2012年11月19日月曜日

ニーチェの死生観 2

マーク・ローランヅは、「死が我々にとって悪いことであると考えられているのは、我々が死ぬことによって何かを失うと想定しているからだ」と言うのだが、ニーチェはかく言う。

「死ぬという行為は、一般に畏怖されていることが物語るほど意義あることではなく、また、死につつある者は、彼がここでまさに失おうとしているもの以上に重要なものを、生において多分に失ってきただろう。」

ー『曙光』

言わんとしていることはこうだ。

「死が目の前にやってくるその時までぐうたらしてきた人間が死んで何かを失うだと?気様の生を振り返ってみるがいい。いきなりここから先の人生が仮にあったら自分はもっともっと素晴らしい人間になれるのだーなどとはゆめゆめ夢想せぬことだ。妻がいきなり貴様が死んだ翌日に絶世の美女になることもなければ、貴様のその悲惨なほどたるみきった腹が明日へこむこともなく、上司はこれからも苛立ちの原因であり続けるだろう。これから先まだ余分に生き永らえたとしても、メインのステーキはもう既に残っておらんのだよ。あまりドタバタ騒がぬほうがよい。」

思うのだが、かつての日本の軍人が、「天皇陛下のために死ぬことが当然だと思っていた」というのは嘘ではないと思う。つまり、我々の時代の死への恐怖も、かつての大義のための死の礼賛も、実のところ珈琲と紅茶の違い程度の差異でしかない。我々の時代の死への構え方が正しいわけでもないし、過去は誤っていたわけでもない。死の恐怖も死の礼賛も、作られたものであるから。

キリスト教においては、アダムが神の言葉に背いたので、人間は永遠の生を失い神と離れて生きることになった。すなわち、人間が人間であるというそのことに由来する、あの、原罪。
この原罪の思想は、生を貶めることになった。死後の世界と生の二元論、そして前者を賛美し、後者を蔑み、両者をつなぐ接続点として死を認識するのがニーチェがひたすら批判したキリスト教の基本的な死生観である。この死生観からすれば、死後の魂をありがたがり、生における肉体を軽蔑することは自然なことだ。

マーク・ローランヅは言う。
「狼にとって、死は本当にすべての終わりである。そうであるから、死は狼を支配しない。」

だが、ニーチェは、「人間は死ねば土に還っておしまいよ」という世間でよく耳にする唯物論的な死生観をとるわけでもない。つまり、生きている時は死んでいないし、死ぬときにはもう生きていないから問題なしとはニーチェは言わぬ。
(だから、ニーチェはたまらなく魅力的だ)

ニーチェはここから、死を何か別の異世界への連結点とみなす見方も、死を生から完全に排除して無視を決め込むことも拒否することになる。

そして、登場するのが、そう。
生即死の絶対肯定へ至らんとする、永劫回帰の一側面である運命愛である。

ニーチェが次のように死を瞬間ごとに「死に切る」ことを、語る時、ニーチェは完全に山本常朝(「葉隠」)とほとんど同じ場所に立っている。

「誇らしく生きることがもはや不可能ならば、誇らしく死ぬこと。自発的に選択される死、明るく、喜ばしく、子供たちや立会人の真ん中で遂げられる、時宜を得た死。」

ー『偶像の黄昏』

自殺推奨でないので、ニーチェはこうも言う。俺はこれを読んで一人大笑いした!

「自殺の評判を悪くしているのは自殺者である。ー逆ではない!」

「あらゆる生の瞬間が、同時にまた、死を死に切る決断の場だということ」(新田)というのは、まさに、かつて武家の子供たちが親や教師より叩き込まれた「生死一如」という存在の在り方である。

以上は、新田「ヨーロッパの仏陀ーニーチェの問いー」二章の読書メモです。