吉備津彦神社にて。
備前国一宮。旧社格は国幣小社。
似た名前を持ち、同じ吉備の中山に鎮座する「吉備津神社」はこれより少し格が高く、旧社格は国幣中社で備中国一宮。
この神社の北方には、各末社が祭られているのだが、その一つに温羅神社というものがある。その御祭神は、”温羅属鬼乃和魂”である。この温羅とは、吉備津彦神社が祭る大吉備津彦命に討たれた鬼・温羅の魂である。ちなみに、この大吉備津彦命による温羅退治の話は、お察しの通り、岡山の桃太郎伝説のルーツである。
日本では1000年以上前から御祭神が打倒した敵の魂さえ同じ境内で祭ってきた。
150年前に北米大陸に先に住んでいた”インディアン”を絶滅させた新アメリカ人にも、恨(ハン)の文化の韓国人にも、朝廷が変われば旧皇帝とその一族は悉く皆殺しにする中国人にも、この精神性はないだろう。
だが、だからこそ、日本人は我々日本人自身の宗教(それは多くの場合、明示的に宗教的な形態をとらぬものであるが)について深く内省し、かつて神道が仏教に対抗する形で神殿や鳥居の形式を備えたように、神道における「カミ」のなんたるかを、論理とともに(論理だけでは論じきれない)語り伝える努力をせねばならないのだと思う。それがLocalist(地元人間)であり、Nationalistであり、同時に世界規模の日本人たるべきの一つの要件だろう。
日本人のこの”出鱈目さ加減”、鬼も神も一緒くたにして何の痛痒も覚えぬこの和の精神を、日本人以外の誰も理解しはしないという断絶の意識から始めなければならない。いや、そもそも我々日本人自身がこのことをはっきりとは理解していないに違いない。
日本は面白い国だ。世界のどんな国よりも、吉備津彦神社の歴史を学ぶことの方が面白いかもしれないと大真面目に思う。
我が祖国は、歴史の豊饒さにおいて真に光り輝く国であり、それを精神的に象徴するものが神社であると感じた新年の初め。
大山国際スキー場(鳥取県)。
Pont Neufにたまたまあったグランドピアノ。
言っているのは、「わたしの帽子~ッ!!!」。
従姉妹の藍子さんとの戦い。