さっきBethesda界隈を散歩していてふと思ったのだが、織田信長をニーチェが知っていたとしたら、ニーチェは信長を彼のいう「超人」だと礼賛したのではないか。ニーチェはキリストの「神は死んだ」と喝破したが、信長は叡山の僧侶を皆殺しにした。
馬に乗りポルトガルのマントを羽織る信長をヘーゲルが見れば、ナポレオンを彼が見た時と同じように「世界精神が目の前を通る」と言ったに違いない。
ところでニーチェの「超人」とは、彼の想像した究極の人間存在の謂いであるが、これは英語だとスーパーマンとなる。なんだか青と赤のあのスーパーマンの姿が想像されて、ちょっと滑稽。
アメリカで本屋は軒並み苦境にあるそうな。理由はもちろんAmazonとKindle。
そのせいで、減少中の本屋に行ってみるともうすさまじい光景である。
ある大学生らしき20代前半の女性は、専門分野の分厚い本を10冊ほど二人掛けのテーブルに積み上げ、隣のスターバックで買ってきた巨大なカフェラテを机に置き、ノートパソコンを開いて椅子の上で胡坐を書いて熱心にレポートを書いている。
ここは図書館ではなく、普通の本屋である。そして、たまに店員がやってきて、「この本は棚に返してもいいか?」と尋ねると、使い終わった本だけ「はい、これだけ返しておいて。どうも。」という具合で数冊本を手渡す。これを何時間でも机を占拠してやるわけである。
彼女は全然特別ではない。同じことをしている人が周囲にいくらでもいる。当然WIFIが飛んでいる。
つまり、本屋は本を買うところではすでになく、立ち読みするところですらなくなっている。それは、すでに「本を借りられないけど無料でWIFIが使えてそばにカフェもある図書館」になっている。この状況で本屋が必要とする売上を上げることは困難と言うほかない。
まぁ考えれば当たり前の話で、アイフォンを使えばAmazonで30秒で本を注文して2日後には送料格安で自宅まで本が届く時代に、わざわざ本屋に行く必要は全然ない。多くの場合、人件費や店舗賃貸料が上乗せされるために本屋のほうが割高なのだから。
とはいえ、それでも俺は本屋ならではの武器があると思う。それは、背表紙をこちらに向けてずらっと陳列することができるあの一覧性と網羅性である。Amazonは確かに俺が過去に購入した本の履歴から俺が興味のありそうな本をいつも推薦してくるのだが、間違ってもマルクスについての新著を紹介してくることはない。Amazonのコンピュータが分析するより俺は幅広いのだよ。俺は丸の内の丸善では、哲学・政治思想関連の本棚は保守主義からマルクス主義まで舐め回すようにチェックするのである。ついでに言えば、近代建築の写真集を30分も眺めていることもあるし、合気道の入門書を一生懸命立ち読みしていることもある。ヘラブナ釣りの雑誌やヤクザ専門雑誌(実話時代)も読む。さらに本屋は図書館とは違って、タブロイド雑誌も含めてありとあらゆる雑誌や新書を雑然と陳列することによって、世相を見事に反映してもいるから、浦島太郎はまず大型の書店に行けば時代錯誤をいくらかは解消できるだろう。
だから、俺は本屋が適正利益を上げ続けられるように、小さな努力でしかないが本屋である程度は本を購入し続けようと思う。レストランがない街や居酒屋がない街に暮らすことはなんともないが、本屋がない街に暮らすことだけはできないと思うから。
物があふれる時代には、本の有難さは忘却される。誰も「本が手に入らない時代」があったことなど想像しない。だが、ほんの500年前、人々は権力に対抗したり教会からの迫害を避けながら、たった一冊の本を全て手で書き写し、読めぬ人に語り聞かせるということをやってきたのだ。そういう「読書」に比べて、我々の「読書」のなんと貧相なことか。
「趣味は読書です。」という人間は阿呆だと思う。物好きで本を読む人間は、娯楽としてしか本を認識できない。自分の人格の外部に本を置いてそれを搾取するかのように漁る。浅ましいことだ。そうして得た情報について知ったかのように振る舞い始めたら、これはもう情報への隷属である。隷属を強いるかのように書店に並ぶあのファッション雑誌。誰に命令されているのか。
生活に思想を与える。俺の一分一秒全てに思想を持たせ、思索の上の断固たる決意の上に生きる。それが意味のある人間の在り方だ。どこに所属しているかなど知ったことか。
何をするか、ではなく。如何に在るか。問題はこれなのだ。
自由が尊いものであるとして、それは何故か。
それは、意思が外部に顕現する場として自由があるからだ。
つまり、自由そのものには価値はない。
サッカー場は素晴らしいプレーを見るために必要であるが、サッカー場だけを見に来るサッカーファンがいないことと同様に。
ニーチェ、狼、永劫回帰、革命。
このあたりがここ18カ月ほどのキーワードなのだが、ニーチェは人間のなかで最も狼的な人間である(マーク・ローランヅ風に言うと)。ニーチェは、商売人にはなれなかっただろうし、詐欺師にもなれなかっただろうし、教師にもなれなかっただろうし(どんな講義になるのか考えただけでワクワクするが)、政治家にもなれなかっただろうと思う。もちろんいい夫や父にもなれなかっただろう(宗教家にはなれただろう)。ニーチェはサルではなかった。
端的に言えば、ニーチェは「ニーチェ以外ではあり得なかった」のだ。狼が、狼以外ではあり得ないのと同じように。存在せるものの本質的な美しさはここにしか生まれない。「私は一個の爆弾である」。いやー、よう分かりますよ。毎日炸裂してますよ。
人間は、醜い。外見が、美しくない。狡賢さが表情に表れているような人間は、特に醜い。
そう思うことが最近とみに多い。
イルカやシャチが高速で海洋を疾駆する姿、南極海をペンギンが滑空するように泳ぐ姿、大空をイヌワシが羽ばたく姿。
他方、ホモサピエンスが机の前に猫背になって神経質そうにカタカタとなにやら叩いている姿、ホモサピエンスが酒を飲みながら酔っぱらってフラフラになっている姿。
野生動物だから動物園の檻に入れられてもまだ見るに耐えるのだが、反対に人間が動物園で檻に入れられたら、見るに堪えない光景になりそうだ(別にヒューマニズム的な意味でこう言うのではない。俺はそれほど人間愛に溢れる男ではない)。
しかし、さりとてゴキブリは美しいとは思えぬ。
妻と子供の関係は特別で、そこに父や夫の入り込む場所はないような気もする。が、それでいいのだと思う。男の役目は安全保障。軍と同じ。軍は、平和が維持されているからといって、「俺のおかげだぜ!すげぇだろ!」なんて言ってはいけない。
妻子と男の間には距離があるし、またあってしかるべきなのだ。いつも妻と子と仲良しの「パパ」になってしまっては男に生まれた甲斐がない。
男はただただ精神と肉体を鍛え続け大人の男になるための訓練を、ひとりで地道に淡々と毎日続けていくのだ。家庭を持ち自己をそこに埋没させていくーしかも自ら進んでそれをやるー男ほど、実は家庭をぶち壊しがちなのだと思う。
時代錯誤の男性優位主義だって?はっはっは。冗談はよしこさん。