2010年12月4日土曜日

国防の論点

日本人が誇りある国家を維持するために必要な、将来のために議論すべき安全保障政策における論点:
あくまでも、「将来のために」であるから、たとえば「日本には戦闘機を空母から射出するカタパルトを作る能力がない」などと批判せぬように。それはとりあえず枝葉のことだ。
今般の朝鮮半島危機への対応について、自民党などの野党は「危機管理がなっとらん!」と民主党政権を批判していたが、根本的な国防についての議論が、これだけ重大な事態が起きた後でさえ始まりそうにない。この国は、正しく、ヤバい。

一つ、徴兵制を導入すべきか否か
一つ、現有の限定的な対地攻撃能力に加え、潜水艦発射型および水上戦闘艦発射型の対地攻撃ミサイルを保有すべきか否か
一つ、航空母艦を導入すべきか否か
一つ、核兵器及びそれを運搬するシステム一式を導入すべきか否か
おまけ、憲法を改正し、自衛隊を「日本国海軍、空軍、陸軍、(海兵隊)」とすべきか否か(議論の余地なしと認む)

俺は6年前からずーーーーーっとこれらを言い続けてきた。
ある時などは、姉貴から、「核兵器を持ったら核兵器で攻撃される!」と意味不明かつ歴史的にもなんら立証されていない頓珍漢極まりない暴言によりヒステリックに非難された。(あれは少しショックだった。俺は大まじめなのに家族にさえ理解されぬ!と青臭く自虐的になったもんだ)
(事実:歴史上、核による攻撃を受けたのは、核武装していなかった日本のみ。最近では、核実験をした北朝鮮は生き延びて、核兵器を持たなかったイラクのフセイン政権は打倒された)

で、上のように言うは何故か?

・日本は民主主義の国だ。平等な国だ。少なくとも建前は。
であるならば、国防の責務は総ての国民が平等に分担してしかるべきだろう。だから徴兵制を敷くべきかもしれない。議論の余地は十分にある。

・対地攻撃能力を保有しない国は真の意味で「抑止力」を持ち得ない。弾道ミサイルによる攻撃に対する報復攻撃を単独で行えないならば彼我の間に相互抑止は成立していない。
戦闘を、「我が意思を相手側に強制することを目的としておこなわれる実力行為」と定義するならば、意思的・能動的に運用しうる打撃力こそが抑止力の本質であり、抑止力こそが軍事力の中核とされるべきである。
今日の戦争においては、その極めて高精度の兵器投射能力とそれが依存する情報ネットワークへ重要性と脆弱性のために、核兵器ほどではないにしても、先制攻撃を行う側が極めて有利に戦争を戦えるのではないかと思う。
クラウゼヴィッツのいう「絶対的戦争」は蘇るのか。それとも、これから東アジアで起こりうる戦争とは、政治に従属した、政治の手段としての戦争にとどまるのか。我々は、大局的な視点からこれを推察し以て将来の国防の備えとなさねばならぬ。

・近隣の大国が空母を運用することは時間の問題だろう。米海軍のレベルに至るには未だ数十年を要するとしても。空母艦隊が持つ戦術・戦略上の意義とはなにか。
それはまず、圧倒的な空間支配能力であり、次に対地攻撃能力を伴う兵器システムが海上を自由に移動しうる機動性である。海上を自由に移動する空母は、その名の通り航空機を搭載する。米軍の空母一隻には30機程度のF/A-18スーパーホーネットが搭載されているが、この戦闘攻撃機による行動半径は実に数千キロに及ぶ。同時に空母は、多くの対地・対水上攻撃用の兵器運用のための海上移動基地とも言うべきであり、沿岸国からしてみれば、敵性国の空母が近海に遊弋するということは、自国の隣に突然敵の航空基地ができてしまうようなものだ。巡洋艦・駆逐艦からなる艦隊と、米海軍の空母打撃群はこの点において同じ「船」であっても決定的に異なる。だからこそ、米国は世界のどこにでもいつでも空母を派遣できる態勢を未だに維持しているし、有事があればワシントンのオバマ大統領は、「一番近い空母はどこにおんねん???!!!」と尋ねるのだ。

・中国、北朝鮮、ロシア、アメリカ、日本は四つの核兵器保有国に囲まれている。この状態にあって、「日本は唯一の被爆国だ」と言う奴はクレイジーだ。あってはならぬことだが、もし三度目の悲劇が起きたとして、それでもその人は「日本は唯一の被爆国だ」と言えるだろうか?
最大の問題は、「核武装すべきだ」と言った途端に、この国の政治家は政治生命を脅かされることになるということだ。それが自由な民主政治の国のあるべき姿か?政治に教義も至上の法典もない。
守るべきものは、我らの国の未来。たとえそれが悪魔との契約を必要とするものであったとしても、この目的の為に、あらゆる手段は道徳的である。

今の日本は、戦前戦中の「天皇陛下万歳」と「鬼畜米英」を「平和憲法万歳」と「核兵器廃絶」に置き換えただけなのだ。
何も変わってはいない。何も。(誰の真似でしょう?わかるかな~)



2010年12月2日木曜日

やること。

完全に気が早過ぎるのだが、昨日落書き帳に書いたのでここに書いてしまおう。

来年やること!

一つ、八丈島の砂浜で野営
一つ、横浜港で60cmのシーバス
一つ、標高3000m以上で野営、朝日を見ながら上半身裸で腕立て
一つ、BMWでバックで100km/h走行(映画"トランスポーター"のJason Stathamのイメージ)
一つ、BMWでのサーキット走行(目指すは220km/h)
一つ、欧州縦断BMW暴走の旅(The Netherlands ⇒ Miditerraniean、イタリアでLamborghini Gallardoのパトカーに速度超過で捕まってオマワリさんと仲良く記念撮影)
一つ、秋田の鶴の湯温泉2連泊
一つ、サイパン・グアム・テニアン顕彰・慰霊の旅(8月)
一つ、錦江湾で桜島を見上げながら"桜島"をアカペラで歌う
一つ、山田方谷先生についての全著作精読

楽しみだ。

昨日のトレーニング:

チンニング:5 reps x 5 set
ベントロー(35kg) : 10 reps x 3 set
プッシュアップ:20 reps x 3 set
シュラッグ(35kg) : 20 reps x 3 set
フリースクワット(0kg) :50 reps x 1 set
ジャンピング・スクワット:20 reps x 1 set
ショルダー・プレス(35kg):10 reps x 2 set

昨日の夕食:

・わかめうどん一杯
・リンゴ一つ
・ドライバナナ一袋
・ヨーグルト
・プロテイン

筋肉をチワワ2匹分増やす!!!
目指すは燃費最悪の身体!!!
将来は60歳で140km/hのストレートと125km/hのチェンジアップを放る変な爺!!!
高齢化社会を肉体的に乗り越えるのだ。
50mを7秒で走る爺だらけになればいいわけだ。

2010年11月30日火曜日

福武總一郎氏の話を聞いて考えたこと

11月27日の夜、Bennesse会長の福武總一郎氏の話を聞く機会があった。
立場のある人なので、総てのメモをここに公開(というほど大規模なブログではないが)することはできないが、特に俺が伝えたいと思うところは備忘録として残しておきたいと思う。
長いので、時間のあるときに読まれたい。

・日本の人口は減少し始めたのに、東京の人口は増えている。日本では、未だに「大きなもの」がいいという価値観が保存されてしまっている。滅びる前の恐竜のようだ。
・Harvard Business Schoolを全く評価していない。金儲けのため作戦をひたすら事例研究で勉強している。
・会社は一人ではできぬことを志を同じうするものが集まって実現する場所だ。だから、その目標に一致できぬものは出ていけと父(福武哲彦氏)に言われた。
・プリミティブ(原理的な)なことを深く、いつも考えることがなにより大切だ。なんのため生きるのか、なんのために働くのか、人生とは何ぞや、云々。
・この日本に未来なぞない。絶対にない。リーダーも生まれない。こんな借金だらけの国にした者たちに対してどうして若者は怒りをぶつけて行動しないのか理解できない。
・この国の教育は最悪だ。明治以来、日本の教育は「強い個人」を作ることを怠ってきた。強い個人なくば民主主義は機能しない。東京の官僚にすべてを決められておかしいと思わないのか。
・東京の人間はPassiveだ。”楽しいもの”が身の回りにたくさんあるから、ほっといても退屈はしないからだ。東京に幸福はない。
・会社は、売上や利益の大きさは兎も角、社会から尊敬される存在でなければだめだ。
・ゆっくりとやってくる環境危機に誰も本気になっていない。集団ゆで蛙だ。エコで金儲けを企む者は多いが。
・電気自動車普及委員会の会長を務めている。この会の代表幹事は岐阜県各務原市の改造電気自動車製造メーカー”ゼロ・スポーツ(http://www.zerosports.co.jp/index.php”の中島氏。現在世界に9億台走っているガス車を、電気自動車で置き換えるには時間がかかりすぎる。ガス車を電気自動車に改造する方法なれば、安価かつ迅速に電気自動車への切り替えが可能だ。
・幸福に生きるためには、幸福なコミュニティが必要だ。
・宗教なぞよりも、自分の祖先を敬え。自分の家族の墓を大事にしない奴はクソだ。それは自分という人間に柱がないということだ。そんな人間はどうにもこうにもしようがない。
・お代は幸せの対価。金を儲けたいと思うなら、どうすれば人を幸せにできるかを寝ている時も考えろ。そうでなければお金は自分のところには来ない。

地位のある人の特権の一つは、当たり前のことを平然と偉そうに言えることだ。それは特権だ。
上の羅列のなかにさして新しい情報なぞない。だが、自身で事業を劇的に拡大・発展させた人がいうのと、サラリーマンが赤ら顔で講釈を垂れるのとではやはり判然と違う。そこにはかつての実行の影が常にちらつくために、それが迫力となって言葉に力を与える。

この人物の反骨心、権力、中央に対する反骨心はものすごいものがある。未だに本社はBenesseの東京ではなく岡山にあるし、現代アートで世界的に有名になった直島も瀬戸内海の小さな島だ。彼曰く、「あれが東京にあっては意味がない」。

ポンヌフに向かう車中で親父と話をした。水島の三菱自動車がコルトなど小型車の生産をインドネシア(だったはず)に移管する。これで、親父の推定では5000人の規模で仕事を失う人がでる。俺が勤める会社の従業員+1000人である。家族5人なら2.5万人。ついに倉敷にも、日本の国際競争力低下のさざ波は大波となって押し寄せてきた。瀬戸の海はいつも穏やかなのに。

前グーグル・ジャパン社長の辻野氏が、著書「グーグルで必要なことをみんなソニーが教えてくれた」のなかで、カルロス・ゴーン氏と面談をした際のゴーン氏の発言についての記載がある。ゴーン氏は、「(日産の社長に)就任したときは、問題があまりに大きいので、これは大きなチャンスがあると思った」と言ったそうな。
この理屈で言えば、また日頃倉敷出身の俺が東京で感じていることを言えば、東京こそが茹で蛙だ。美しく着飾り、壮麗な邸宅に住みながら茹であげられる蛙だ。
街にはピカピカに磨かれたジャガーやBMWの旗艦車種がごろごろ走り、フェラーリやベントレーも少なくない。日曜日に丸の内や表参道や六本木に行けば、「あぁ、日本はまだまだ豊かだな」と誰でも思うだろう。また、多くのグローバル企業が本社を置き、一部上場で数千人規模の大企業はリーマン・ショックから立ち直り概ね堅調な様子だ。だからこそ、日本の若者は地方を捨ててこの東京に淡い夢だけを手にやってくる。要するに、東京にはまだまだ富があるのだと思う。

このことは、東京を日本で最も保守的な街にしているとは言えないだろうか。
東京で衣食住と教育・医療に困らない生活をしたければ、大企業に就職するのが最も安定的で堅実だ。世界的に見ても、トップレベルではないが、ある程度の生活水準(あくまで、”ある程度”だ。あるべき程度ではけっしてない)は望めるだろう。
それが分かっているから、就職活動中の大学生は、大手企業を目指す。大手企業は東京にあるから、東京に彼らはやってくる。

日本の繁栄の20世紀後半は既に終わったのに、その幻想にすがりついているのが、霞が関の官僚達や大企業の”エリート社員”だけではなく、最も革命的であるべき学生たちであるという事実。
そう言っている俺が、日本でも恐らく最も保守的な大企業に勤めているという絶対的矛盾。切腹ものだ。
自己を否定できぬものが世界を否定することは不可能であり、世界を否定することなしに世界を変革することは不可能である。そして、現在の日本は、真の意味で変革されないならばただ没落しゆくのみ。
次代を作る新しい思想・哲学は、以上の理由から、地方からしか出てこないだろう(ベンチャー企業は東京が一番多い!などと呆けた批判をせぬように)。違う言い方をすれば、東京はかつての江戸幕府だと思っておけばいい。たまに優秀な人材を輩出するものの、総体としてはやはり守旧勢力なのだ。そういう一派に自己否定を要する革命なぞできはしない。
そして、幕末と異なり、地方からでてきた新しい思想は、これからは東京を経由することなくいきなり世界へ向かうのだ。東京は無視されるべきだ。福武氏が東京ではなく直島をモダンアートの島として再生したように。そしてそこに多くの人々が世界から押し寄せているように。それができるだけのインフラが、既に整いつつある。以前述べた、格安航空会社もその一つだろうし、”フリー化”もその一つしあげられるだろう。名古屋と東京を500kmhのリニアで結ぶために必要な数兆円の一部の地方に分配して、日本の地方都市へのLCCの乗り入れを促進するべきだ。
中央がすべてを差配するという明治以来のこの国の支配形態こそ、我々が打倒しなければならないもので、それに抗うものが何者であるのかということが、最近おぼろげながら見えてきたように思う。

まとまりのない駄文に付き合わせてしまい、申し訳ない。

独り言:

会社で「お前浮いてるよなぁ」とたまに言われるのだが、俺からしたら彼らがどぶの底に沈んでいるのである。「どぶのみずみんなで浸かればいい湯だな(5・7・5)」という塩梅で、彼らは全然それに気が付いていない。悲しく惨めだ。


2010年11月28日日曜日

倉敷で遊ぶ

新幹線の車窓からぼんやりと風景を眺めている時間がたまらなく好きだ。
もうちょっとゆっくり走ってくれてもいいのに。だからリニアは俺いらない。
今週末は岡山で福武総一郎氏の話を聴くのと面白い人たちに会うために一カ月ぶりに帰省した。

このブログでほんのすこーし人気者の藍子さん。
まだピアノは俺のほうが上手いな。ふっふっふ。
大好きな~♪大好きな~おいしいブドウのパン食べよ~♪
みーれーどー、みーれーどー、どーどーれーれーみーれーどー♪
なら、俺は弾けます。
朋子(姉貴)のピアノの伴奏で軍歌(出征兵士を送る歌)をある朝早くに(いつかの正月の朝)歌っていたら、母親が「ドドドドドドドド」と階段を下りてきて、「右翼がおるんかと思われるがっ(思われるでしょう)!!」と言うと、側にいた典子が冷静に、「ここにおるが(いるじゃない)、右翼」と言って皆で大笑いしたことがあった。あれは面白かった。孫たちの出来の悪いコントを見て、お婆ちゃんがニコニコ優しく笑っとった。
藍子にも軍歌を沢山教えてやろう。で、小学校一年生のかわいい女の子が何気なく「守るも攻むるもクロガネの~♪」と歌っているというのが面白いですなぁ。
ちなみに誤解されると困るのだが、俺は右翼ではない。長渕風に言うと、「右だの左だのと五月蠅ぇんだ!俺はただど真ん中をまっすぐ生きたいだけじゃいっ!!!」。
右の翼も左の翼も両方大きくないとね、大空は飛べん。


今日の昼食は両親と典子と藍子さんと兄貴のお店でいただいた。
メタボ気味の娘さんは前菜をペロッと平らげました(うそピョン)。


俺は一人だけステーキ定食~じゃのうて、ステーキランチ。
牛さんをいただいて猛牛になりましょう。角生やして突進しましょう。
丸くなるのは棺桶に入るときで十分じゃ。


最後に初登場の兄貴と姉貴。あ、チビちゃんは肩車してもらっとるね。
なんだか幸せそうな家族ですね。
ちなみに、Pont Neuf=新しい橋 ⇒ 新橋。
東京の新橋駅のガード下に、ポンヌフという立ち食い蕎麦屋があるのだが、まだ食べたことはありません。
俺の大いなる野望を語ろうか。
40年後くらいに、たまに山から降りてきて(ツァラトゥストラみたいに)、Pont Neufで結婚式と誕生日や結婚記念なんかでPont Neufに来てくれた(俺の店じゃないのだけど)人の為に長渕の歌をアカペラで歌うこと!ふっふ、オーディションに受かるように頑張るぜ。


あと三日、半島で何も起きないことを祈る。
周辺事態法と自衛隊法をしっかり読んでおかないと。



2010年11月27日土曜日

死刑の意味を問う

裁判員裁判で二度目の死刑判決は、犯行当時18歳であった少年に対して宣告された。
宮崎家石巻市で起きたこの悲惨な事件の犯人は、かつての彼女の家に押し入り、彼女の姉と友人の2人を殺害して1人に重傷を負わせた。

法学士の浅薄な議論だから刑法の専門家に突っ込まれることを覚悟して、以下述べる。

近代系法には二つの拠って立つ原理がある。一つに、応報刑論。すなわ ち、刑罰は、過去に他者に対して不正な行為をなし以って損害を与えたことに対して苦痛を与えるためのものとする考え方だ。ハムラビ法典の「目には目を、歯には歯を」というわけだ。
いま一つが、教育刑論。すなわち、犯罪者を犯罪に走らせしめた反社会的な性格や特性を是正することを目的として刑罰をは与えられるという考え方だ。

論理必然的に、後者の教育刑論の立場をとれば、未成年の犯罪者は高齢の犯罪者に比べて更生の余地が大きいと判断されるので、死刑判決は出しにくいということになる。今回の判決が社会的インパクトのある判決として注目されていることの背景はこれである。たとえば朝日新聞の今朝(2010年11月27日)の朝刊は、次のように社説で言っている。

「成長の途中段階にある少年は、教育や環境によって大きく変わる可能性を持つ。その特性をどう評価するか。」

もちろん、応報刑と教育刑の関係は絶対的対立の関係とは言えない。潜在的な刑事犯に対して刑罰という苦痛の可能性による抑止力を維持しつつ、同時に実際に事犯が発生すれば犯人に対して教育刑論的に対応して更生を図るというのがだいたいの先進国の刑法及び刑事訴訟法の運用のされ方で
はないかと思う。

俺自身は、かなりさっぱりと応報刑論に"親しみ"を覚える。もちろん俺は保守主義者だから、社会が異端者(サリンを撒こうとするとか地下鉄に爆弾をしかけるとか、そういうレベルの異端者)
に対して教育・指導を行い以って更生を目指すことは当然と思う。しかし、だからといって、"やられたらやりかえす"という秩序維持の大原則がないがしろにされてはならない。私刑(リンチ)が禁止されている近代国家では、国家が唯一の刑罰の執行者である(=国家は暴力を正当に行使する権限を独占する)。

ここ数年、犯罪被害者の裁判への参加ということを耳にすることが多いのだが、俺はこれは違うと思う。 違うというのは、正しくないという意味だ。
国家は、独占的に刑法を警察と検察という実力で以って運用するのだから、国家は犯罪被害者を判決に至る過程に関与させるべきではない。国家がなすべきは、かつては被害者(及びその遺族)が加害者に対して私的に行った復讐(=私刑)を被害者に代理して実現することだ。

勘違いして欲しくないのだが、ここにおいて国家が担う役割は、単に特定の事案における被害者感情の慰撫などではけっしてない。それは結果に過ぎない。
国家がなすべきこと、国家にしかできないことは、「他者に対する不正な侵害は許されない」という法
律以前の道徳律が、実効性あるものとして存在することを最終的に担保しつつ、それを国民に顕示することなのだ。
死刑の意味もまさにここにある。
「人を殺しても、最悪でも無期懲役だ」という社会よりも、「人を殺したら自分も"応報に"殺される可能性がある」という社会通念が共有された社会のほうが健全であると俺は考える。国家が暴力を独占する限り、我々国民は私的に復讐することができないのだから、この徳律を維持するためには、国家は死刑を放棄すべきではない。

従って、当然ながら俺は死刑賛成派であるし、また未成年と65歳の殺人犯にさしたる違いを見出す者ではない。裁判員制度云々は兎も角、今回の判決は画期的なものとして全面的に支持する。

2人殺しても生きているべき人間とは、神なのか?悪魔なのか?

(「冤罪で死刑が執行されたら取り返しがつかない」と死刑を否定する人がいるが、それは死刑だけでの話ではないだろう。冤罪で無期懲役になる可能性だってあるし、それも十分に人生にとっては破滅的だ。冤罪の可能性があるから無期懲役をなくそうという人はいないし、冤罪の可能性があるから強制猥褻罪をなくそうというのも無理な(理が無い)話だ。)



ひとりごと@新横浜

本木雅弘と福山まさはるの俳優としての格差はすごい。単に顔の作りが違うだけではない。
ラストサムライの真田広之は、男でも惚れます。"立てぇーいっ!!!"
最近、新聞か雑誌で俳優ランキングをしていたのをみた。映画監督や脚本家の投票で。間もなく第二部が始まる坂の上の雲で正岡子規を演じる香川照之の評価が一番だった。俺は昔の大河ドラマ秀吉の竹中直人の唾や鼻水を飛び散らしながら、渡哲也演じる信長に「おやかた様っ!」と叫ぶ姿をよく覚えている。日本一の俳優だと思う。

リドリー・スコットとラッセル・クロウの映画"ロビンフット"が楽しみだ。ハンスジマーの音楽だといいな。グラディエイター以来のコンビか?ラッセル・クロウといえば、どこかのホテルでスタッフを殴っておいて言ったのが、「世界中の(ホテルスタッフにいらつかされている)ビジネスマンを代表して殴ってやったのさ」。
少なくとも俺はいらついてないよ。

いじめ。一生消えない心の傷。
そんなわけあるかい。莫迦も休み休み言え朝日新聞こら。60歳のじじいがアストンマーチンからおりてきて50年前のいじめが...なんて言うたらその場で即身成仏させたるわ。
小学校の時、ある男の子を一日に三回泣かして先生にひどく叱られたことがある。集団でのいじめではない。小学校という場所は、"泣いたもん勝ち"なところがあって、不思議だった。「こいつは俺という
敵を前にして泣けば先生が助けてくれると思うとるんか??」と思った。思えば俺は昔からそういう"権力的なるもの"は大嫌いだった。フーコーみたい。

そうそう、アストンと云えば。
長渕剛が2ヶ月前に黒のAston Martin DBSを買ったらしい。 詳しくは雑誌Engine1月号。まぁ、わしのほうがようにあうんじゃけど。今はまだ全然似合んのじゃが。今俺がDBSに乗ると森蘭丸が赤兎馬に乗っているぐらい不細工だろう。
14年後。ありありと想像できる。
富士の空挺部隊か?という風な男が迷彩柄のカーゴパンツに黒のティーシャツ(全部ユニクロ)のちょび髭坊主頭で、爆音鳴らして沼津あたりに1200円の寿司を食べに走る姿を。お供は椿(狼、体重76kg)。

数年前からカフェのカウンターなどコーヒーをもらうときにニコリと笑って「ありがとう」と言うようにしている。この時相手の目をみて言わないとだめだ。最初は恥ずかしかったが、30が近づくにつれ段々と慣れてきた。
ありがとう。この言葉はなかなか重たい言葉で、きちんと使えば伝えられた人の一日をハッピーにしてしまうこともある。実際、俺はしょっちゅうそんなことがある。なんという単純脳。
だから、相手のハッピーな一日を願いながら朝7時にマックで"ありがとう"と言う。一人の他者をすこしだけハッピーにできたならば、俺が豚や牛を捕食して生きる一日には意味があると思うから。

男は顔だ。その顔があれば、周りの人間が安心する、隣の女性も安心する。そういう顔付でなければならん。まして日本の総理大臣は、危機にあっては日本を安心させる顔付でなければならん。永い平和が、危機にふさわしい男の顔を男から奪い取ってしまった。
首相が11月23日の夕方にやるべきだったのは、ぶらさがりの記者会見ではなくて、日の丸を掲げた記者会見の会場で、堂々と「国民のみなさんにまず申しあげる。心配は無用です。我が軍はこの事態をうけて直ちにデフコン3を発動し即応態勢を整えました。日本領土に飛来するどんな航空機や船舶に対する備えも万全です。勿論油断は禁物でありますが、我々は状況をきちんと把握しコントロールしています。新たな情報が入手されれば、適時適切にお報せ申しあげる。」

2010年11月26日金曜日

Ipadが欲しい!

Ipadを買いたい。
うーむ、買いたい。

おもな使用目的は読書と蔵書。
6畳の寮の部屋における本の量というのは知れている。大学教授ほどの蔵書があるわけでもないが、生活に支障を来すぐらいの分量になると、やはりこの狭い部屋に暮らす身としては「買いたいけど置く場所が...」などと考える破目になる。そういう人はたぶんけっこうな数居る筈だ。

で、自分で最近作った本棚などをじーっとみていると、「これは電子書籍化してもいいだろう」という本もなかにはあるのだ。たとえば、漫画。たとえば、雑誌。たとえば、2時間で読めるビジネス書。その他小説などいろいろ。
じゃあ、全部電子化できるかというと、俺はそれはできない。今読んでいる佐々木中「野戦と永遠」なんて、おそらく最も電子書籍に向かない部類の本じゃないかと思う(俺が読みなれないだけ?)。「世界史の哲学」は汚しながら書き込みしながら読んで、格闘した後を筆跡として留めておきたい。
他方で、漫画は完全に電子書籍と親和的だと思う。漫画「ジパング」、「バガボンド」、「沈黙の艦隊」でかなりのスぺースを占領してくれているのだが、こいつらが厚さ1cmもないIpadに入って行ってくれたら、これはかなりの空間が生まれるだろう。

例えばハワイに4泊でのんびりぐうたら旅行に行くとする。この場合、今の俺なら読むべき本を数冊(4泊ならたぶん20冊くらい)を持っていく。この場合、絶対に漫画を持っていくことはない。30巻あるうちの5巻だけ読むのも面白くないし、重すぎる。のくせに、あっという間に読めてしまう。
Ipadがあれば、これが完全に変わるだろう。Ipadと読みたい本20冊だけを持っていけば、本を読んで頭が疲れた時に、ホテルのテラスで久しぶりにドラゴンボールを42巻全巻を読破する...などというこの上ない贅沢もできてしまう。
おぉ、これぞ現代文明の利器。
たぶん、Ipadを持ち歩くというのは、本屋を常に携帯しているようなものなのだ。その利便性と収納力は想像を絶するものがある。簡単な本や漫画・雑誌を携帯すること、あるいは即座にWeb上で手に入れること。ちゃんと使えば「時間を買う」ことができる。

「Ipadで漫画読むだけ?」と言われそうだが、まぁそこはいろいろ拡張できるだろう。
思うのは、あの重たい(いまキーを叩いているレッツノートを買った時には、「なんと軽いのか...」とびっくりしたのだが)ラップトップを持ち歩いたり出張に持参するのがどうにもスマートではないということだ。
もっといえば、そのうちにIpadのような薄型軽量の情報デヴァイスを持っていれば、もはやオフィスなんぞに行かずとも仕事が済んでしまうという仕事がこれからどんどん増えてくるだろう。また、そうならなければ、情報科学技術がなんのために誕生し発展したのかが分からない。人間が使いこなして自分がより快適に暮らすためにこういう技術はあるのだから。
孫正義氏も言っていたが、パソコンなんてものはそのうちなくなるのだ。Ipadはその始まりのように思う。だってなんなんだあの立ち上がりの遅さは。腕立てが30回ぐらいできてしまう。
少なくとも、家庭に大きなデスクトップやラップトップというのは、今では当たり前だがそれもなくなるだろうと思っている。

そういえば、Ipadではないが、Iphoneで俺の残業は確実に減った。つまり自由時間が増えた。
まずオフィスの外でも会社のメールを読めるので、面倒なブラウザからWebmailを開くということが不要になった。自然、「まだアメリカが明かない(ビジネスアワーになっていない)からもう少し会社にいよう」と残っていたのが、今はすたこら会社を出てスタバで読書をしながら必要なメールに返信するということができるようになった。いま画面の割れたIphoneが隣にあるが、今現在会社のメールが28通入っている。これまでだったら、土曜日の朝や日曜日の朝にWebmailでIDとPasswordを打ち込んでみていたメールが、携帯電話のメールを閲覧するように読める。必要があればそのまま返信するか電話をするし、なければ放っておくか、忘れてはいけないものをメモに残す。
土日の間にだいたい150通くらい受信するメールを、これまでは基本的には月曜日の朝に会社で読んでいた。朝8時30分から。今は、9時30分に出社するが、メールにはすべて目を通しているから、会社に到着した瞬間に、「そういえばあれですけど」と話ができる。土日のいつ読んでいるかというと、まさに細切れの時間。電車を待つ5分間とか、待ち合わせ予定時間前の2分間とか。

さらに。
Googleカレンダーとアプリ”Refill"があれば、紙の手帳は完全に無用。
数か月前からIphoneにこのアプリを入れて、予定を管理している。これは、Googleカレンダーとサーバーで勝手に同期してくれるから、とんでもなく便利だ。朝会社の机につき、最初にやるのはOutlookを開くことではなく(上述のように、メールは会社に着くまでにすべて目を通している)、Googleカレンダーを開くこと。
一日の予定をざっと見て、なんとなく19時に退社かなーとめどをつける。Googleカレンダーは机にいる間は常に開いておいて、上司から「これいつまでに頼むわ」と言われたら、「はい」と言う前にその日付に「北朝鮮に向けてトマホーク発射」と記入する。Remindのメールも適切なタイミングをセットしておけば、とりあえず俺がそれを忘れていてもGmailが一週間前とか3日前にメールとスクリーン上のポップアップで思い出させてくれる。
会社でやらないといけないことなんて覚えていられないので(覚えていたくもない!)、これは本当に重宝している。しかも、それをIphoneで休みでも帰宅中でも見れるというのが、なんとも快適だ。
また、紙の手帳はなくしたら終わりだが、Iphoneを紛失したところでGoogleカレンダー上にすべての情報は残っているから、新しいIphoneを買って同期すれば全く同じ状態に復帰できる。

長くなった。
俺なんぞまだまだIphone初心者なんだが、スマートフォンをテレビゲームとネットサーフィンだけに使うのは本当に宝の持ち腐れだと思う。



2010年11月16日火曜日

「そこにもうあるわけだよ」

先週水曜日、珍しく同僚と仕事のあと食事にいった。
「一杯いくか?」というやつだ。結局二人でスーパードライの瓶を90分ほどで4本飲んだからアサヒ嫌い(別に朝日新聞嫌いとは没関係)の俺にしては飲んだほうだろう。

実は、楽しかった。
面白い話が聞けた。もっと言えば、有り難い話だ。
この同僚は、俺より年は6歳ほど上で、商売の経験でいえば俺とは雲泥の差がある。彼は俺を赤子としか見ていないふうだ。
彼は、今の会社に移ってくる前はある厨房機器の卸売会社に勤めていた。作業着を着てMTの軽トラで都内を中心に関東を縦横に走り回る日々だったそうだ。
彼がこういうのだ。

「あのな、仕事してたらな、よく電話がかかってくるだろ?
マンションを買って資産運用しませんか?っていうやつだよ。俺の前の仕事ってのはあの電話をしてくるおっさんと全然変わらなかったね。
相手が仕事中だってのをよーく知ってるわけだ、やつらは。でもってマンション投資の勧誘なんてあやしいなぁと思われるのだってあいつらが一番よく知ってるよ。それなのに完全にだめもとでいっつもああいう電話をしては朝から晩まで断られ続けてるわけだ。俺の一年目なんて完全にそうだったよ。どこに飛び込んでも帰れだのうるせーだの。。。だってありふれてるんだから。誰から買ったって一緒なわけだよ。それをなんでクソガキのよく知らない俺から買うかって話だよな。。。
でもな、なんて言うのかなぁ...マンションだろうが冷蔵庫だろうがな、作っちゃったわけだよ、そこにもうあるわけだよ、『はいこれいらないから捨てますよ~』ってわけにはいかねぇんだよ。だったら俺がそれ売るしかないじゃん。頑張って売るしかないでしょ?」

これって、商売の真髄であるなにかに触れていると思った。
経済学的に言えば、需要が在って、それに対応する供給が在る。しばしばバランスが崩れることはあるが、そこは価格メカニズムが働いてやがて均衡点に至る。しばしば曲解されるA.スミスの「神の見えざる手」の差配も畢竟こういうことだ。
だが、現実はそんなモデル的な美しさとは真逆だ。供給が需要を超過して「作っちゃった」場合には、それをどうやって売って金を回収するかは、中小零細の企業にとってはそのまま生存問題に直結することもあるだろう。
彼は、そういう世界で商売をしてきた。変な言い方をすれば、「売れるはずがないもの」を売る努力を数年に渡って遂行してきた。だから、彼がする仕事には常に「これで俺は金をもらっていいのか」という意識が如実に現れる。金を稼ぐことの困難を知ればこそ、金を受け取ることについて誰よりもストイックにならざるを得ないのだろう。そこに、その商品以上の価値を自分が追加できるかの否か。それができなければー彼の言い方ではー「自分の食い扶持さえ稼げねぇ」ことになってしまうのだ。
社会人3年目が今更こんなことを言うのもいかがなものかと思うが。

さっき渋谷の宮益坂を表参道のほうから下りながら、ふと思った。

「そこにもうあるわけだよ」

という言葉。俺らの人生ではないか。
俺の人生も貴様の人生も、気が付いたときには「そこにもうあった」。それは捨てることができるものではなかった。

俺らのうちのだれ一人として、この世に「よし!1982年の4月9日に三谷原という変な名字の家の長男として生まれよう!名前は基でよろしく!」などと決定して生まれるのではない。自分では何の意識もなく、なんとなくという意識も持たぬまま、自我なくこの世に生を享け、やがて自己と世界を発見する。
なんという非合理性だろうか!!!合理的であると措定された近代的個人は、そもそもその誕生の是非さえ自分では決定できなかった。自分の存在如何について決定権を持たぬ存在が、生において合理的であろうはずがない。だって俺という精神は、「そこにもうあるわけだ」から。俺が選んだのではないのに。

しかし、俺はこの非合理性に対して真正面から向き合って立ち向かう真剣を振り回すような生き方にしか、生きるべき時間は存しないと確信する。自分では、如何ともしがたい、コントロール不可能な事実を諾として受容してその内において限界まで頑を張る。そういう愚直な生き様によってしか、我々はこの「そこにもうあるわけだ」という非合理の罠を打ち破って成長していくことはできないように思う。

「自分では、如何ともしがたい、コントロール不可能な事実を諾として受容してその内において限界まで頑を張る」というのは、そのまま神風特別攻撃隊の英霊の生き様ではないか。

士農工商の「商売人」であっても、よく特攻精神を堅持して戦い続けるならば、特攻隊員もどきにはなれるのではないかという淡い希望にほくそ笑みながら、赤ら顔は外苑前から銀座線に乗り込んだ。

独り言:

衛星探査機「はやぶさ」が宇宙から粒子を持ち帰ったことが快挙だそうだ。何を持ち帰ったのかと思えば、100分の1mmの粒子が数千...
だが、現代の科学技術を以てかかればこれだけでも宇宙誕生の初期の状態を解明する(「宇宙誕生の初期の状態を解明する」?????????)ことができるそうな。
頓珍漢にはどうにもチンプンカンプンだが、夢のある話ではあるようだ。
ちなみに最近よく売れている「宇宙は何でできているのか」という本はさっと読めて面白い本でした。
死ぬまでに一度は必ず宇宙に出て地球と遠い宇宙を眺めたい。俺が60歳まで生きられるなら可能になるだろう。数百万円で行ける時代が来るだろう。楽しみだ。目茶苦茶楽しみだ。
その時貴様はようやくその狭量なナショナリズムを克服できるだろうって?阿呆は寝て言うがよろしい。俺は宇宙のどこに行こうと日の丸を背負っていくだろう。日の丸は日本の旗でありながら、俺の旗でもあるのだから。

「対人戦闘用意よし」。



2010年11月14日日曜日

パンダとくらげ

尖閣諸島をめぐる数ヶ月間の問題は、現在中国の漁船と巡視船との衝突ビデオをYoutubeに投稿した海上保安官の逮捕如何をめぐって注目されている。
数週間前の検察の中国漁船の船長釈放について、「検察が政治的判断をしては法治国家ではない!」という批判は、まぁそのとおりだろう。
だが、対中国の安全保障・外交力というより大きな視点から見ると、問題の本質はそこではないと思う。
「法治」が貫徹していること以上に大切なことは、政治の側の意思と、その意思を断固として遂行する覚悟を国家のリーダーが示すことだろう。誤解と批判を覚悟で極論を言えば、「法」がきちんと整備・運用されずとも、プラトン的な哲人政治家が統べる国では「法治」は必ずしも必要ではない。
現在の日本には「法治」も「人治」もないのだ。それは国家が弱体化しているということだ。今の日本は、過去百数十年の間に醸成された一群の既得権益が統べる国なのだと思う(既得権益を内蔵しない権力なぞあり得ないのであろうが)。日本という国のクラゲのごときフニャフニャの政権が牙をむき出しにした凶暴なパンダと穏やかに笑う白頭鷲(アメリカの象徴)の間で太平洋の西の方をフラフラと漂っている。たぶん世界からそういうふうに見られているのだろう。
他方で中国には、当然「法治」はないが少なくとも「人治」はある。無茶苦茶であるとしても。
「あれは那覇検察の判断でありますので」などと首相が責任を回避していては、たとえ今回の事件において検察がきちんと中国人の船長を起訴立件したとしても、それでは不十分だ。国家の意思を示すことが首相の最大の仕事であり、それ以外はその他閣僚・官僚の仕事だろう。
ペリーの黒船に動揺して右往左往したかつての江戸の幕閣と、一隻の小さな漁船のタックル(にしか見えません)に動揺しまくって挙句に検察に責任を押し付けようした事なかれ主義の現在の日本政府が、よく似ている。ロシアも完全に足元見てるしね。


それでも俺は日本の将来を楽観している(俺の将来は達観している)。
我々は、近代西欧の世界制覇に対して唯一「否」を突き付けて鉾を手に立ち上がり世界史の大転換をもたらした国である。大敗北のあとにも、物質主義に偏りながらも経済成長で世界を瞠目させた。
この国は、危機の際には必ず他の政治共同体とは異なる我々独自の精神的自主性の復興が行われる。
それは、必ずしも中国との対立関係にのみ我々を導くものではないだろう。中国の巨大な国力に間近
で影響されながらも、それを受容して日本という国の精神的自主性を維持・扶養することが、我々が後世のためになすべき最大の貢献であり、先輩達に対して負う責任の履行である。


今回の事で可哀そうなのは映画「海猿」の製作に携わった人たちだ。実際にマイナスの影響があるかどうかは分からんが、少なくとも興業にプラスの影響はないだろう


独り言:


「一方で経済の世界性を要求しつつ他方で国家の自足性を要求するとき、国家がその領土内に於いて能う限り自主性を保つべき領土的拡張の要求を抱き、一個の自足的世界性を持つような帝国を構成しようとする意図に出ることは当然の傾向である」

-高山岩男「世界史の哲学」p.323

恋愛とは、第一に孤独からの盲目的逃避であり、第二に自己愛への間接的隷属であり、そして第三に肉欲の道徳的充足である。

-俺 (あぁ、皆に喧嘩を販売してしまった)


紅葉のキャンプ、のはずが。

キャンプのシーズンは10月と11月。これは定説です。疑うべくもないことです。
大学のサークルのにわかキャンパーもいないし、バイカーの集団の宴会に悩まされることもすくない。虫も少ないし、なにより汗をかかない。夜の寒さも焚き火のお供だ。
おまけにこの時期は、紅葉が見頃、のはずだったが今回は外した。まぁ暗くなれば同じことだ。


渓流に浸かって夜の出番を待つプレモル。風呂に入ってるみたい。


焚き火をしながら珈琲を飲みつつ本を読みたいからキャンプをしているようなもんだ。昨晩は終わりつつある「世界史の哲学」を200ページ弱読めた。別に屋外に寝ることが特別好きなわけではない。夜の闇と静寂と寒さ、これが必要なのだ。都会にはどれ一つとしてない。都会の夜は明るく(あるいはわざといやらしく暗く)、五月蠅く、温かい。

昼食:シイタケ・チキンラーメン、バナナ3本、珈琲2杯。
夕食:豪州産ステーキ990g、セロリ1房、角切り餅4個、バナナ3本、プレミアムモルツ500ml、珈琲一杯。


ついでに帝国海軍五省を張り付けて格好良くなったMoreskin6号。