歓喜はいつも迫り来る絶望の足音を静かに、だが確かに響かせる。
絶望はいつもこれが地獄の底だという希望の曙光を見え隠れさせる。
大人の男が一喜一憂していけないのは、歓喜に咽び泣き絶望に伏しているような暇なぞ彼にはないからだ。いちいち昂ぶっている余裕はない。狼は鹿を逃しても絶望などせず、眈々とまた次の獲物を追う。それを狼達の知能が人間ほどに十分発達していないからだと大抵の者は考えがちだが、それは生き物全てを人間と同じ定規で測るが故の錯誤に違いない。
今日の客観的な幸福なぞ明日のなにものかが静かに奪っていくだろう。
また今日の主観的な絶望が永遠に継続されうるほどには我々は強くない。
やがて時間が彼から全てを奪っていくだろう。家族、本、仲間、思索、記憶、怒り。すべて。
今、自分にとって大切だと思っているもの、命を懸けて守りたいと思っているもののすべてを最終的には失ってしまうのだとすれば、我々の人生は、9回裏2アウトまで無安打に抑えてきた投手がそこから一気に逆転サヨナラ負けを喰らうような、そんな不細工なものなのだろうか。人生とは逆転サヨナラ負けを宿命付けられた一つの笑えない喜劇でしかないのだろうか。
否、否、三度迄も否。
人生において大切なことは、愛する妻がいるとか可愛い娘がいるとかそういうこととは関係がない。彼らがいるから俺の人生が幸福なのではないし、いないから不幸になるわけでもない。少なくとも俺にとってはそうである。
確固たる強烈な精神の基盤は、自分の存在理由を自己の精神の外部に求めるような生き方によっては獲得されえないだろう。
それが人間同士の繋がりなのだなどと、ニーチェはそんなことは一言も言っていない。ニーチェが批判し続けたキリスト教(新約聖書)はそんなことを沢山言っているが。
では何が大切であるか。
たぶん、それはあなたがあなたの家族や仲間に対して、天が命ずるところの「なすべきこと」をどんな代償を払ってでもなそうとする断固たる意思なのだ。その意思を持って生きたその瞬間なのだ。
家族や恋人の存在という客観的事実そのもののなかに、人生において最も大切なものが見つけられるのではない。それ=家族は、意思と社会を繋ぐ誰にも分かりやすい一つの媒介に過ぎない。だから、幸せな家庭生活そのものには意味はない。
やがてそんなものはなくなってしまうのだから。
こう考えると、人生はとことんまで唯我独尊の道であると分かる。全ては自分の意思のままなのだ。
そして意思は常に自己の内部に発するものであるが故に、それは必ず外部に向かう。
我々は、「自己に対して意思する」ことはできないのだから。そしてその意思は、それ自体我々にとって華である。意思が達せられようが達せられまいが、存在する者にとってはそれより大切なことがある。
あぁ、思考の無駄か。
こんな時間に。車の音さえしやしない。いやな夜だ。でも夜が無ければ俺の暮らしは真っ暗闇だ。