2012年10月19日金曜日

ヘーゲル「精神現象学」より其の弐

「実体の性質や状態として偶有的なもの、他のものと結合された連関においてのみ現実的であるものが、それだけで周囲から切り離され、自分に固有の現存在と独自の自由とを得るということは、否定的なものの巨大な威力である。これは思考の、すなわち純粋自我のエネルギーに他ならない。分割された諸規定のあの非現実性を死とよぶとして、死こそもっとも恐るべきものであり、死せるものをしっかりと捉えることは、最大の力を必要とする。無力なる美は悟性を嫌悪する。美がなしえないことを、悟性は要求するからである。しかし、死を忌避し、破壊から逃れてあろうとする生ではなく、死に耐え、死のなかで自分を維持する生が、精神の生である。」

「精神は、自分自身がまったく引き裂かれたなかにあってこそ、自分の真理を獲得する。...精神の威力は、否定的なものに面と向かってそれを直視し、そのもとに身を置くという、まさにこのことに存する。否定的なもののもとに身を置くことが、それを存在へと転ずる魔法の力なのである。」

ここで想起すべきは、「もっとも大切なあなたは、あなたの大切な全てを失ったあとに残るあなただ」ーマーク・ローランヅ。
ここでヘーゲルが、「存在へと転ずる」と言っていることは重要だ。けっして「幸福へと転ずる」ために、否定的なもののなかでそれを直視せよと言っているのではない。「狼にとって大切なことは、存在することだ」。

俺が勤める会社の先輩に、「DCのどんなところに住んでんの?」と訊かれたので、「街中のマンションです」と答えると、別の先輩が、「こいつの部屋、テレビもソファもベッドもテーブルもなにもない部屋なんだよ」と言った。まぁそこまではどこにでもある話。解せんのは次。
これを聞いた最初の質問をした先輩がこう言ったのだ。
「そんなになにも持たずに暮らしてて、明日死ぬことになって後悔しないの?」
「こ、こ、航海?パードゥン???」
幸いなことに俺にとっては、死ぬ前にテレビやソファなどを所有していることは、死ぬ前に全然問題にならない。なぜ死ぬというのに所有していないといけないのか?
常に我々にとっての問題は、存在の在り方であって、具体的には精神の在り方だ。その肉体が、何を所有しているか、或いは所有していたかなど、笑止の議論だ。黄泉の国でソファに座ってお笑い番組でも観るつもりか。
あーびっくりした。