新渡戸稲造は、武士の時代がまさに終わろうとしていたその時に、恐らくは日本人が現在までに書いた英語の本のなかで最も美しい英語の文体で、「武士道」を書いた。それは、アメリカを中心に世界の多くの人に読まれた。
いま、日本に新渡戸博士が言ったような意味での武士道を見出すことは困難であると断言したい。昔を美化して今を卑下したくなるのは我々の常であるが、我々はかつて武士が生きるための規範として持ち続けた武士道という特殊な道徳律と実践哲学を、すでにそれ以外の何者かで代用して済ませている。例えば効率性とか、損得勘定とか。まさに商売人の俺やな...
少し前に和食が世界遺産となった。このことは、俺に上に述べた新渡戸博士の「武士道」を想起させる。
今や我々日本人のどれくらいの割合の者が、丁寧に鰹節や昆布で出汁をとった味噌汁を日常飲んでいるだろうか。都内の飲食店は客の舌に訴えるために、ひたすら味付けを濃くし、食品の保存期間を長くしてコストを下げるために化学調味料や保存料まみれの食事をなんの疑いもなく提供し、我々は豚のように美味くも不味くもない中性的な没個性的な料理を囲んでは酒を飲んでいる。コンビニの焼きそばを食べて舌が痺れるほどの化学物質に驚愕したことがある人もいるだろう。
そんな我々日本人の一般大衆にとって、まっとうな和食=日本食というものは「和」「日本」という名前はついているが、すでにどこかノスタルジーさえ感じさせるものになっていはしないか。俺は、明治の時代の日本人が、ちょんまげと日本刀に対して抱いたであろうような感慨を「和食」という言葉のなかに見出さざるを得ない。
武士道も日本食も、それが日本人の生活のなかに確固たる根を持ち生活のなかにそれが溢れていた時には、我々はわざわざそれを生活から引っ張り出して対象化して語り論じる必要なぞなかったのだ。全てのものは、ふんだんに存在する時には存在を意識されないものだ。
街中に溢れるどんな物を使っているか全然不明の1500円のステーキ定食や500円のチーズバーガーセットを毎週のように食べるより、俺は年に一回本物の寿司と千屋牛の炭火で焼いたステーキを食らう。
それ以外は毎日枕崎の鰹節で出汁をとった味噌汁と米と納豆と魚と漬物を気合いを入れて一噛み一噛み味わって食うとりゃええのだ。
ちなみに我が娘のおやつは、小魚やホウレンソウたっぷりの小型握飯、ゴマ、鰹節、ブロッコリー等である。たまに蓬餅なんかも旨そうに食べている。勘違いして欲しくないのだが、両親はこれを全く強制していない。いつからか、棚のゴマを引っ張り出しては小さな人差し指に一粒ずつゴマをつけて食べるようになっていただけのこと。
コンビニの食べ物には寄り付きもせん時代錯誤な娘になるだろうが、奇跡のような美しい肌の女性になるだろう。
現代的食生活、ひいては現代資本主義産業社会へのこのチビっ子の小さな抵抗ーDefianceは、ここから始まる。そこに、革命の萌芽よあれかし。