2014年5月9日金曜日

生命をデザインする技術

今日は、父の話から生命倫理と保守主義のことについて考えてみたいと思う。上空10,000mでのプレモル一缶後の思索というには足りぬ思索だが、ご容赦願いたい。

俺は何人かの友人などに、我が父を「偉大なる平凡人」と言ったことがある。独創的であることとか人と変わっていることとか個性的であることとかに恐らくは生涯一度も関心を持ったことがないような、ジーパンを断固として履かぬ昭和一桁の生まれか?と見間違うような男が我が父である。
「地に足のついた人」というが、この人の場合は地に足がつくどころか、踵から土中深くまで根が生えてしまっているような、そういう趣がある。しかも意識してそうしているというよりも生まれながらにそうであるような。

この親父と先日晩飯を食いながら話しているとき、話が再生医療の話になった。ノーベル賞をとった京都大学の山中教授のIPS細胞とか話題になり過ぎの小保方さんのSTAP細胞などのことだ。

親父はざっくばらんにこう言う。

「人間、生まれてきて、成長して、歳をとって、普通に死んでいく。それが当たりめえ(当たり前)のことじゃろうにのぅ。自分の内蔵を新しゅう培養して作ってそれでふりぃ(古い)内蔵と取り替えて長生きするじゃあゆうてから、誰か"なんかおかしゅうねぇか?"と言わんもんかのう?わしにゃあ不思議じゃのう。」

はっとした。言われてみれば、もっともな話だ。別に親父のいうことが正しいという意味ではなく、「この論点は確かにあるよね」という意味で。

例えば、今の遺伝子工学の知見と技術では、機能しなくなったある内蔵の器官を新しくするために、その人の口内の細胞から培養したIPS細胞から当該器官を作って豚の体内で培養し、これをその人の腹の中の古い器官と取り替えるということはすでに可能であるそうな。そしてこういうことを実現しようと、あるいはこれを商売の種にしようと、ある人は誠心誠意「人々の幸せのために」と思って研究開発を続けているだろう。
確かに、様々な病気を抱えて生きている人が世には沢山いるから、こういう技術の発展が多くの人に幸せをもたらす可能性があることは否定し得ない。
だから、そのこと自体に文句を言うものではない。

しかし、「ジブンノナイゾウヲブタノタイナイデバイヨウシテ、フルイナイゾウトトリカエル」ということを、我々人間が行なっていいのか?どこまでであれば我々は命を作り変えることを許されるのか?という議論は、全くといっていいほどメディアで耳目にしない。
さらに再生医療から遺伝子工学に話を移して先走って言うならば、セックスをして子供を作るということが「蛮行」だと言われる時代さえ、そう遠い未来のことではないかもしれない。どんな性質や遺伝子配列を持つ子供が誕生するか、両性のセックスによる受精ではコントロールしようがないからだ。
九州大学の中山教授は、「文芸春秋」最新刊のなかで、IPS細胞で卵細胞を大量に作成し、試験管内で精子と受精させて一定期間培養してからその「全遺伝子配列情報」を読み取って、好ましくない性質を持った胚を捨てて、例えば「容姿端麗頭脳明晰運動神経良好」な遺伝子を持つ胚だけを母(代理母?)の子宮に移植するということさえ将来は可能になり得るという。これに素直に親指を立てて「イーネ!」と言う人はどれだけいるのだろうか?
2050年頃には、独身の一人娘が精子バンクから「高品質・高性能」の精子を購入することや受精卵のより広範な遺伝子スクリーニングを行うために親が資金提供によって娘を援助するなんてこともあるのだろうか、とも思う。
これを思うと、「婚活」に励む女性が男の学歴や年収などを「スペック」と呼んで値踏みしている現在が、牧歌的なほどにのどかな時代に思えてくる。年収は自分の運や努力でかなりの程度変わるものだから。

良くも悪くも、我々が向かっている未来はこういうものである。
すでに都内の多くの病院が遺伝子スクリーニングを受けませんか?とかなり派手に広告を打っている。
結婚するために公的に保証された遺伝子スクリーニングの書類が必要になるのも近い将来のことだろう。

親父の上の言葉に象徴的に現れているものは、三つある。すなわち、

1.過去に対する敬意
2.急速な現状変更に対する健全な懐疑
3.自然、つまり死に対する謙虚

恐らくこういうことを非言語的な長年にわたるコミュニケーションのなかで受け継いできたが故に、俺は保守主義というものを自分の思索の核として持っているのだと思う。
今にして思うが、生活体験と全く無関係に獲得される思想は、紛い物であろう。
保守主義の根本精神というものは、土着の泥臭い生活意識に根差した庶民の「常識」であると思う。いみじくも、親父の上の発言に、俺はG.K.チェスタトンのあの頻繁に引用される警句を思い出した。

「狂人とは、理性を失った人ではない。狂人とは、理性以外の全てを失った人である」