アメリカの"Red line"をシリア正規軍はなんともあっさり越えてしまった。自国民に対してサリン(日本人には特別嫌な響きを持つ化学兵器だ)を使って攻撃し、100人以上を殺したという。
正義の大国アメリカはといえば、アラブでの三つ目の戦争を今からやるつもりはさらさらなく、最後の一線が越えられた後も政権高官の発言は極めて抑制的で、部隊の派遣もシリア上空に飛行禁止区域を設定することも当面なさそうだ。
オバマ大統領の二期目の最重要課題とは、たぶん中東での戦争を片付けて経済を立て直し移民問題をどうにかすることだから、シリア内戦に介入することはワシントンの大方針の正反対だ。
さらにことを難しくしているのは、アメリカにとってこの2年以上に亘って続く悲惨な内戦に介入することの目的が全くはっきりしないことだ。ブレジンスキーが最近言っていたが、シリア内戦は民主主義とか自由のための戦いというより、権力を巡っての血みどろの闘争だ。その片方を手助けしたところで、新たな独裁政権を生むだけではないのかという疑念はもっともだ。これを疑う人はYoutubeで「Syria Violence」で検索して欲しい。凄まじく凄惨な虐殺の場面の動画がいくらでも見つかる。最もひどいのに至っては、Free Syrian Armyの者が、シリア正規軍の兵士を心臓を食っているのだ...。アサド大統領の軍隊も虐殺を繰り返していることは明らかだから、これは言わば英雄なき戦争である。
この戦いがどういう終わりを迎えるにせよ、勝者はアメリカが好むような民主主義によって国を治めようとはしないだろうし、できはしないだろう。だから、少なくともシリアで起きていることは何をどう評価しても「アラブの春」ではない。
シリア内戦の影響によってシーア派とスンニ派の対立が激化しているイラクでは4月に700人が自爆テロなどで死んだ。過去数年間で例のない数字である。イラクは内戦勃発の瀬戸際にいる。ヨルダンにはシリアから大量の難民が押し寄せている。その数百万人以上。イラクが不安定化すれば北部のクルド人の動きにアンカラ(トルコ)は気が気ではいられないだろう。アルジェリアでは日本人を含む多数の犠牲者を出すテロが起き(これはリビアからカダフィがらいなくなったことに関係しよう)、アルジェリアの南のマリやニジェールではイスラム系のテロリストが暗躍している。最近では原子力大手Arevaのニジェールのウラン鉱山施設への攻撃で生産がストップした。
我々が中東と北アフリカで目撃しているのは、明らかに「アラブの春」などではなく、これにペルシア=イランの核問題とイスラエルが絡めば、数年のうちに破滅的な結果を導くかもしれない。それは誰も望まぬ「アラブの冬」である。
ところで、日本の平和主義とは、こういうことを全く無視して(たまに国連とアメリカに金を出して)、世界の平和に何も貢献しようとしないことである。
呑気なもんだ。
2013年6月16日日曜日
2013年6月12日水曜日
歳を重ねるということ
31歳である。俺が、である。もう二ヶ月が経つ。
自分の認識は兎も角、世間様からすりゃ立派なオッサンの仲間だろう。なんだか変な話だなと思うが、歳をとりたくなけりゃ死ぬしかないわけで、意思でもってどうこうできるもんでもない。
学生の時、ちょっと気になる女の子がいて、この子が社会人とデートに行く〜という話を聞いて、俺は頭のなかでは嫉妬とともに、今となっては北朝鮮の将軍様の肖像画並みに粉飾された大人の男が想像された。ダンヒルの象牙のカフスボタンで袖口を留め、エルメスのシルクのタイで胸元を飾り、英国製の上等な生地のスーツを纏い、颯爽とアウディで迎えにくる、そんな馬鹿げたイメージ。でもって数千万円を稼ぐ。いるだろうけどね、こういう人。
自分が31歳になって、さらに驚くべきことに夫になり父にまでなったわけだが、まるで俺はクソを丁寧に漢字で書いて枕詞にくっ付けたいほどの餓鬼だ。想像していた大人の男のイメージから、一日ごとに離れていっているような気さえする。そして残念ながらこれは子供の心を忘れていない、なんていう意味ではまったくない。
もっとも、自分が世の平均よりはるかに馬鹿だと言うほど俺は自虐的な男ではないから、世の男は多かれ少なかれこういうところがあるんだろうと思う。
粗い言い方をすれば、年齢はあまり男を測る尺度としての意味はないのだと最近よく思う。俺は吉田松陰より既に2年以上長生きしているわけだが、29歳までにあれだけの人物を日本に残した松陰先生に比べれば自分の31年はアメーバの何回かの収縮運動程度のもんだろうと真剣に思う。
俺の娘は、いま1歳だ。大人の基準からすれば、すべての意味で彼女は「馬鹿」である。だが彼女を馬鹿呼ばわりする本物の馬鹿はいない。彼女はこれからいくらでも学び成長していけるという可能性を皆が知っているからだ。
そして、程度の差はあれど、20代までそういうことはある程度言えたような気がする。それは、未来が大きく開いて目の前にあったからだ。だから、高校で赤点を何個とろうが悠然と黙殺できたわけだ。
だが、歳を重ねてくると、当たり前だが、俺に残された時間=未来はどんどん小さくなり、自分がそこで成長していく余地も常識的には小さくなる。歳を重ねるということの本質は、死に近づくということではなくて、未来が縮小していくということのなかに感じ取られているような気がする。
こうなれば、自分という人間は、「これからどうあり得るか」よりも「いま現在どうあるか」によって周りから評価されるようになる。ここでは、自分は自分の現在と過去によって評価されるのであって、ありもせぬ未来の自分の株価の上昇など誰ももはや期待しはしない。だから、現在の自分、それを作り上げた過去の自分について一切言い訳ができない。
簡単な言い方をすれば、条件がまったく同じならば、1歳の馬鹿のほうが18歳の馬鹿よりよく、18歳の馬鹿のほうが31歳の馬鹿よりよい。
歳をとるというのは、大河を背にして目の前に聳える要塞を攻め落とそうというときに、少しづつ武器弾薬、食糧や船を焼いて河に投げ捨てることによく似ている。持久戦や撤退の可能性がどんどんなくなっていき、最後には「背水の陣」を敷いて敵の真っ正面へ捨身の突撃を敢行するほかなくなる。
だが、こう考えると、歳をとればとるほど人生から無駄ともいうべきほかの可能性が削ぎ落とされ、ただ一つのことに死に物狂いになって生きていくとう道が拓けるかもしれない、とも思う。男の人生は、単純明快を旨とすべし。秋山好古でした。
結局のところ、人間というもの存在の巨きさは、この一つの道にどれだけ命を燃やせられるかだと俺は思う。背水の陣をしいてから、尻尾巻いて河に飛び込むか、突撃して勇ましく死ぬか英雄になるか。
こういう場面がこれからはますます増えてくるから、格好いい男とそうでない男がくっくりと区別されるようになるだろう。いや、格好よく生きていても、一度間違えれば尻尾巻いて逃げ出すほうになる危険は常にある。危険だ。
だから、この話は結局こういう結論になる。高校時代のヤクザのようなトレーナーが、静かな夜に17歳の俺らにえもいわれぬ気迫を込めて言ったあの言葉。
"人生はなぁ、やるかやられるかなんよぉ..."
自分の認識は兎も角、世間様からすりゃ立派なオッサンの仲間だろう。なんだか変な話だなと思うが、歳をとりたくなけりゃ死ぬしかないわけで、意思でもってどうこうできるもんでもない。
学生の時、ちょっと気になる女の子がいて、この子が社会人とデートに行く〜という話を聞いて、俺は頭のなかでは嫉妬とともに、今となっては北朝鮮の将軍様の肖像画並みに粉飾された大人の男が想像された。ダンヒルの象牙のカフスボタンで袖口を留め、エルメスのシルクのタイで胸元を飾り、英国製の上等な生地のスーツを纏い、颯爽とアウディで迎えにくる、そんな馬鹿げたイメージ。でもって数千万円を稼ぐ。いるだろうけどね、こういう人。
自分が31歳になって、さらに驚くべきことに夫になり父にまでなったわけだが、まるで俺はクソを丁寧に漢字で書いて枕詞にくっ付けたいほどの餓鬼だ。想像していた大人の男のイメージから、一日ごとに離れていっているような気さえする。そして残念ながらこれは子供の心を忘れていない、なんていう意味ではまったくない。
もっとも、自分が世の平均よりはるかに馬鹿だと言うほど俺は自虐的な男ではないから、世の男は多かれ少なかれこういうところがあるんだろうと思う。
粗い言い方をすれば、年齢はあまり男を測る尺度としての意味はないのだと最近よく思う。俺は吉田松陰より既に2年以上長生きしているわけだが、29歳までにあれだけの人物を日本に残した松陰先生に比べれば自分の31年はアメーバの何回かの収縮運動程度のもんだろうと真剣に思う。
俺の娘は、いま1歳だ。大人の基準からすれば、すべての意味で彼女は「馬鹿」である。だが彼女を馬鹿呼ばわりする本物の馬鹿はいない。彼女はこれからいくらでも学び成長していけるという可能性を皆が知っているからだ。
そして、程度の差はあれど、20代までそういうことはある程度言えたような気がする。それは、未来が大きく開いて目の前にあったからだ。だから、高校で赤点を何個とろうが悠然と黙殺できたわけだ。
だが、歳を重ねてくると、当たり前だが、俺に残された時間=未来はどんどん小さくなり、自分がそこで成長していく余地も常識的には小さくなる。歳を重ねるということの本質は、死に近づくということではなくて、未来が縮小していくということのなかに感じ取られているような気がする。
こうなれば、自分という人間は、「これからどうあり得るか」よりも「いま現在どうあるか」によって周りから評価されるようになる。ここでは、自分は自分の現在と過去によって評価されるのであって、ありもせぬ未来の自分の株価の上昇など誰ももはや期待しはしない。だから、現在の自分、それを作り上げた過去の自分について一切言い訳ができない。
簡単な言い方をすれば、条件がまったく同じならば、1歳の馬鹿のほうが18歳の馬鹿よりよく、18歳の馬鹿のほうが31歳の馬鹿よりよい。
歳をとるというのは、大河を背にして目の前に聳える要塞を攻め落とそうというときに、少しづつ武器弾薬、食糧や船を焼いて河に投げ捨てることによく似ている。持久戦や撤退の可能性がどんどんなくなっていき、最後には「背水の陣」を敷いて敵の真っ正面へ捨身の突撃を敢行するほかなくなる。
だが、こう考えると、歳をとればとるほど人生から無駄ともいうべきほかの可能性が削ぎ落とされ、ただ一つのことに死に物狂いになって生きていくとう道が拓けるかもしれない、とも思う。男の人生は、単純明快を旨とすべし。秋山好古でした。
結局のところ、人間というもの存在の巨きさは、この一つの道にどれだけ命を燃やせられるかだと俺は思う。背水の陣をしいてから、尻尾巻いて河に飛び込むか、突撃して勇ましく死ぬか英雄になるか。
こういう場面がこれからはますます増えてくるから、格好いい男とそうでない男がくっくりと区別されるようになるだろう。いや、格好よく生きていても、一度間違えれば尻尾巻いて逃げ出すほうになる危険は常にある。危険だ。
だから、この話は結局こういう結論になる。高校時代のヤクザのようなトレーナーが、静かな夜に17歳の俺らにえもいわれぬ気迫を込めて言ったあの言葉。
"人生はなぁ、やるかやられるかなんよぉ..."
2013年6月2日日曜日
憲法96条改正
第九十六条:
この憲法の改正は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行われる投票において、その過半数の賛成を必要とする。
衆参いずれかの33%が反対すれば、どれだけ改憲の必要があろうができないというのは馬鹿げている。
分かりやすく言えば、衆参722人(480人+242人)の国会議員のうちで参議院の80人(国会議員全体の11%)が反対すれば、国民は国民投票の機会され与えられない。日本国民1億2800万の最高法規が、たった80人の反対が故に身動きがとれない。
96条改正反対派は、「9条改正のためまず96条を改正するのはだめだ」などと言うが、9条改憲の是非は議員ではなく国民投票で直接民意を問えば良い。最高法規の改正について民意を信頼しないというならば、我々はなぜにかくも有難くデモクラシーを「民主主義」と誤訳してまで有難く祀って来たのが意味が分からぬ。
「全電源喪失はありえない」という前提で原発の危機管理マニュアルを作っていた国で、全電源喪失が原因のチェルノブイリに次ぐ原発事故が起きたにもかかわらず、いまだに「戦争に備えたら戦争になる」という戯言に耳を貸している暇は全くないでしょう。
「自分の国は自分で守る」という、「人を殺してはいけません」というのと同じくらい当たり前のことを、日本で言えば「右翼」と言われる。
馬鹿じゃないかと思う。いや馬と鹿のほうがよっぽど馬鹿じゃないだろう。
この憲法の改正は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行われる投票において、その過半数の賛成を必要とする。
衆参いずれかの33%が反対すれば、どれだけ改憲の必要があろうができないというのは馬鹿げている。
分かりやすく言えば、衆参722人(480人+242人)の国会議員のうちで参議院の80人(国会議員全体の11%)が反対すれば、国民は国民投票の機会され与えられない。日本国民1億2800万の最高法規が、たった80人の反対が故に身動きがとれない。
96条改正反対派は、「9条改正のためまず96条を改正するのはだめだ」などと言うが、9条改憲の是非は議員ではなく国民投票で直接民意を問えば良い。最高法規の改正について民意を信頼しないというならば、我々はなぜにかくも有難くデモクラシーを「民主主義」と誤訳してまで有難く祀って来たのが意味が分からぬ。
「全電源喪失はありえない」という前提で原発の危機管理マニュアルを作っていた国で、全電源喪失が原因のチェルノブイリに次ぐ原発事故が起きたにもかかわらず、いまだに「戦争に備えたら戦争になる」という戯言に耳を貸している暇は全くないでしょう。
「自分の国は自分で守る」という、「人を殺してはいけません」というのと同じくらい当たり前のことを、日本で言えば「右翼」と言われる。
馬鹿じゃないかと思う。いや馬と鹿のほうがよっぽど馬鹿じゃないだろう。
2013年5月29日水曜日
「琉球民族独立総合研究会」について一言物申す
沖縄の日本からの独立を目指す会である。日本から独立して「平和と希望の島」を築いていくことが目的らしい。さしずめ今の沖縄は、「非・平和と絶望の島」ということか。
さてさて。一言述べたい。
日本人であり、倉敷人。
人間であり、男。
商売をし、政治思想を学ぶ。
古い歴史との強い繋がりを自覚し、IphoneとIpadの21世紀に生きる。
「沖縄人か日本人か」とか「琉球人か日本人か」という、人間個人の帰属の問題は、どれほど適切な問いかけなのだろう。
もちろんこの問いかけは思想的にも哲学的にも歴史的にも非常に興味深いものを含んでいるとは思う。居酒屋で赤ら顔でする議論の主題には悪くないかもしれない。
仮に、この問いを自問した人が、敢えて「琉球人だ」と自身を定義したとしよう。
思うに、彼らから見た「日本」が所与の前提ではないように、「琉球人」というのも作られたものに過ぎない。
琉球王国を長く治めた尚氏が作り上げた王国は、その権力確立の過程で多くの(沖縄の)地方の豪族を殲滅してきたことだろう(善いも悪いもない)。
沖縄=琉球には離島も多い。その島の人たちが、「琉球王国と我々は違う」と言うことを否定する論理を、「日本」を否定して「琉球」選び取ったこの人は持てるのだろうか。
俺は、人間はその精神において複層的なものだと思っている。
俺が宇宙人に会えば、「地球人です」と言うだろうし、カザフの人に会えば「日本から来ました」と言うだろうし、青森の人に会えば「岡山出身です」と言うだろうし、倉敷の人に会えば「小学校は中島小学校です」というだろう。
俺は、倉敷市の郊外の小さな村の出身であると同時に、日本人であり、かつ地球人でもある。時代が進めば、「銀河系から来ました」なんて言葉も意味を持つようになるかもしれない。
主観的にどの共同体に最も愛着があるかと問われれば、一生懸命答えをだそうとするだろうが、この階層構造は上下にではなく歴史的に糸を縫うようにして水平に接していると俺は考えている。
それぞれが、大きな歴史のなかで不可分の一部を担い、相互に影響を与えながら人々が紡いできたものがそれぞれの階層の歴史だと思う。どれが一番重要かと問うことは、「あなたの臓器でどれが一番重要ですか」と問うことに等しい。心臓も大切だが、さりとて肺がなければ心臓に酸素は行き渡らない。心臓を欠き血の足りぬ肺もまた機能しえない。
倉敷だけ、岡山だけ、日本だけの歴史などない。そんな歴史を捏造する人はいつも胡散臭いナショナリズムに手を染めるのだ。
「琉球」は琉球として確かにあるという発想は、「大日本帝国は神の国である」という発想と根本において違わない。そこにあるのは、「日本」は怪しいが、「琉球」は確かに"在る"という盲目ではないのか。
「琉球」にはウルトラ・ナショナリズムなど在り得ないなどというナイーブな考えを持つ人は、世界の民族紛争や内戦の歴史を少し勉強したほうがいい。
歴史において、過去300年の間に「主権国家」を名乗った者たちだけが戦争をし、殺し合いをしてきたわけではない。
複数のなかからひとつを選び取るような排他的な生き方しか我々はできないのだろうか。
俺は全然そう思わない。
人間は、複雑で在りうるし、またそうあるべきだ。
人間をひとつの共同体にはめ込んでそこへの帰属を強制することから生じる非生産性と非人間性を我々は歴史から学んできたのではなかったか。
会社に尽くし続けた40年のサラリーマン人生の果てに、退職した途端に家族以外の一切の人間関係が消滅するというあの悲劇は、日本人の「忠誠」の美徳の悪しき一側面の象徴である。
とはいえ、俺は戦後日本が沖縄に対してある種の構造的差別の体系の下に存立してきたということを否定するものではない。だが沖縄の日本国家からの独立には明確に反対の意を表する。
沖縄県民の苦しみに比して沖縄以外の県民が沖縄に寄せる関心の程度は、明らかに劣る。
だからこそ、沖縄から上がる声は大切なのだ。それは、戦後日本の体制に対して疑義を誰よりも強く投げかける力を持っている。
しかしそれが、「日本」の代わりにこの島々に「琉球」という蓋をかぶせることだけに拘泥するのであれば、それは歴史を前に進めるものとはならず、彼らが否定しようとする「日本」の名前を変えた縮小再生産としかならないだろう。
世界平和というものがありえるとすれば、それは全ての人類がそれぞれの文化的愛着や言語や民族性を投げ捨てて、最強国のそれに右に倣えしたり、あるいは人工語を作り出すように新しい「世界市民」の模型を捏造するような過程からは決して生まれはしないだろう。
それは、我々が愛する自然と似たものとなる。
サバンナを疾駆するライオンの命は、土中の微生物や細菌によって支えられている。広大な北米大陸の狼たちがエルクを斃すからこそ深い森林の緑は守られる。田舎の田んぼは、蛭から蛙からミミズからありとあらゆる生物達によって豊かにされている。
世界と自然は一色に染め上げることなぞできはしない。誰よりも「多様性」について口うるさく語りたがるアメリカ合衆国が、良くも悪くも100年間世界最強の国であることは決して偶然ではない。
だが、こういうことは、「琉球国」と同時に「日本国」の存立根拠もそもそも否定してしまうだろう。
そこで俺はEdmund Burkeの保守主義を引っ張り出したいのである。
でもそれはまた今度にすべきだろう。
2013年5月28日火曜日
2013年5月12日日曜日
一言二言
◯外国にいても発売と同時に文芸春秋を電子書籍(紀伊国屋のKinnopyといふアプリ)で読めるのが存外に嬉しい。もはや駐在員に日本から本や雑誌を持っていくなんていう無駄はしなくてよいね。それにしても喰わず嫌いは駄目だと実感した。電子書籍は素晴らしい。iPhoneでも老眼じゃない限りなんぼでも読める。ポケットに本が何十冊も入っているというのは、無茶苦茶有難い話である。家族持ちは細切れ時間で読むしかないのである。
家で書斎に向かう?そんな贅沢は芥川賞でもとってからネー
◯文芸春秋の富坂聡氏の小論に改めて驚愕。毛沢東が1969年のソ連との戦争勃発の危機の際にフルシチョフに言ったという言葉がこれだ。「ソ連と戦争をすれば核ミサイルで3億の中国人が死ぬかもしれない。だがそれがなんだというのだ。」ソレガナンダトイウノダ...。変人だなこりゃ。ちなみにこのときの中国の人口は6億。ということは、今は人口が13億だから10億死んでもいいのかね?あるいは同率の6.5億?時代は下って1982年、鄧小平はサッチャーとの香港返還交渉でいきなり「我々はいつでも香港を(当然軍事力で以って)占領できる」と言ってのけたそうな。
こういう頭の人たちが隣で大軍拡をしながら予想通りに「沖縄もわしらのもんじゃ」と言い始めたわけである。スービック基地から米海軍がいなくなった後に南沙諸島をフィリピンから実力でぶんどったわけである。
毛沢東というのは、石原莞爾と同じ種類と規模の人間だったんだなというのがなんとなく分かる。石原もあれは革命家ですから。思考の基準がどこか宇宙的でありながら、そのくせ緻密な計算が細部にまで張り巡らされているようなそういう感じだ。
しかし沖縄も中国のものと言われてしまっては、そのうち「聖徳太子以前は日本は中国に朝貢していたから歴史的には日本は中国の領土だ」なんて言い出しそう。
◯喰わず嫌いはいかんという反省から、フェイスブックに登録した。が、何をしたらええのかどうにもよう分からん。まぁ一ヶ月は続けてみよう。なんせ10億の地球人が使っとるらしい。どえらいのー。LINEというのもそうですがメールはもうなくなりそうですね。少なくともプライベートでは。
◯バーナンキさんの1999年の論文を読んだ。日銀は市場からケチャップでも買え!と言った人だけあって、日銀をボロクソに言うておる。長期国債もガンガン買い取らんかい!と。最近リフレ派と反リフレ派の簡単な本を日本語で少し読んだが、しかしいまだにアベノミクスが正しいのかどうかわからない。短期的に円安、株高になるから正しいという議論ではなくて、中期的な日本経済の成長と財政規律のバランスという意味で、正しいのかどうか分からんということ。金がより沢山出回れば、貨幣価値の下落を懸念して皆不動産を買ったり株を買うというのは分かる。それら資産の価値が上がれば「ちょっとポルシェでも」という人もいるでしょう。三越の決算よかったし。だけど、根本的な問題は新しい成長のためのエンジンになるような投資機会が国内にないということじゃないんですか、という考えが頭から離れぬ。麻生さんも大昔の高橋積極財政を称賛して「日本はアメリカのニューディールの前にケインズ政策を実行し不況を脱したのです」と先月DCでアベノミクスをPRしながら言うたと記憶するが、高橋財政のその後のインフレは?と、ここまでくると全く知らんので、岩田「昭和恐慌の研究」を積ん読しておる。
◯バガボンドが哲学書になりつつある。井上雄彦氏は、どんな本を読みどんな人と話してきたんだろう。
バガボンドの武蔵には、明らかにスラムダンクの桜木花道の面影がある。少し孤独で風来坊で乱暴者で、一つのことにしか熱中できない。武蔵には剣、花道にはバスケットボール。ともに不器用で、腕っ節が強く、負けず嫌い。スラムダンクは高校バスケットを通じて恐ろしく個性的な登場人物達が、成長しながら目標に向けて戦って行くという青春漫画の金字塔だが、しかし一人一人の精神の内面を深く抉って描き切ったという漫画ではない。そんな漫画あまりないんだろうが。爽快で、晴れ晴れとした物語である。おそらく著者は、自身が歳を重ねて人間としての年輪を増し成長していくなかで、バガボンドのような命のやり取りが主になる漫画で以って「命」や「他者」や「死」や「自我」を描くことが自然なこと、表現したいことになってきたのだろう。
俺もそうだが、スラムダンクを10代で読んでいた読者がいまバガボンドのファンであるというのはかなり多いと思う。そういう読者には、花道の素朴さ(「天才だから大丈夫!」なんてセリフもあったな。翔陽戦だったか)だけではこの世は生きづらいということが経験的に自覚されていて、だから武蔵の孤独や寂しさに共感しながらも、それに屈することなく自分にはない武蔵のあの一途さと圧倒的な強さに、今惚れるんだろう。
"『強くなりたい』ではなく、『強くありたい』"
至言である。
◯明日朝早いのにもう二時。こうやって人生は終わるんだよ。なーんて、全くわかっちゃいねぇ。こういうのをフェイスブックに載せても「👍」はつかんだろうなー俺はこっちのほうが好きだな。どうもフェイスブックってのはマスとして搾取されてる気がしてならんねー皆さんそんなことないか。
家で書斎に向かう?そんな贅沢は芥川賞でもとってからネー
◯文芸春秋の富坂聡氏の小論に改めて驚愕。毛沢東が1969年のソ連との戦争勃発の危機の際にフルシチョフに言ったという言葉がこれだ。「ソ連と戦争をすれば核ミサイルで3億の中国人が死ぬかもしれない。だがそれがなんだというのだ。」ソレガナンダトイウノダ...。変人だなこりゃ。ちなみにこのときの中国の人口は6億。ということは、今は人口が13億だから10億死んでもいいのかね?あるいは同率の6.5億?時代は下って1982年、鄧小平はサッチャーとの香港返還交渉でいきなり「我々はいつでも香港を(当然軍事力で以って)占領できる」と言ってのけたそうな。
こういう頭の人たちが隣で大軍拡をしながら予想通りに「沖縄もわしらのもんじゃ」と言い始めたわけである。スービック基地から米海軍がいなくなった後に南沙諸島をフィリピンから実力でぶんどったわけである。
毛沢東というのは、石原莞爾と同じ種類と規模の人間だったんだなというのがなんとなく分かる。石原もあれは革命家ですから。思考の基準がどこか宇宙的でありながら、そのくせ緻密な計算が細部にまで張り巡らされているようなそういう感じだ。
しかし沖縄も中国のものと言われてしまっては、そのうち「聖徳太子以前は日本は中国に朝貢していたから歴史的には日本は中国の領土だ」なんて言い出しそう。
◯喰わず嫌いはいかんという反省から、フェイスブックに登録した。が、何をしたらええのかどうにもよう分からん。まぁ一ヶ月は続けてみよう。なんせ10億の地球人が使っとるらしい。どえらいのー。LINEというのもそうですがメールはもうなくなりそうですね。少なくともプライベートでは。
◯バーナンキさんの1999年の論文を読んだ。日銀は市場からケチャップでも買え!と言った人だけあって、日銀をボロクソに言うておる。長期国債もガンガン買い取らんかい!と。最近リフレ派と反リフレ派の簡単な本を日本語で少し読んだが、しかしいまだにアベノミクスが正しいのかどうかわからない。短期的に円安、株高になるから正しいという議論ではなくて、中期的な日本経済の成長と財政規律のバランスという意味で、正しいのかどうか分からんということ。金がより沢山出回れば、貨幣価値の下落を懸念して皆不動産を買ったり株を買うというのは分かる。それら資産の価値が上がれば「ちょっとポルシェでも」という人もいるでしょう。三越の決算よかったし。だけど、根本的な問題は新しい成長のためのエンジンになるような投資機会が国内にないということじゃないんですか、という考えが頭から離れぬ。麻生さんも大昔の高橋積極財政を称賛して「日本はアメリカのニューディールの前にケインズ政策を実行し不況を脱したのです」と先月DCでアベノミクスをPRしながら言うたと記憶するが、高橋財政のその後のインフレは?と、ここまでくると全く知らんので、岩田「昭和恐慌の研究」を積ん読しておる。
◯バガボンドが哲学書になりつつある。井上雄彦氏は、どんな本を読みどんな人と話してきたんだろう。
バガボンドの武蔵には、明らかにスラムダンクの桜木花道の面影がある。少し孤独で風来坊で乱暴者で、一つのことにしか熱中できない。武蔵には剣、花道にはバスケットボール。ともに不器用で、腕っ節が強く、負けず嫌い。スラムダンクは高校バスケットを通じて恐ろしく個性的な登場人物達が、成長しながら目標に向けて戦って行くという青春漫画の金字塔だが、しかし一人一人の精神の内面を深く抉って描き切ったという漫画ではない。そんな漫画あまりないんだろうが。爽快で、晴れ晴れとした物語である。おそらく著者は、自身が歳を重ねて人間としての年輪を増し成長していくなかで、バガボンドのような命のやり取りが主になる漫画で以って「命」や「他者」や「死」や「自我」を描くことが自然なこと、表現したいことになってきたのだろう。
俺もそうだが、スラムダンクを10代で読んでいた読者がいまバガボンドのファンであるというのはかなり多いと思う。そういう読者には、花道の素朴さ(「天才だから大丈夫!」なんてセリフもあったな。翔陽戦だったか)だけではこの世は生きづらいということが経験的に自覚されていて、だから武蔵の孤独や寂しさに共感しながらも、それに屈することなく自分にはない武蔵のあの一途さと圧倒的な強さに、今惚れるんだろう。
"『強くなりたい』ではなく、『強くありたい』"
至言である。
◯明日朝早いのにもう二時。こうやって人生は終わるんだよ。なーんて、全くわかっちゃいねぇ。こういうのをフェイスブックに載せても「👍」はつかんだろうなー俺はこっちのほうが好きだな。どうもフェイスブックってのはマスとして搾取されてる気がしてならんねー皆さんそんなことないか。
パウル・ツェラン
佐々木中氏の「切り取れあの祈る手を」のタイトルはこのユダヤ人詩人の詩の一節である。
「もろもろの喪失のなかで、ただ『言葉』だけが、手に届くもの、身近なもの、失われていないものとして残りました。それ、言葉だけが、失われていないものとして残りました。そうです、すべての出来事にもかかわらず。しかしそのその言葉にしても、みずからのあてどなさの中を、恐るべき沈黙の中を、死をもたらす弁舌の千もの闇の中を来なければなりませんでした。
言葉はこれらをくぐり抜けて来て、しかも、起こったことに対しては一言も発する事ができないのでした。ーしかし、言葉はこれらの出来事の中を抜けて来たのです。抜けてきて再び明るいところに出ることができましたーすべての出来事に「豊かにされて」。
これだけじゃさっぱり意味不明でしょうね。あまり日本では有名じゃないし。
「もろもろの喪失のなかで、ただ『言葉』だけが、手に届くもの、身近なもの、失われていないものとして残りました。それ、言葉だけが、失われていないものとして残りました。そうです、すべての出来事にもかかわらず。しかしそのその言葉にしても、みずからのあてどなさの中を、恐るべき沈黙の中を、死をもたらす弁舌の千もの闇の中を来なければなりませんでした。
言葉はこれらをくぐり抜けて来て、しかも、起こったことに対しては一言も発する事ができないのでした。ーしかし、言葉はこれらの出来事の中を抜けて来たのです。抜けてきて再び明るいところに出ることができましたーすべての出来事に「豊かにされて」。
これだけじゃさっぱり意味不明でしょうね。あまり日本では有名じゃないし。
2013年5月10日金曜日
2013年5月9日木曜日
壊れゆく日本という国 神戸女学院大学名誉教授・内田樹(朝日新聞5月8日朝刊)
世界規模に拡大した資本主義体制における国民国家・国民・営利企業の関係に関心をお持ちの方は、この小論文を是非ご一読下さい。
折角ですので、個人的な意見を述べます。が、先に下の内田氏の文章を読まれたほうがいいです。
国民国家、しかも先進国の日本のような国民国家はことごとく民主主義体制となっており、ここにおいてはあまりに雑多な利益団体が「国益」ではなく「自分たちの利益」を求めて争い合います。
TPP交渉などはその典型でしょう。それぞれが、「これが国益になるのだ」と言ってはいても、内心では「これは自分に有利なのだ」と考えている場合がほとんどでしょう。
そういう場合に、民主主義的国民国家の政府は、営利企業ほどは容易かつ大胆果断に新しい政策を行うことができないのです。
それはなぜでしょうか。
民主主義とセットであるかのように思われている資本主義経済体制における営利企業の「政策決定」は、全然民主的ではなくそれはどこまでも独裁的です。いや、上意下達の独裁的権力が営利企業のトップに付与されていなければ、営利企業はその適者生存の闘いに勝ち残っていけないでしょう。この意味で、営利企業の組織的分化は、上官の命令が絶対である軍隊と極めて似た性質を持っております。軍人が営利企業において多くの場合問題なく適応できるであろうと僕が考えるのはこの理由が大きい。民主主義に多くの場合付随する自由経済は、その根本的要素として独裁権力を前提としています。世界最大の時価総額を有するに至ったApple社を築いたSteve Job氏の独裁的経営はよく知られるところです。
CEOや社長には人事政策を中心とした絶大な権限が与えられ、特に日本企業における企業トップの地位は経営成績に関わらず極めて安定していると言ってよいでしょう。
そして、もう一点の営利企業と民主主義的国民国家の大きな違いは、それらの目的の重層性において現れます。
前者の目的は、国境の島を守ることであり、全国民に普遍的な教育を与えることであり、また夜の歌舞伎町を監視することなどなど、上げればキリがありません。無数にあります。
他方で営利企業にとっての目的とは、マルクス主義的な言い方をすれば、「資本の再生産」(ある資本を以て投資を行い、その投下資本+金利以上の利益を収得すること。そしてこれを無限に最大化していくこと)にあり、その目的の単純性は民主主義的国民国家における政府が目指すべき目的の重層性と比較する時、極めて顕著なものとなります(CSRなどがもてはやされるようになっていますが、それさえ投資家向けのポーズであることが多い)。
要すれば、営利企業における①政策決定の速度と指導者に与えられた独裁権力と、②営利企業の目的の単純性が、営利企業をして資本の再生産という目的のための迅速果断な行動を可能にしています。これらは、営利企業における資本主義の世界化に対する対処の可能性と容易性を説明するのみで、そのグローバル化の理由ではなりません。
ではその理由はなにか。
なんらかの理由でこれ(=グローバル化)をあえて行わない営利企業は、多くの場合生存競争に勝てず倒れてしまいます。日本人の3分の1の給与で一日12時間必死に働くベトナム人ではなく合えて日本で日本人をひどく高い給与で雇えば、製品コストが上がるのは当たり前です。そして、この闘いは、いまや国民国家の枠を優にこえ、世界規模で展開しております。
その結果、世界規模の闘いに勝ち、資本の最大化に成功し、「実弾」を豊富に備えた営利企業は、成熟した民主主義的政権に対する圧力団体となるわけです。
そのため、内田氏がいうような日本のグローバル企業のトップは、自身の選好として日本を超え出てグローバル化しているというのではまく、まして彼らが日本という国を破壊しようとしているのでもなく(彼らはそんなことに関心はありません)、むしろ彼らは善良で一生懸命なちょっとしたエリートかつ上司や株主の言うことに忠実なる経営者であって、そこには一見してもはや「選択の余地がない」としか思えぬことにこの「問題」の重心があるというべきでしょう。内田氏が繰り返しこの論文のなかで言っているように、企業経営者にとっては、このグローバル化戦略は、全く合理的であるし正しい選択なのです。
内田氏のこの論文は読み物としては面白いのですが、他方で何の解決策というか対案も提出していないという謗りは免れないでしょう。
また、世界規模の資本主義が日本という国家を破壊させつつあるという右翼的な言説をこともあろうに朝日新聞が紙面に載せていることが滑稽なのですが、グローバル資本主義がー他にもっとよい方法があったかもしれないという幼児のごとき主張を放っておくとしてー世界の十数億の人々を貧困の淵から救い上げてきたことも、また確かなことでしょう。
韓国の現大統領の父が大統領であった頃、韓国という国は世界で最も貧しい国のひとつでした。それが今や世界に家電から自動車からさらには原発までを日本と競争して売り込むまでの国になりました。その過程で、いわゆるグローバル企業が果たした役割に、全然価値がなかったとは僕には思えません。古くは日本の自動車メーカーがアメリカの自動車市場を奪い、アメリカ人から職を奪いました。そうしたらアメリカ人はMicrosoftやDellやAmazonやAppleを作って復活したわけです。アメリカから奪った自動車市場を韓国や中国に奪われるというのなら、アメリカ人がやったように新しい産業を築いてみせるという気概がなくては、生き残れないでしょう。
内田氏のこの論文は、極めて島国的な論考であり、日本がこれまでの70年とは全く異なる新しい日本に成り変わっていくことの可能性すら検討しようとしていないという点で、知的怠惰と僕は言いたいと思います。
企業が「人事コストを外部化」するためにグローバル人材を大学に育てるよう要請しているなどというのは笑止な話で、英語で読み書き話すことができないということの不利を知っていればこそ、あのドイツでさえあっという間にオランダや北欧のような準英語圏の国に変貌したわけでしょう。
歴史を振り返ってみれば、こういう朝日新聞的な「企業は自分の利益のことだけを考えているからけしからん」というロジックは、過去70年を振り返れば正しいのですが、そもそも通時代的に適用し得るものでしょうか。
これまた内田氏が言うように、主権国家体制というものは、歴史において常に存在し続けたわけではありません。ウェストファリア条約締結から、せいぜい350年ほどの歴史があるにすぎません。まして国民一般の利益と主権国家の利益がかなり一致していた時代は、戦後の日米欧ぐらいではないでしょうか。歴史における例外というべきです。だから、未来を見通すときに過去の70年が普通の状態であると考えることがそもそもの間違いなのです。
歴史において、多くの統治のあり方が存在したのであり、これからもそれは変わらないと考えることが理に適っていると思うのです。
我々が知っている「日本」-それは恐らく、皆一生懸命働けば「日本人」であればクラウンに乗るぐらいのお金を平等に稼げた時代(日本国内限定の平等と公平)-は歴史においては相対的なものでしかなく、これを守ろうという努力は大切であるという考えにはなんとなく賛同したくもなりますが、それを守ろうとする闘いに敗れたとして我々はまた生きていかねばならない。そしてそれが日本というこの列島ではない可能性や、生活や仕事において用いる言語が日本語ではない可能性も当然にあるわけです。
この現在の日本の政治経済システムを守る闘いに敗れた後に生きていくために必要な意思と力を得るためには、内田氏がいうように、「グローバル企業の利益がすなわち日本の国益である」という幻想を捨てないといけないと思います。それは確かなことでしょう。企業は従業員のためだけに存在するのではありませんから。
ですが、企業がグローバル化するなら、そして時代がそれを否応なく要求するのであれば、国民もグローバル化すればいいではないか、というのが僕の今の考えです。敢えて言えば、その努力をせぬものが倒れたとしても、それは仕方がない。
我々日本人はこの70年間、暗黙にこう世界に対して言ってきたのです。「日本が豊かなのは日本が頑張ったからだ。他の国も頑張ればいい。」と。「いや、そんなことはない」と言ったとて、それは間違いなく真実です。そうであれば、誰かが、「僕が豊かなのは僕が頑張ったからだ。君も頑張ればいい。」ということも、同様に正しいはずです。
それができないというのは、江戸時代が終わって幕府が消えた後に丁髷は落とせぬ刀も捨てられぬと頑なになった頭の固いお侍と同じではないかと思います。
日本で生まれたから日本で育って日本で学んで日本で働いて日本語だけを話して日本人とだけ競争して日本で死んでいくということを保守することが、日本の保守主義であるはずがないのです。
そんなところに日本という国の栄光があるはずがない。ではどこに?と尋ねられると困ってしまうのが不細工なのですが、いまそれだけは断言できます。
以下が内田氏の朝日新聞に掲載された論文です。
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日本はこれからどうなるのか。いろいろなところで質問を受ける。「よいニュースと悪いニュースがある。どちらから聞きたい?」というのがこういう問いに答えるときのひとつの定型である。それではまず悪いニュースから。
それは、「国民国家としての日本」が解体過程に入ったということである。
国民国家というのは国境線を持ち、常備軍と官僚群を備え、言語や宗教や生活習慣や伝統文化を共有する国民たちがそこに帰属意識を持っている共同体のことである。平たく言えば、国民を暴力や収奪から保護し、誰も飢えることがないように気配りすることを政府がその第一の存在理由とする政体である。言い換えると、自分のところ以外の国が侵略されたり、植民地化されたり、飢餓で苦しんだりしていることに対しては特段の関心を持たない「身びいき」な(「自分さえよければ、それでいい」という)政治単位だということでもある。
この国民国家という統治システムはウェストファリア条約(1648年)のときに原型が整い、以後400年ほど国際政治の基本単位であった。それが今ゆっくりと、しかし確実に解体局面に入っている。簡単に言うと、政府が「身びいき」であることをやめて、「国民以外のもの」の利害を国民よりも優先するようになってきたということである。
ここで「国民以外のもの」というのは端的にはグローバル企業のことである。起業したのは日本国内で、創業者は日本人であるが、すでにそれはずいぶん昔の話で、株主も経営者も従業員も今では多国籍であり、生産拠点も国内には限定されない「無国籍企業」のことである。この企業形態でないと国際競争では勝ち残れないということが(とりあえずメディアにおいては)「常識」として語られている。
トヨタ自動車は先般、国内生産300万台というこれまで死守してきたラインを放棄せざるを得ないと報じられた。国内の雇用を確保し、地元経済を潤し、国庫に法人税を納めるということを優先していると、コスト面で国際競争に勝てないからであろう。外国人株主からすれば、特定の国民国家の成員を雇用上優遇し、特定の地域に選択的に「トリクルダウン」し、特定の国(それもずいぶん法人税率の高い国)の国庫にせっせと税金を納める経営者のふるまいは「異常」なものに見える。株式会社の経営努力というのは、もっとも能力が高く賃金の低い労働者を雇い入れ、インフラが整備され公害規制が緩く法人税率の低い国を探し出して、そこで操業することだと投資家たちは考えている。このロジックはまことに正しい。
その結果、わが国の大企業は軒並み「グローバル企業化」したか、しつつある。いずれすべての企業がグローバル化するだろう。繰り返し言うが、株式会社のロジックとしてその選択は合理的である。だが、企業のグローバル化を国民国家の政府が国民を犠牲にしてまで支援するというのは筋目が違うだろう。
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大飯原発の再稼働を求めるとき、グローバル企業とメディアは次のようなロジックで再稼働の必要性を論じた。原発を止めて火力に頼ったせいで、電力価格が上がり、製造コストがかさみ、国際競争で勝てなくなった。日本企業に「勝って」欲しいなら原発再稼働を認めよ。そうしないなら、われわれは生産拠点を海外に移すしかない。そうなったら国内の雇用は失われ、地域経済は崩壊し、税収もなくなる。それでもよいのか、と。
この「恫喝(どうかつ)」に屈して民主党政府は原発再稼働を認めた。だが、少し想像力を発揮すれば、この言い分がずいぶん奇妙なものであることがわかる。電力価格が上がったからという理由で日本を去ると公言するような企業は、仮に再び原発事故が起きて、彼らが操業しているエリアが放射性物質で汚染された場合にはどうふるまうだろうか? 自分たちが強く要請して再稼働させた原発が事故を起こしたのだから、除染のコストはわれわれが一部負担してもいいと言うだろうか? 雇用確保と地域振興と国土再建のためにあえて日本に踏みとどまると言うだろうか? 絶対に言わないと私は思う。こんな危険な土地で操業できるわけがない。汚染地の製品が売れるはずがない。そう言ってさっさと日本列島から出て行くはずである。
ことあるごとに「日本から出て行く」と脅しをかけて、そのつど政府から便益を引き出す企業を「日本の企業」と呼ぶことに私はつよい抵抗を感じる。彼らにとって国民国家は「食い尽くすまで」は使いでのある資源である。汚染された環境を税金を使って浄化するのは「環境保護コストの外部化」である(東電はこの恩沢に浴した)。原発を再稼働させて電力価格を引き下げさせるのは「製造コストの外部化」である。工場へのアクセスを確保するために新幹線を引かせたり、高速道路を通させたりするのは「流通コストの外部化」である。
大学に向かって「英語が話せて、タフな交渉ができて、一月300時間働ける体力があって、辞令一本で翌日から海外勤務できるような使い勝手のいい若年労働者を大量に送り出せ」と言って「グローバル人材育成戦略」なるものを要求するのは「人材育成コストの外部化」である。要するに、本来企業が経営努力によって引き受けるべきコストを国民国家に押し付けて、利益だけを確保しようとするのがグローバル企業の基本的な戦略なのである。
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繰り返し言うが、私はそれが「悪い」と言っているのではない。私企業が利益の最大化をはかるのは彼らにとって合理的で正当なふるまいである。だが、コストの外部化を国民国家に押しつけるときに、「日本の企業」だからという理由で合理化するのはやめて欲しいと思う。
だが、グローバル企業は、実体は無国籍化しているにもかかわらず、「日本の企業」という名乗りを手放さない。なぜか。それは「われわれが収益を最大化することが、すなわち日本の国益の増大なのだ」というロジックがコスト外部化を支える唯一の論拠だからである。
だから、グローバル企業とその支持者たちは「どうすれば日本は勝てるのか?」という問いを執拗(しつよう)に立てる。あたかもグローバル企業の収益増や株価の高騰がそのまま日本人の価値と連動していることは論ずるまでもなく自明のことであるかのように。そして、この問いはただちに「われわれが収益を確保するために、あなたがた国民はどこまで『外部化されたコスト』を負担する気があるのか?」という実利的な問いに矮小(わいしょう)化される。ケネディの有名なスピーチの枠組みを借りて言えば「グローバル企業が君に何をしてくれるかではなく、グローバル企業のために君が何をできるかを問いたまえ」ということである。日本のメディアがこの詭弁(きべん)を無批判に垂れ流していることに私はいつも驚愕(きょうがく)する。
■ ■
もう一つ指摘しておかなければならないのは、この「企業利益の増大=国益の増大」という等式はその本質的な虚偽性を糊塗(こと)するために、過剰な「国民的一体感」を必要とするということである。グローバル化と排外主義的なナショナリズムの亢進(こうしん)は矛盾しているように見えるが、実際には、これは「同じコインの裏表」である。
国際競争力のあるグローバル企業は「日本経済の旗艦」である。だから一億心を合わせて企業活動を支援せねばならない。そういう話になっている。そのために国民は低賃金を受け容(い)れ、地域経済の崩壊を受け容れ、英語の社内公用語化を受け容れ、サービス残業を受け容れ、消費増税を受け容れ、TPPによる農林水産業の壊滅を受け容れ、原発再稼働を受け容れるべきだ、と。この本質的に反国民的な要求を国民に「のませる」ためには「そうしなければ、日本は勝てないのだ」という情緒的な煽(あお)りがどうしても必要である。これは「戦争」に類するものだという物語を国民にのみ込んでもらわなければならない。中国や韓国とのシェア争いが「戦争」なら、それぞれの国民は「私たちはどんな犠牲を払ってもいい。とにかく、この戦争に勝って欲しい」と目を血走らせるようになるだろう。
国民をこういう上ずった状態に持ち込むためには、排外主義的なナショナリズムの亢進は不可欠である。だから、安倍自民党は中国韓国を外交的に挑発することにきわめて勤勉なのである。外交的には大きな損失だが、その代償として日本国民が「犠牲を払うことを厭(いと)わない」というマインドになってくれれば、国民国家の国富をグローバル企業の収益に付け替えることに対する心理的抵抗が消失するからである。私たちの国で今行われていることは、つづめて言えば「日本の国富を各国(特に米国)の超富裕層の個人資産へ移し替えるプロセス」なのである。
現在の政権与党の人たちは、米国の超富裕層に支持されることが政権の延命とドメスティックな威信の保持にたいへん有効であることをよく知っている。戦後68年の知恵である。これはその通りである。おそらく安倍政権は「戦後最も親米的な政権」として、これからもアメリカの超富裕層からつよい支持を受け続けることだろう。自分たちの個人資産を増大させてくれることに政治生命をかけてくれる外国の統治者をどうして支持せずにいられようか。
今、私たちの国では、国民国家の解体を推し進める人たちが政権の要路にあって国政の舵(かじ)を取っている。政治家たちも官僚もメディアも、それをぼんやり、なぜかうれしげに見つめている。たぶんこれが国民国家の「末期」のかたちなのだろう。
よいニュースを伝えるのを忘れていた。この国民国家の解体は日本だけのできごとではない。程度の差はあれ、同じことは全世界で今起こりつつある。気の毒なのは日本人だけではない。そう聞かされると少しは心が晴れるかも知れない。
2013年4月17日水曜日
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