戦前戦中は軍=加害者、国民=被害者という後味のよい善悪二元論に歴史を還元したくなるのは、その社会全体の痴呆の始まりか。
さて、この本は、ヒトラーの経済政策とケインズの経済思想・主張を比較したもので、その類似点を強調することでナチスに新たな光を当てようとしている。同時に、それが大恐慌(1929)後のハイパーインフレ(マルクの価値は1兆分の1になった)をいかに克服し、工業大国ドイツを成長させて国民に職とパンを与えたかについて述べている。
端的には、「ナチスの経済政策は効果において素晴らしかった。アメリカのニュー・ディールは失敗したが(アメリカの景気が本格的に回復したのは1941年以降)。そして、それはケインズがさまざまな著作などで主張したことと基本的に一致した政策であった。」ということを言っている。
俗に言われるケインジアン政策とは、「不況期には、政府が財政出動を行って有効需要を創出し、以て失業を減らすべし」という政策だといえる。リーマン・ショック後の世界経済の動揺・低空飛行のなかで、数多くの政府が行ったことはまさにこれを地で行くものだった。
ヒトラーがドイツ帝国の総統として全権を掌握した1933年、ドイツは世界恐慌により大打撃を受け600万人以上の失業者を抱えていた(失業率34%)。経済破綻といってよい。
ヒトラーは政権奪取の3ヶ月後、有名なアウトバーンの建設を発表した。ドイツ全土を全長1万7千キロの高速道路(いまだに一部は速度無制限!あぁ、なんて甘美な響きだ)を6年間で建設するというものだった。このアウトバーンの建設に始まり、住宅建設、都市再開発などのきわめて積極的な公共投資(ヒトラーは当時は財政赤字をものともせずに16億マルクの国債を発行した)によって、わずか3年間で失業者を100万人にまで減少させた。経済は順調に回復し、1936年のGNP(国民総生産)はナチス政権誕生以前の最高であった1928年を15%も上回ったという。
この時期、同じく世界恐慌により崩壊した米国は、ニュー・ディール政策を1933年から行うも1938年の時点ではいまだに800万人の失業者を抱えていた。
さまざま特徴のある経済政策を行ったナチス政権のなかでもヒトラーの公共投資戦略は非常に現在にあっても示唆的だ。ヒトラーは、高額所得者・大企業に対する増税を行い、それを公共事業の原資とした。かつ、公共事業費は、労働者に厚く分配した。要するに、高額所得者・大企業の金を労働者に分配したということだ。観念的に「平等が大切!」だからこの政策が正しいというのではない。
なぜ、労働者の取り分を厚くする必要があったのか?
それは、単に公共事業(地方に橋を作る道路を作る、例えばね)を行うだけでは、それは地主層や大手建設会社を潤すことはあるが、彼らは相対的に労働者よりも大きな富を既に保有しているために、公共事業による収入増=消費につながらない。だが、失業していた労働者にこの収入が分配される場合、彼らはどうしても消費にその収入を回さざるを得ない。つまり、ヒトラーは、増税によって金持ちの資産を吐き出させて、それを公共投資によって有効需要に還元してから労働者に分配したのだ。それによって、眠っていた富が市中に動き出すようになり、経済が活性化した。ナチスは、公共事業を受注した企業にナチス党員(SS?)を送り込み、業者が労働者にきちんと収益を分配しているか監視を行った。
(翻って日本の公共事業ときたらどうだろうか?)
著者は、ヒトラーとケインズの社会に対する見方(それを経済思想と呼んでいるのだが)について、両者の根底には、「とんでもない格差社会を作らない」という意思(=当為)があったという。例えば、ケインズは、1917年に母親に宛てた手紙でこう述べる。
「戦争がこれ以上長引くことは、・・・これまで我々が慣れ親しんできた社会秩序の消滅を意味するえあろう・・・残念ですが、私はこれを全面的に悲しいとは思いません。金持ちがいなくなることはむしろほっとすることです。それより私が恐れることは、(国民)総貧困化の恐れが生じることです」。
ちなみにケインズは、イートン校からケンブリッジ大学という典型的なイギリス特権階級の教育課程を経ている。他方で、ヒトラーは、1940年11月、ベルリンの軍需工場で行った演説で次のように述べた。
「現在の資本主義の経済原則では、国民は経済のためにあり、経済は資本のためにある。しかしわれわれは、この原則を逆転させた。つまり、資本は経済のためにあり、経済は国民のためにある、ということだ。別の言葉でいえば、何より重要なのは、国民なのだ」
政治とは、夢を語ること以上に、限界的な決断を行うことだ。つまり、有限的資源(このパンを二人で分けることはもはや不可能だがどちらかが食べないとどちらも死ぬ!)をいかに配分するかについて、暴力を背景に決断して実行することが政治である。そうであれば、政治を行う者の精神は、どれだけ頑丈であってもそれに過ぎることはない。なぜといって、政治とは人間の活動において唯一の合法的のみならず、「正しく」人を殺すことができる活動なのだから。
しかし、その頑丈さは単なる不感症が故であってはならない。過敏なまでに、対立せる諸個人・諸集団にとっての死活的利益を「理解」しながらも、それを裁断していくための断固たる「信念」を持つ者だけが、政治を行いうるのだと思う。
「覚悟だぜ」