雑誌「GOETHE」に村上龍がごく短いエッセイを書いている。ときどき面白い。
今回のエッセイは彼のあまり親しくもない女性の友人から差出人不詳でドラえもんの目覚まし時計(だったはず。。。)が送られてきて、それを彼が爆弾と勘違いしてしまって云々という話で、結論としては「贈り物は恐ろしい。それによって人と疎遠になることだってある」ということだった。
さて。
数年前から、プレゼントというものについて俺は拘りがあって、今夜はそれについてちょっとお付き合いください。
俺自身におけるプレゼントの等級は、次の通り。
第一等:相手がそのプレゼントをもらうことを全然期待していかったのだが、もらってみて「なんて素晴らしい!」と言われるもの
第二等:相手がそのプレゼントをもらうことを期待してはいなかったものの、相手は自身がそれを欲していることを知っていて、「なんで私がこれを欲しいのを知っていたの?」といわれるもの
第三等:相手がそのプレゼントをもらうことを期待していて、かつプレゼントをもらう前に既にあなたがそのプレゼントを自分に渡してくれるであろうことを予想しているもの
第四等:金
少々説明が必要なりと認む。
第一等のプレゼントは、言ってしまえば「需要を贈り主が作り出す」ようなものだ。
相手がそれを欲しがっていない、もしかしたらそれについて知らないという場合にーマーケティング風の言葉づかいをすればー、潜在的な需要をつかみ取ってそれを渡すのだ。これは、相手に対する最も深い理解を必要とすることは言うまでもなかろう。「あぁ、私はこういうものを手に入れておけばよかったんだ」という気付きさえ与える。このプレゼントは至極である。
第二等のプレゼントは、「2週間前に外苑前のCORNESの店の前を通った時に君がベントレーを欲しそうに眺めていたから」と言いつつキザな男がベントレーの鍵を彼女に渡すものだ。この場合は、相手の需要が潜在的ではなく、既に顕在化しているものの、その現れ方は第三等のようにあからさまではないので、これに気が付くことは容易ではないかもしれない。
第三等のプレゼントは、恐らく世間一般で最も頻繁に贈り贈られているつまらんプレゼントだ。「クリスマスのプレゼントは何がいい?」「コマツの290トン積載の超巨大ダンプカーがいい!」というあの会話から生まれる、巷の恋愛ゴッコに巣食う資本主義者どものいい銭のタネである、あれだ。
第四等のプレゼントは、最も純粋な価値の提供の方法である、Goldである。現金は政府がなくなれば紙切れであるから贈り物をするなら、あるいはもらうならば通貨よりもGoldにすべきである。
プレゼントをするときに、楽しくないと意味がないと思う。
相手が欲しいと思っているそのものを買って相手に渡すという行為は、なんなのだろう。
それに対して相手が「ありがとう」と言ってくれるのは、①あなたがそれを買うために土曜日に4時間デパートを歩きまわったから?②少ない20代の給料から相手へのプレゼントのための「経費」を捻出したから?
思うに、①の時間的コストを考慮しても、相手が欲しいものを素直に渡すことは、②の単なる金銭の贈与とさしたる違いはない。なぜといって、この時代の日本に暮らしていれば、何物かを手に入れるために必要な時間的肉体的コストなぞ、ほとんど完全に無視できるからだ。だから、「欲しいものをわたす」プレゼントは、形式的にどうであれ、贈り主と贈られる相手の内心はどうであれ、実際には単なる金銭の授受以上のものではない。
ーと、大学か大学院の頃に考えるようになった。そういうわけで、プレゼントというものを貰うのも渡すのも大嫌いになった。「何か欲しい?」と尋ねられて「ノーラン・ライアンの肉体」と答えたこともあった。
ところが、人間やればできるもので、頭を使うとプレゼントというのはお互いにとって素晴らしいものになりえるものだということも分かった。それが、第一等のプレゼントに他ならぬ。そのためには、少なくとも贈る相手について、次のことをじっくり考える必要がある。
・どういう家族構成か。
・どんな人生を生きてきたか。
・どういうことに興味を持っているか。
・どんな洋服が好きか。
・どんな街が好きか。
・どんな遊びが好きか。
・どんな食事が好きか。
・どういう仕事をしているか。
・休日はなにをしているか。
・どんな本を読んでいるか。
・どんな人と付き合っているか。
・どんな道徳観を持っているか。
・どんな世界観を持っているか。
・人生においてどんな夢や目標を持っているか。
・彼・彼女自身が気づいていない長所はなにか。
・現状に満足しているか。
・これからどんなことをすればもっと素晴らしい人間になれるか。
・ともに素晴らしい世界を後世に譲り渡すという世界的なプロジェクトの協働者として、世界のために今何をなすべきなのか。
これぐらい考えれば、相手が誰であってもーもちろんギャンブル性は残るのだがー、第一等のプレゼントを渡せる可能性が生まれてくる筈だ。
ところで贈り物をするときに俺が得る最大の対価は、このギャンブル性と、それが見事に相手の潜在需要を探り当てた時の何ともいえぬ嬉しさである。
天の邪鬼なのか、相手が期待していることをするというのが敵前逃亡と同等に格好悪いことであると思えてしまう。相手の期待には断固として沿わない、だが、それをはるかに上回るものを贈る。これが、互いにとって最高のプレゼントである。
「相手が欲しがっているものを贈るのが相手のためになる」なんていうのは、贈り主の単なる怠惰だろう。そりゃ楽だろうよ。それを選択したのは相手であって、貴様ではないのだから。決断を貴様はしていないのだから。「なんでこんなものを?」と言われるリスクをとって考えるから、プレゼントはいつも我々の娯楽なのである。
余談だが、Iphoneなんてものは、「消費者の需要」にAppleが対応する形で作ったのではない。大多数の折り畳み式の携帯電話を5年前に使っていた人は、「画面がこれの二倍くらいあってインターネットをもっと快適に閲覧出来て、クラウド上に保存した情報にどこからでもアクセスできて、アプリが数万も使えるような、そんな電話があればいいのになぁ」などとは考えていなかったはずだ。せいぜいが、「もう少し携帯のカメラの写真がきれいになればいいのにな」ぐらいのものだろう。
その消費者の需要に従っていたら(第三等のプレゼントに相当)、IphoneもIpadも誕生することはなかった筈だ。
一つのプレゼントであっても、禿頭になるぐらい考えて考えて考えて、挙句に思いつきでヒョイっと贈ったものが、けっこう喜ばれたことが過去にあったので、自慢げに以上にように書き記した。