11日火曜日

何をなすべきか

亜米利加の保守主義がDogmaticになっているように思います。
たとえ亜米利加という国の保守主義が、近代西欧における、たとえばEdmund Burkeのような保守主義とは異なるとしても、男と男が合法的に結婚して養子をとり育てることが合法的に行われている今、「中絶は禁止するべきだ」というのは、あまりに教条主義的です。ほとんどいつかのマルクス主義者のようです。夢想家かと言いたい。
それが保守主義が死んだとされる理由でしょう。
(ファリード・ザカリアがTimesに少し前に書いていました)
太平洋を越えた日本においても状況はほとんど同じで、保守主義者といえば、産経グループのような親米派の反中韓の一群を意味するばかりで、彼らは外交・安全保障においては活発に単純すぎる主張を繰り返すものの、社会保障・社会規範などについてはせいぜいが共同体としての家族の重要性を唱える程度です。もちろん論壇において朝日新聞的な「リベラル」に対抗する一つの軸としての価値はあるでしょうが。
これからの保守主義は、世界の現実に対して何を以って応えるのか。
何を保守すべきで、何を保守すべきでないのかを、過去において保守主義者と目された偉大な思想家たちはどのように認識し判断し論じ、社会に影響を与えてきたのか。
彼らが生きた時代よりも、現在のほうが圧倒的に困難な歴史上の大転換点である、などとは夢にも思いません。
Burkeに代表される近代保守主義(=Historical Utilitarianism)が、計量的な功利主義とは如何に異なるかを論じることによって、またその論理の内外を規定することによって、現実社会の必要・緊急に応えながらも(Utilitarian)、単なる現状追認に堕すことなく「特定の価値」を主張し、実際的な政策論の要求に応えることができる思想としての日本の保守主義を僕は確立したい。
ニーチェの僕への影響が、僕のBurke理解にどういう影響を及ぼすのか自分でも非常に感心があります。
今の僕は、言うなれば「ニーチェ後」の山桜です。

2012年9月4日火曜日

ここはやはりニーチェ

なんじ独りなるものよ、今日は、なんじなお多数者のために苦しんでいる。今日は、なお勇気と希望とを持っている。しかあれど、いつの日か、孤独はなんじを疲労せしめるであろう。いつの日か、なんじの矜持はせぐくまるであろう。なんじの勇気は難破するであろう。いつの日か、なんじは叫ぶであろう、ー「自分は寂しい!」と。
いつの日か、なんじははや自己の高さを見ないであろう。自己の低さをのみあまりに近く見るであろう。なんじの有たりし崇高なるものすら、幽霊のごとくなんじを畏怖せしむるであろう。いつの日か、なんじは叫ぶであろう、ー「一切は虚妄である!」と。
孤独なる人間を殺そうとする感情がある。殺すことができなければ、この感情は自らが死なねばならぬ!なんじはよく殺戮する者となりうるか?
同胞よ、なんじはかの「軽蔑」という言葉を知っているか?また軽蔑する者に対してなんじ自身を公正ならしめんとする、なんじの公正の苦悩をば知っているか?
なんじは多数者を強要して、なんじについて改め学ばしめんとする。これに依ってかれらは、なんじに含むのである。なんじは彼らに近づき、しかも通り過ぎ去った。これをかれらは宥すことができない。
なんじはかれらを超えた。なんじが登ること高ければ高いほど、嫉妬の目はなんじを小さく見る。しかして、飛翔しゆく者は最も甚だしい憎しみを受けねばならぬ。「いかならば、なんじらがわれに対して公正でありえようぞ!」ーとなんじは言わねばならぬ。「われは運命の当然の分前として、なんじらの不公正を選び取るのだ。」
かれらは孤独なるものにむかって、不公正と汚穢とを投げつける。されど、心せよ、同胞よ、もしなんじが星であろうと願うならば、彼らに対し光り輝くことこの故に薄くあってはならぬのだ!
さらに、善き者、義しき者を警戒せよ。自己のために道徳を作り出すものを、彼らは好んで磔刑にする。ーかれらは孤独なる者を憎悪する。
神聖なる単純をも警戒せよ!この女などとっては、単純ならざる一切のものは邪悪である。この女は好んで火をー焚刑の火を弄ぶ。