2010年11月30日火曜日
福武總一郎氏の話を聞いて考えたこと
2010年11月28日日曜日
倉敷で遊ぶ
2010年11月27日土曜日
死刑の意味を問う
宮崎家石巻市で起きたこの悲惨な事件の犯人は、かつての彼女の家に押し入り、彼女の姉と友人の2人を殺害して1人に重傷を負わせた。
法学士の浅薄な議論だから刑法の専門家に突っ込まれることを覚悟して、以下述べる。
近代系法には二つの拠って立つ原理がある。一つに、応報刑論。すなわ ち、刑罰は、過去に他者に対して不正な行為をなし以って損害を与えたことに対して苦痛を与えるためのものとする考え方だ。ハムラビ法典の「目には目を、歯には歯を」というわけだ。
いま一つが、教育刑論。すなわち、犯罪者を犯罪に走らせしめた反社会的な性格や特性を是正することを目的として刑罰をは与えられるという考え方だ。
論理必然的に、後者の教育刑論の立場をとれば、未成年の犯罪者は高齢の犯罪者に比べて更生の余地が大きいと判断されるので、死刑判決は出しにくいということになる。今回の判決が社会的インパクトのある判決として注目されていることの背景はこれである。たとえば朝日新聞の今朝(2010年11月27日)の朝刊は、次のように社説で言っている。
「成長の途中段階にある少年は、教育や環境によって大きく変わる可能性を持つ。その特性をどう評価するか。」
もちろん、応報刑と教育刑の関係は絶対的対立の関係とは言えない。潜在的な刑事犯に対して刑罰という苦痛の可能性による抑止力を維持しつつ、同時に実際に事犯が発生すれば犯人に対して教育刑論的に対応して更生を図るというのがだいたいの先進国の刑法及び刑事訴訟法の運用のされ方で
はないかと思う。
俺自身は、かなりさっぱりと応報刑論に"親しみ"を覚える。もちろん俺は保守主義者だから、社会が異端者(サリンを撒こうとするとか地下鉄に爆弾をしかけるとか、そういうレベルの異端者)
に対して教育・指導を行い以って更生を目指すことは当然と思う。しかし、だからといって、"やられたらやりかえす"という秩序維持の大原則がないがしろにされてはならない。私刑(リンチ)が禁止されている近代国家では、国家が唯一の刑罰の執行者である(=国家は暴力を正当に行使する権限を独占する)。
ここ数年、犯罪被害者の裁判への参加ということを耳にすることが多いのだが、俺はこれは違うと思う。 違うというのは、正しくないという意味だ。
国家は、独占的に刑法を警察と検察という実力で以って運用するのだから、国家は犯罪被害者を判決に至る過程に関与させるべきではない。国家がなすべきは、かつては被害者(及びその遺族)が加害者に対して私的に行った復讐(=私刑)を被害者に代理して実現することだ。
勘違いして欲しくないのだが、ここにおいて国家が担う役割は、単に特定の事案における被害者感情の慰撫などではけっしてない。それは結果に過ぎない。
国家がなすべきこと、国家にしかできないことは、「他者に対する不正な侵害は許されない」という法
律以前の道徳律が、実効性あるものとして存在することを最終的に担保しつつ、それを国民に顕示することなのだ。
死刑の意味もまさにここにある。
「人を殺しても、最悪でも無期懲役だ」という社会よりも、「人を殺したら自分も"応報に"殺される可能性がある」という社会通念が共有された社会のほうが健全であると俺は考える。国家が暴力を独占する限り、我々国民は私的に復讐することができないのだから、この徳律を維持するためには、国家は死刑を放棄すべきではない。
従って、当然ながら俺は死刑賛成派であるし、また未成年と65歳の殺人犯にさしたる違いを見出す者ではない。裁判員制度云々は兎も角、今回の判決は画期的なものとして全面的に支持する。
2人殺しても生きているべき人間とは、神なのか?悪魔なのか?
(「冤罪で死刑が執行されたら取り返しがつかない」と死刑を否定する人がいるが、それは死刑だけでの話ではないだろう。冤罪で無期懲役になる可能性だってあるし、それも十分に人生にとっては破滅的だ。冤罪の可能性があるから無期懲役をなくそうという人はいないし、冤罪の可能性があるから強制猥褻罪をなくそうというのも無理な(理が無い)話だ。)
ひとりごと@新横浜
ラストサムライの真田広之は、男でも惚れます。"立てぇーいっ!!!"
最近、新聞か雑誌で俳優ランキングをしていたのをみた。映画監督や脚本家の投票で。間もなく第二部が始まる坂の上の雲で正岡子規を演じる香川照之の評価が一番だった。俺は昔の大河ドラマ秀吉の竹中直人の唾や鼻水を飛び散らしながら、渡哲也演じる信長に「おやかた様っ!」と叫ぶ姿をよく覚えている。日本一の俳優だと思う。
リドリー・スコットとラッセル・クロウの映画"ロビンフット"が楽しみだ。ハンスジマーの音楽だといいな。グラディエイター以来のコンビか?ラッセル・クロウといえば、どこかのホテルでスタッフを殴っておいて言ったのが、「世界中の(ホテルスタッフにいらつかされている)ビジネスマンを代表して殴ってやったのさ」。
少なくとも俺はいらついてないよ。
いじめ。一生消えない心の傷。
そんなわけあるかい。莫迦も休み休み言え朝日新聞こら。60歳のじじいがアストンマーチンからおりてきて50年前のいじめが...なんて言うたらその場で即身成仏させたるわ。
小学校の時、ある男の子を一日に三回泣かして先生にひどく叱られたことがある。集団でのいじめではない。小学校という場所は、"泣いたもん勝ち"なところがあって、不思議だった。「こいつは俺という
敵を前にして泣けば先生が助けてくれると思うとるんか??」と思った。思えば俺は昔からそういう"権力的なるもの"は大嫌いだった。フーコーみたい。
そうそう、アストンと云えば。
長渕剛が2ヶ月前に黒のAston Martin DBSを買ったらしい。 詳しくは雑誌Engine1月号。まぁ、わしのほうがようにあうんじゃけど。今はまだ全然似合んのじゃが。今俺がDBSに乗ると森蘭丸が赤兎馬に乗っているぐらい不細工だろう。
14年後。ありありと想像できる。
富士の空挺部隊か?という風な男が迷彩柄のカーゴパンツに黒のティーシャツ(全部ユニクロ)のちょび髭坊主頭で、爆音鳴らして沼津あたりに1200円の寿司を食べに走る姿を。お供は椿(狼、体重76kg)。
数年前からカフェのカウンターなどコーヒーをもらうときにニコリと笑って「ありがとう」と言うようにしている。この時相手の目をみて言わないとだめだ。最初は恥ずかしかったが、30が近づくにつれ段々と慣れてきた。
ありがとう。この言葉はなかなか重たい言葉で、きちんと使えば伝えられた人の一日をハッピーにしてしまうこともある。実際、俺はしょっちゅうそんなことがある。なんという単純脳。
だから、相手のハッピーな一日を願いながら朝7時にマックで"ありがとう"と言う。一人の他者をすこしだけハッピーにできたならば、俺が豚や牛を捕食して生きる一日には意味があると思うから。
男は顔だ。その顔があれば、周りの人間が安心する、隣の女性も安心する。そういう顔付でなければならん。まして日本の総理大臣は、危機にあっては日本を安心させる顔付でなければならん。永い平和が、危機にふさわしい男の顔を男から奪い取ってしまった。
首相が11月23日の夕方にやるべきだったのは、ぶらさがりの記者会見ではなくて、日の丸を掲げた記者会見の会場で、堂々と「国民のみなさんにまず申しあげる。心配は無用です。我が軍はこの事態をうけて直ちにデフコン3を発動し即応態勢を整えました。日本領土に飛来するどんな航空機や船舶に対する備えも万全です。勿論油断は禁物でありますが、我々は状況をきちんと把握しコントロールしています。新たな情報が入手されれば、適時適切にお報せ申しあげる。」
2010年11月26日金曜日
Ipadが欲しい!
2010年11月16日火曜日
「そこにもうあるわけだよ」
2010年11月14日日曜日
パンダとくらげ
数週間前の検察の中国漁船の船長釈放について、「検察が政治的判断をしては法治国家ではない!」という批判は、まぁそのとおりだろう。
だが、対中国の安全保障・外交力というより大きな視点から見ると、問題の本質はそこではないと思う。
「法治」が貫徹していること以上に大切なことは、政治の側の意思と、その意思を断固として遂行する覚悟を国家のリーダーが示すことだろう。誤解と批判を覚悟で極論を言えば、「法」がきちんと整備・運用されずとも、プラトン的な哲人政治家が統べる国では「法治」は必ずしも必要ではない。
現在の日本には「法治」も「人治」もないのだ。それは国家が弱体化しているということだ。今の日本は、過去百数十年の間に醸成された一群の既得権益が統べる国なのだと思う(既得権益を内蔵しない権力なぞあり得ないのであろうが)。日本という国のクラゲのごときフニャフニャの政権が牙をむき出しにした凶暴なパンダと穏やかに笑う白頭鷲(アメリカの象徴)の間で太平洋の西の方をフラフラと漂っている。たぶん世界からそういうふうに見られているのだろう。
他方で中国には、当然「法治」はないが少なくとも「人治」はある。無茶苦茶であるとしても。
「あれは那覇検察の判断でありますので」などと首相が責任を回避していては、たとえ今回の事件において検察がきちんと中国人の船長を起訴立件したとしても、それでは不十分だ。国家の意思を示すことが首相の最大の仕事であり、それ以外はその他閣僚・官僚の仕事だろう。
ペリーの黒船に動揺して右往左往したかつての江戸の幕閣と、一隻の小さな漁船のタックル(にしか見えません)に動揺しまくって挙句に検察に責任を押し付けようした事なかれ主義の現在の日本政府が、よく似ている。ロシアも完全に足元見てるしね。
それでも俺は日本の将来を楽観している(俺の将来は達観している)。
我々は、近代西欧の世界制覇に対して唯一「否」を突き付けて鉾を手に立ち上がり世界史の大転換をもたらした国である。大敗北のあとにも、物質主義に偏りながらも経済成長で世界を瞠目させた。
この国は、危機の際には必ず他の政治共同体とは異なる我々独自の精神的自主性の復興が行われる。
それは、必ずしも中国との対立関係にのみ我々を導くものではないだろう。中国の巨大な国力に間近
で影響されながらも、それを受容して日本という国の精神的自主性を維持・扶養することが、我々が後世のためになすべき最大の貢献であり、先輩達に対して負う責任の履行である。
今回の事で可哀そうなのは映画「海猿」の製作に携わった人たちだ。実際にマイナスの影響があるかどうかは分からんが、少なくとも興業にプラスの影響はないだろう
独り言:
紅葉のキャンプ、のはずが。
2010年11月12日金曜日
缶コーヒー
今なら、例えば、どこぞの山に走りに行くぜ!というときは、車に小型バーナーと珈琲豆を積んで行くのだが、かつては屋外で珈琲となれば缶コーヒーしか選択肢がなかった。
20歳で関学に入学してから約9年、恐らく俺個人の類型消費量は数百本(千?)に達するはずだ。
怖るべきことは、俺が口にしてきたこの数百本の様々な缶コーヒーのなかで、一本たりとも「ぬるいなぁ」とか「これは熱すぎる」と感じさせるものがなかったということだ。我々は(少なくともさっきまでの俺は)自販機で缶コーヒーを買えば、たとえば熱い缶コーヒーならば、掌で握り締めるには熱すぎるがさはいえ触れることもできない熱さではないという、あの絶妙な適温を当たり前のことと思っている節がある。だがこれはすこいことだ。 ちょっとした機械文明時代の職人芸とでも呼びたい。
気温が3度のときも33度のときだってあるし、自販機に搬入したばかりということもあるだろう。単純に自販機が気づかれぬまま故障 しているということだってあるはすだ。 それでも、常に同じ。常に同じ”パフォーマンス”。これこそプロの仕事だ。しかも玄人っぽく、全く目立たない。
たぶん、このクソッタレ資本主義というものは、数限りないこういう見えないプロフェッショナルの仕事を生み出すことで社会を支えているんだろうと思う。そりゃイチローは確かにプロだが、イチローだけがプロなわけでもない。そういう隠れたプロを思い遣り(思い遣り=遠くを思うこと)、いい気分になった。が、俺はプロではないな。
街や田舎に乱立する自販機を、とてもいとおしくなど思えぬが、こう考えてみると自販機もそれを管理する飲料メーカー(?)も、たいしたものだなぁと、銀杏並木のとなりの人気のないベンチに座りながら考えた。 とても日本人以外にはできぬ芸当だと思う。外国に自販機がない理由の一つかもしれんね。
おぉ、どこからか「すごいのは自販機だろう」というニヒリストの声が聞こえてきた。
さぁ、今週は山で焚き火じゃ(キャンプ)。寒いから薪はたっぷり必要だが、できる限り現地調達を旨とすべし。
今日買った本:
佐々木中「夜戦と永遠」以文社 2008年
みんなよい週末をお過ごし下さい。
2010年11月11日木曜日
てがみ
姪はね、なんとGmailアカウントを持っているんです。
アップするかどうか逡巡したが、まぁ人の悪口じゃないし、よかろうと決めた。
あいこへ
こんにちは。
これをきみがよむのは、なんねんさきのことだろうか。
きみはきょう、うまれてはじめてじぶんのちからでたちあがった。2010ねん11がつ8にちのことだ。
おれはみていないがね。
あねきから「そくほうにゅーす」がとどいて、おもわずにやついてしまった。
きみのちちうえさまもははうえさまも、じじさまももばばさまも、きみがげんきにおおきくなってくれることがなによりもうれしいようだ。おっと、もちろんひいばばさまだってそうだ。
おれもそうだが、きみもたいそうしあわせだ。おれはこうたいしだったそうだが、きみはおひめさまだ。おやばかぶりではあなたのはははなかなかだれにもまけないだろうよ。
でもね、あいこや。
しあわせにうまれついたものは、まじめにいっしょうけんめいにいきて、しあわせをほかのひとにもゆずってあげよう。それがきみのしあわせになる。
せかいからあいされたきみならば、せかいをあいせないはずがない。たとえそれがどんなせかいであってもね。だっておれらのせかいじゃないか。おれらのくにじゃないか。おれらのかぞくじゃないか。ほかのだれのものでもない。
これからきみは、ながいながいじかんのなかで、”すうせんまんぽ”でも、”すうおくほ”でも、そのまだぷにぷにのあしであるくだろう。そのながいみちがうつくしいものであるのかどうか、いまはまだおれはすこしだけふあんだ。
でもね、しんぱいはむようだ。きみをいのちがけでまもってくれるひとがせかいにはたくさんいる。きみにほほえみかけてくれるひとがせかいにはほしのかずほどもいてくれる。
きみのおとうさんはりくぐんのぐんじんさんみたいだし、きみのおじさんはかいぐんのぐんじんさんみたいだ。きみのおかあさんはきみがうまれてからかくじつに”わらいじわ”がふえた。
きみがあるいていくながいみちのほとりには、いろとりどりどりのはなたちがたえずかおっているだろう。
ねがわくは、きみが、そのおおくのはなにきづき、みなとよろこびをわかちあえるうつくしいこころのもちぬしであらんことを。
ほれほれ、わかるかこのぷにぷにむすめ。
きみがだんだんにんげんらしくになっていくのがおれはとてもおもしろい。
きみはそのうちおれのことを「はげおじさん」なんてよぶのだろうね。
まくらことばは、「せかいでいちばんかっこいい」はげおじさんでよろしくたのむぜ。いいこにしてたらたまにはAston Martin DBSにのせてやろう。たまにはニーチェについてかたってやろう。
いまはしっかりおちちをのんでしっかりねておくがよい。しっかり"のう"をせいちょうさせておきなさい。
おれのはなしはむずかしいぞ。みみからはなげがとびだすほどだ。
もとい
2010年11月8日月曜日
人間の間に生きるとき
下記は、ツァラトストラが彼が孤独を愉しんだ山(洞窟)に久しぶりに戻ってきて語る言葉。
2010年11月7日日曜日
空腹と走れ!
2010年11月6日土曜日
読書は孤独な体験であるという誤解について
完全な人間
これに対して男は、自分の卑猥な自己顕示欲と性的欲求の混入した支配欲に動かされ、これがために仕事に励み身体を鍛える。まるで、女性に受容されざれば自身が存在すること能わざる者であるかのように。陥穽は此処にある。