真理、確かなるもの。
人間はそういうものがないと一日たりとて生きていけぬ動物であるらしい。
かつて人間はそういうものを神に求めた。だからこそ、神、司祭の膝元に屈した。
今は、ファッション雑誌とインターネットとテレビ番組のなかに求めている。
ファッション雑誌に登場するモデルが神の子供のように若い女性に崇められ、インターネット・インフラを提供する会社が急成長し、テレビ会社の社員の給料が最も高給なのはこういうそのことの反映である。人間は教会に行く代わりに携帯電話とテレビから世の「情報」を得て、それに従い、それに適うように振る舞う術を覚えていく。それができぬ人間は、「空気が読めない」だの「変人」だのと言われることになる。昔風に言えば、「異端」というわけだ。
世の中に真なる理、それ以外のものを誤謬としてしまうような唯一の真理があるとか、普遍の確かなるものがあるなどというのは弱さの兆しである。
確かなものなど何一つない。真実など、国家の数だけ、人の数だけ存在する。
そして、だからこそ、革命がこれからも必要であるし、革命は今も可能なのだ。
かつて法然は、比叡の山を降り、「ひたすらに阿弥陀仏を唱えさえすれば、全ての人間は極楽往生できる」と唱えた。1175年のことだ。
当時、中世温暖期を前半と後半に区切る気候悪化の時代だった。それによって洪水、干ばつ、長雨によって各地で飢饉に見舞われ、さらに大地震によって都が大損害を受けた。隆盛を誇った平家も没落し、都では強盗が横行し、世は乱れに乱れた。
そんな時に、革命家・法然は、それまでは貴族・武士などの特権階級に限られていた仏教の極楽への門を民衆に開放することによって弱者を救済し、女性を救済する新たな宗教革命を行ったのだ。この法然の革命は、その後親鸞へと引き継がれ、偉大なる鎌倉仏教の盛華へと繋がっていった。佐々木中氏に倣って言うと、彼は「革命戦争」を行ったのではない。法然は、書き、語った。そして、革命はなされた。
革命は、人が生きるために、人が命を繋いでいくためになされる。それは、なされてきたし、これからも社会が、国が危機に陥るたびになされるだろうし、なされねばならない。