2012年9月11日火曜日

何をなすべきか

亜米利加の保守主義がDogmaticになっているように思います。
たとえ亜米利加という国の保守主義が、近代西欧における、たとえばEdmund Burkeのような保守主義とは異なるとしても、男と男が合法的に結婚して養子をとり育てることが合法的に行われている今、「中絶は禁止するべきだ」というのは、あまりに教条主義的です。ほとんどいつかのマルクス主義者のようです。夢想家かと言いたい。
それが保守主義が死んだとされる理由でしょう。
(ファリード・ザカリアがTimesに少し前に書いていました)
太平洋を越えた日本においても状況はほとんど同じで、保守主義者といえば、産経グループのような親米派の反中韓の一群を意味するばかりで、彼らは外交・安全保障においては活発に単純すぎる主張を繰り返すものの、社会保障・社会規範などについてはせいぜいが共同体としての家族の重要性を唱える程度です。もちろん論壇において朝日新聞的な「リベラル」に対抗する一つの軸としての価値はあるでしょうが。
これからの保守主義は、世界の現実に対して何を以って応えるのか。
何を保守すべきで、何を保守すべきでないのかを、過去において保守主義者と目された偉大な思想家たちはどのように認識し判断し論じ、社会に影響を与えてきたのか。
彼らが生きた時代よりも、現在のほうが圧倒的に困難な歴史上の大転換点である、などとは夢にも思いません。
Burkeに代表される近代保守主義(=Historical Utilitarianism)が、計量的な功利主義とは如何に異なるかを論じることによって、またその論理の内外を規定することによって、現実社会の必要・緊急に応えながらも(Utilitarian)、単なる現状追認に堕すことなく「特定の価値」を主張し、実際的な政策論の要求に応えることができる思想としての日本の保守主義を僕は確立したい。
ニーチェの僕への影響が、僕のBurke理解にどういう影響を及ぼすのか自分でも非常に感心があります。
今の僕は、言うなれば「ニーチェ後」の山桜です。