2013年1月16日水曜日

戦士であるということ

読売新聞によると、尖閣諸島近海での警備を終えた海上保安庁の大型巡視船「やしま」(神州八島の「やしま」かな)が横浜港に帰港した。
警備とはいえ、ほとんど実戦、ほぼ毎日全神経を中国の船に集中しながらの航海だったことだろう。
クリスマスも正月もなく、家族からはるか数千キロも離れた風雲急を告げる海原での活躍に心から敬意を表したいと思う。


昨晩、安部新政権で防衛政務官に就いた「髭の隊長」こと佐藤正久氏(イラク第一次復興支援隊隊長)の著書「イラク『戦闘記』」を読んでいた。
驚いたのは、2004年に佐藤氏などの先遣隊が日本を出て香港経由でクェートに飛んだときの話だ。
まず、防衛庁長官から市が谷(防衛省)で隊旗を受け取る。その後、成田空港まで一行は向かうのだが、この車内で軍服(陸軍なので迷彩服)をスーツに着替えたというのだ。
なぜかという、成田空港株式会社が「迷彩服で空港を歩くことはまかりならん」と言ったから...絶句。
サバイバルゲームマニアのおっさんが全身迷彩服で空港を歩いていたら職務質問の一発もやってくれないといかんだろうが、こともあろうに日本国の陸軍の将兵が国の玄関たる空港を戦闘服では歩けないとは一体全体どういうことか。
おまけに日本の航空会社は、保安上の懸念がある(?)という理由で、彼らの搭乗を拒否したという。そのためノースウェスト航空で香港まで行き、そこからクェート航空で飛ぶことになったという。


アメリカは、完全に真逆だ。
巨大な基地がある空港に出張で飛んでいきArrivalに進むと、着いてまず目に飛び込んでくるのは、イラクやアフガンその他の地域から戦闘任務その他を無事終えて家族の待つ街・国へ帰ってきた兵士を迎える、「おかえりなさい!ありがとう!」という巨大な看板だ。兵士たちは、迷彩服のままで飛行機から降り、巨大なザックを抱えたまま数ヶ月ぶりに会うであろう子供たちを抱きしめる。

なんなんだろうこの違いは。

ところが、世界は捨てたもんではない。
佐藤氏らの一団が搭乗したノースウェスト航空機が離陸し安定飛行に入ると、CAさんたち(アメリカ人だったらしい)が、キャンディなどが入った小さな袋をくれたという。佐藤氏ら一行に。その中には、"Thank you from US Crew"と書かれていたという。
あのイラク戦争については俺も言いたいことがないではない。
だが、アメリカ人にとっては、同胞が何千人も死んでいるイラクの地に、同盟国の日本の軍人が飛んで行ってくれる、しかもその彼らを自らの機で運ぶことができる。そういう思いがこもったThank youだったのだろうと思う。
クリスマスが近づくと、ラジオでは「今年のクリスマスを家族と離れて自由のために(まぁともかく!戦う我々の兵士たちに感謝します」という言葉が当たり前に聴かれる。
アメリカには、(おそらく世界のどこの国でも当たり前にある)軍人・兵士に対しては敬意を払うべきという不文律が厳然としてある。単なるひとつの職業とは見なされていない。
かつて吉田茂は、昭和32年の防衛大学の卒業式の式辞において、こう言った。

「君たちは自衛隊在職中、決して国民から感謝されたり、歓迎されることなく、自衛隊を終わるかもしれない。きっと非難とは誹謗ばかりの一生かもしれない。御苦労だと思う。しかし、自衛隊が国民から歓迎されちやほやされる事態とは、外国から攻撃されて国家存亡のときとか、災害派遣の時とか、国民が困窮し国家が混乱に直面しているときだけなのだ。言葉を換えれば、君たちが日陰者であるときのほうが、国民や日本は幸せなのだ。どうか、耐えてもらいたい。一生御苦労なことだが、国家のために忍び耐えがんばってもらいたい。自衛隊の将来の君たちの双肩にかかっている。しっかり頼むよ。」


別に今更吉田のこの発言を批判することにさして意味はないし、むしろ経済成長に注力して国力を回復させるためにアメリカの核の傘の下で「軽武装・経済重視」路線を踏み出していた当時の日本の首相としては、むしろ慧眼というべき珍妙なレトリックである。


しかし、因果関係の順序として、「自衛隊が日陰者→であれば、日本は平和」なのではなくて、「日本が平和→であれば、自衛隊が日陰者」なのだと思う。
日本が平和だった徳川の260年間、日本に海軍も陸軍も存在しなかった。日陰者どころか、西欧的な意味での軍人という集団が存在しなかった。
欧米列強との競争に入った途端に国の守護神としての軍人の地位は(おそらく大東亜戦争前の頃には、幾分高すぎるほどに)著しく高くなった。


日本が今直面している時代は、「自衛隊を日陰者にしておけば」平和が守られる時ではないだろう。
また、「自衛隊をちやほやし」たからと言って、隣国の脅威がさらに高まるというわけでもない。
脅威は脅威として、日本国民の自衛隊についての認識とは全く無関係に、すでに存在しているというべきだろう。

 
自衛隊や海上保安庁に対して全国民が最敬礼するべきだというのではない。
そうではなくて、「この人たちは、銃弾が飛び交う戦場にでもいざとなればその身を投げ出すのだな」ということだけ、頭のどこかにぼんやりと覚えていてほしいと思う。
それは、仕事で100億円の損を出そうが、けっして命を奪われることはない俺のような民間の人間からすると、死についての究極的な覚悟の問題において、違う。


「やつらは税金泥棒だ!」という人は、いま尖閣近海から全ての海保の巡視船を引き上げさせ、那覇からのF15のスクランブルをやめさせればいい。
一週間もすれば、そこに中国人民解放軍の駆逐艦が遊弋しているだろう。
そしてそのうち「沖縄もちょうだい」「五島列島もちょうだい」「沖ノ鳥島も南鳥島もぜんぶちょうだい」と言って全てを奪いに来るだろう。


最後に自衛隊の幹部を除く一般隊員の入隊の際に行う宣誓の言葉を張り付けておく。


「私は、わが国の平和と独立を守る自衛隊の使命を自覚し、日本国憲法及び法令を遵守し、
一致団結、厳正な規律を保持し、常に特操を養い、人格を尊重し、心身をきたえ、
技能をみがき、政治的活動に関与せず、強い責任感を持って、専心職務の遂行にあたり、
事に臨んでは危険を顧みず、身をもって責務の完遂に務め、もって国民の負託にこたえることを誓います。」


この言葉、特に最後の一行が単なる言葉遊びでもなんでもないことは、東日本大震災のときの陸上自衛隊の必死の救援活動やCH-47部隊の決死の放水活動を見れば明らかだ。


「危険を顧みず、身をもって責務の完遂に務め、もって国民の負託にこたえる」


商社では、酒を飲めと言われる。稼げとも、よく言われる。当たり前のことだ。
だが死ねとは言われない。

貴様は今日も、戦士であるか?食べて寝るためだけに生きた豚ではなかったか?


(豚に失礼なことを言うな!!!)

2013年1月7日月曜日

脳みそのなかの断片達


○Edmund Burkeを読む。遅々として進まない。
平日にさぼったり他を読んだりすると下手をすれば1週間で10ページとか、15ページとか。それでも、亀のような月日を重ねるとやがてその本も赤鉛筆の下線で朱色に染まってくる。そしてこれまで全く理解していなかった彼の思想、彼の人間性のようなものが、文章を通して3Dのように俺の眼前に立ち上がってくる。「イギリス人の自由を守るために18世紀末のロンドンで書かれたこのフランス人宛ての書簡を、220年後に日本人がワシントンDCで読んでいるとはお墓のBurkeさんもよもや思うまい」などと思えば、とても愉快だ(こういう愉しさは、誰かと共有する必要のないものである)。
1日に3ページ、4ページの読書。なんと平凡なことだろう。しかし、平凡を積み重ねていくほかないのが我々の人生だ。
絶えることのない平凡の集積。俺はこれを尊ぶ。富士山は富士山という一個の巨大な原子ではなく、無数の岩と砂と土の原子の集合なのだ。その一つ一つの原子が無意味であるなどと、一体誰が言えるだろうか?


○「戦争好きなの?」という質問を発する人間は阿呆だ。俺にはこの問いが、「人生好きなの?」という問いと同じに聞こえる。合コンで出会った可愛いあの子に「そういえば、人生って好き?」と尋ねれば、まず間違いなく変人扱いしてもらえるだろう。好きだろうが嫌いだろうが学ばざるを得ないもの、研究せざるを得ないもの、それに備えざるを得ないものが戦争である。
戦争の歴史を知らぬ人間は人間の歴史を知らぬものであり、人間の歴史を知らぬものは人間を知らぬものであり、人間を知らぬものは己を知らぬものであり、己を知らぬものは一生地に足のつかぬデラシネである。


○時に、物理的に最も近しい人間が、最も自分から遠い単なる物理的存在であるように思えることがある。
時に、物理的にも時間的にも最も遠い人間が、自分ととても似通っていて、自分と同じことを考えていて、最も自分から近い精神的存在であるように思えることがある。
だから、俺は全ての人間関係において距離というものを重視しない。
だがこうは言える。
物理的に最も近しい存在の人間が、精神的に最も近しい存在であることも当然あり得る。
これは奇跡的なことだから、それを見つけた時には我々はそれに気付くことができるほどに賢明でなければならない、と。


○己自身の世界を持つことは、外部の世界から自己を遮断するための不可視の防波堤でもなければ塹壕でもない。俺は一人で居るとき最も強烈であり、自然のなかに一人でいるとき最も華やかであるような、そういう人間になりたい。
だが己自身の世界と言ったとて、客観的かつ不変的なものとしてそれは在るのではない。常に不断の外部からの更新を受け、絶えず生まれ変わりいくべきものだ。人間の成長、人間の巨さの成長は、実にここにこそあるというべきだろう。


○「全く新しいクラウン」と社長がのたまう14代のクラウンは、特にそのデザインについて賛否両論いろいろあるようだ。
一つ思うのは、先々代のプラットフォームをそのまま流用して「全く新しい」というのはどうか。自動車の骨格であるプラットフォームを変えずに(エンジンは変わってはいるが)「全く新しい」と叫ぶのは、虚偽とは言わぬまでも誇大広告の誹りは免れんだろう。そりゃピンクのクラウンは「全く新しい」けど。
あの車を売ることができるのだとすれば、トヨタの営業力・宣伝力・政治力にもはや感嘆するしかない。
思い切って、「トヨタは高級FR車は全てレクサスに移管しクラウンも廃止、トヨタブランドでは移動手段としての快適性と経済性をとことん追求する乗用車を提供していきます」と言えなかったのだろうか。
かつての名車であるブルーバード、セドリックが日産のラインナップから消えた。ホンダの屋台骨を支えてきたシビックも既に役目を終えてフィットに後を託した(N-Boxか?)。カローラを買っていた人はいまはアクア、プリウスに乗っているだろう。であれば、人口縮小・所得減少のこの社会でトヨタブランドが350万円以上のFRセダンを維持する必要はあるのだろうか。真剣に疑問に思う。
多くの人が(トヨタ好きの人も含めて)あのとってつけたような顔面を見て、「トヨタは真面目に車を作っているのだろうか」と考えただろう。過去の遺産(「トヨタは壊れない」「高く売れる」)に胡坐を掻いていては、未来は覚束ない。
トヨタはVWに勝てるだろうか。


2013年1月1日火曜日

2013



FUTAMARUHITOSAN.
 
"Sukina kotoba wa nandesuka? "
 
"突撃 desu."
 
Wishing you all a healthy, prosperous and exciting new year!!
 

2012年12月25日火曜日

友への回答

イエスという人は、十字架にはり付けられて処刑される時でさえ、ほとんどの同時代人から理解されず、権力からは民衆を扇動していると罵られ、さらには信頼していた弟子達には裏切られた。こういう言い方をするとキリスト者に叱られそうだが、悲しかっただろう。堪らなく辛かっただろう。普通だったら、「なんで俺だけ死なないかんの?なんで???」と思うだろう。もしイエスが神ではなく人であったのならば(これについて人間は2000年も論争をし続けてきた)。
その事実だけを考えると、陽気に「メリークリスマス!」という気にならんのは、俺の性格が陰鬱過ぎるんだろうか。
少なくとも「クリスマスだし彼女のためにプレゼントを買ってちょっといいホテルを予約して」という思考回路にならんことだけは確かだ。
冗談は兎も角(ウサギもツノ…どういう意味なんだろう…?)

イエス、法然、日蓮、ルター、ニーチェ、吉田松陰、マーチン・ルター・キング・ジュニア。その他の皆さん。

誰もが偉大過ぎる人間だが、その偉大さは彼ら個人の、我々が通常用いる言葉の意味での「幸福」とは全然関係がない。殺されたり、全く理解されなかったり、発狂したり、島流しにあったり。しかも凄まじいことに、彼らの多くは「かくすればかくなるものと知りながら」生きていた節が大いにある。
偉大さは、幸福を求めない。世界史は「最も幸福に生きた人間」ではなく「最も苦しい道をへこたれずに歩んだ人間」を尊敬し続けてきた。ここに人間が救われる可能性があるのではないかと思う。

「他の誰よりも苦しいとしか思えない道を歩いている」と思える人は幸運かもしれない(単なる被害妄想は措くとして)。苦しい道を歩めという天の意思は、あなたを試す。それは全く無意味にあなたを指名する。俺に明日降りかかってくるかもしれない。
突然に重い病と余命一年を宣告された30歳の父親は、その理由を知らされることは終にない。無意味に、理由もなく、なのに他の誰でもなく、あなたなのだ。畢竟、人生の厳しさとは、この無意味さにあるのではないかと思う。「余命一年」というのは、人生の厳しさの本質ではないだろう。
あなたが指名されたことの無意味さは、翻ってあなた自身を凡百の他者から整然と区別し、大衆産業社会のなかでぼやけていたあなたの輪郭は際立ったものとなる。ことここに至って、あなたは他の人間のように振る舞うことはもはや出来ない。あなたは、あなたの人生を初めて自身のものとして、自分だけのものとしてまじまじと見つめ、これを獲得する。あなたは、そこでこの苦しい道にへこたれるものかとたった独り奮闘する。天に「こんちくしょう」と言いながら。ここであなたが生きる時間は、過去から流れ来て未来に向かう直線的な時間のなかの「他にいくらでもある、重要ではないある一点」ではもはやなく、「その瞬間」そのものだ。過去もなく未来もない、ただあるがままのその刹那。その瞬間それ自体のなかにあなたの全ての意味が内在化される。というより、意味という言葉が失効する。それは十年後の投資のリターンのためにあるわけではない。
マーク・ローランヅの言う、「あなたが大切なもの全てを失った時(失おうとしている時)、あなたは最高である」というときのあなたは、この時に誕生するだろう。

別に今余命一年を宣告されずとも、我々は余命X年を宣告されている。母の子宮に宿ったあの瞬間に。
Xが一年であるか、五十年であるか、それは大きな宇宙の時間では一億年前と十億年前の違いのようなものなのだ(宇宙物理学者は「ずいぶん違うぞ!」と言いそうだな...)。
やがて「その時」は来る。誰もが、自分自身に対してたった独りで向き合わねばならないその時は来る。
その時になって初めて自分を発見するというのは、なんとも勿体ない生き方だと俺は思う。
あなたはあなたなのだ。あなたが死ぬまで最も長く付き合っていくのは、あなたの夫でも親でもなくあなたなのだ。
だから、ニーチェは、何よりも己を愛せよと、そこらのナルシストには想像もできない次元の自己愛を叫んだのだ。

2012年12月23日日曜日

「和気富士」


今俺の手元に「歌集 和気富士」という小著がある。著者は三宅白光。本名を三宅筆野という。明治二十一年、かつて道鏡の皇位簒奪を防いだ陛下の忠臣・和気清麻呂生誕の地、岡山県和気郡の生まれである。岡山高等女学校(現在の岡山県立操山高校)を経て小学校教諭として身を起こし、文学殊に和歌に熱心であり、与謝野鉄幹に師事した片尾(白眼)章乃丞先生に師事して俳句・短歌の指導を受け、膨大な数の和歌を残し雑誌「スバル」などにも投稿している。
またそれのみならず、地区の民生委員や国防婦人会幹部などとして戦時中には東奔西走の忙しさであったらしい。
社会正義に対する感覚すこぶる強く、世相批判も女性とは思えないほどに鋭い。この歌集は単に日々の生活の悲喜交交(こもごも)を和歌にしたという、現代にいうブログのようなものではない。
ある歌には「ケネディ」あり、ある歌には「クーデター」あり、また終戦間際に詠んだと思われる歌ではこうも詠われる。


愚かさを知りつつ君と国おもふ心一つに執りし竹槍


今の俺の気分の歌をこの歌集から抜粋して読者御一同様の御高見に供したく存奉候


思わじとすれど浮世の塵あくた吹きよせかかる人生街道


愚かしきこの身この魂打ち砕き神よたまわれめぐし生命を


いささかのこだわりもなく咲く花の真紅美し碧空のもと


山峡の家居はたのし露草のしげみに立ちて鴬をきく


2012年12月22日土曜日

全米ライフル協会が会見 「全学校に武装警官を」

日経Web版12月22日付より
 
---引用---
 
NRAのラピエール副会長は「銃を持った悪者を止めることができるのは、銃を持った善人だけだ」と強調。
武装した警備員がいれば子供たちの命は救えたかもしれないと主張した。 
会見は厳重な警備の中で行われ、NRAを非難する活動家の抗議で2度中断した。副会長は記者団の質問を一切受け付けなかった。銃規制強化の法案を提出しているローテンバーグ上院議員(民主党)はNRAの会見について「悲劇の後、さらに銃を増やし、より多くの米国民を武装させようとは信じがたい」と批判する声明を発表した。
 
---引用終---
 
「一部の教師に銃撃の訓練を受けさせて常に学校で銃を携帯させる」と言うかと思っていたが、それよりはマイルドだが、やはりこれ。
呆れるしかない。
 
「銃を持った悪者を止めることができるのは、銃を持った善人だけだ」というのは、すなわち、
「核を持った悪者(イラン、その他)を止めることができるのは、核を持った善人(アメリカ)だけだ」ということでもある。
 
建国以前から銃を持った人々がネイティブ・アメリカンと戦い(虐殺し)、やがて宗主国のイギリスと戦った。
人によってはアメリカ憲法は革命権を人民の権利として認めているとも言う。
 
日本人は信長さんの兵農分離と秀吉さんの刀狩りに感謝せずにはいられんだろう。
 

2012年12月19日水曜日

日本は“働くママ”を冷遇?男女間給与格差が最大

テレビ朝日系(ANN) 12月18日(火)13時26分配信
 
 
「日本で子育てをしながら働く女性の給与と男性の給与との格差が、先進国のなかで最悪であることが分かりました。
OECD=経済協力開発機構によりますと、25歳から44歳の子どもがいる女性の給与が、同世代の男性よりも61%低かったということです。格差は欧米各国や韓国を含む30カ国のなかで最悪で、平均値も大きく下回りました。子どもの有無を問わない男女の給与格差でも29%と、韓国に次ぐワースト2位でした。原因については、「産後に職場復帰しても低賃金だったり、男性が育児休暇の取得に消極的なこと」などと指摘しています。」
 
何を今更、という向きもあろうが。

 

高まる沖縄の独立熱(新・帝国主義の時代)=佐藤優(中央公論)

佐藤優氏の警告。
 (その1)
(その2)

「差別が構造化されている場合、差別をする側は自らが差別者であるということを自覚しないのが通例だ。ソ連共産党中央委員会に勤務する民族問題を担当する幹部も、自らがリトアニア人、ラトビア人、エストニア人を差別しているなどという意識はまったく持っていなかった。民族紛争において、中央政府の政治エリートと異議申し立てをする民族の認識の非対称性は、よくあることだ。」
(その2より)

一般的に日本人は、日本という国家を所与のものとして思考する癖が他の国民より強いように思う。
一般的に日本人は、、ひとたび結婚すれば夫婦という単位は永続するものと思っている節がる(だから婚前契約を結ばない)
沖縄が「完全な」日本の施政下に入ってからまだ2世紀も経っていないのだ。しかもそのうちの一部の期間は他国の支配を受けた。

2012年12月18日火曜日

雑記

「長渕剛のファンです」とデブが言ってはいけない。
ハゲは言ってもよい。
もちろんデブが「AKB48のファンです」というのは非常に分かりやすい。
長渕剛のライブにデブは似つかわしくない。
長渕剛の言葉と曲を聴くのならば、まずトレーニングをせよ。
走れ。ダッシュせよ。心拍数を180まで上げろ。
ニーチェにとってのワーグナーが、俺にとっての長渕剛なのだ。
石原莞爾にとっての日蓮ではないとしてもね。
おぉ、ワーグネリアンなどというとすぐにナチス!という人がいるんだよな。あぁ怖い怖い。

Parisのフドウさんが良いこと言うた。
いみじくも台北のダイキも同じことを言うた。
なにかというと、仕事以外のことも夢中になって必死にやらないかんと。
フドウにとってはボクシングでありダイキにとってはラグビーだと。
それは、フロマートカが神学者でありながら俗世から絶対に離れずに現実のなかで神学を究明していったことや、チェコ共和国建国の父であるトマシュ・ガリック・マサリクが、卓越した哲学者であり思想家でありながら同時に平衡感覚に優れた大統領であったことと重なって見える。
ということは、だ。
俺がニーチェを読めるようになったのは、変な会社で仕事をしているからーというのはあり得そうなことだ。
であるならば、恐ろしいまでにザッハリッヒな世界にどっぷり身を浸しながら、そのなかで人間のあり方を見つめながら勉強を続けていくことが、やがて偉大な何かにつながるだろう。
行動はそこから自然に生まれ出ずるであろう。

2012年12月17日月曜日

そして再び自民党

田中角栄流の中央=東京から地方への富の分配によって、「社会主義的資本主義」を成功させ世界にもまれな平等で豊かな日本を築いた80年代までの自民党は、バブル崩壊以後もはや意味のない公共事業によって経済を刺激することしかできなかった。そして失敗した。
この自民党の長きにわたった経済政策は、「経済成長」を大前提としていたからだ。

21世紀になって首相となった小泉純一郎氏は、過去の自民党の経済政策から大転換を図り、経済成長を意図した改革を行った。そこでは緊縮財政が敷かれ、労働市場の規制は大幅に緩和され、その結果、日本の経済的格差は拡大した(90年代にすでに拡大していたという議論もあるが)。小泉氏があれだけの人気を博したのは、その政策が明らかにひとつのこれまでとは異なる方向への転進であったからだ。もちろんそれを政治ショーにする術に長けていたのは疑いないにせよ。
これに反対するために2009年に政権を奪取したのが鳩山-菅-野田の民主党政権であった。
民主党政権は、子供手当ての拡充などの政策によって経済成長ではなく分配を重視する政策に舵を切った。
この政党のなかには多くの元社会党員が含まれていることなどと考えれば当然のことであった。

そして、今、国民は、この民主党にも背を向けて消去法(だろう)によって再び自民党を政権に就けた。
安陪自民党政権は、二つの道しか原則的に手持ちのカードがない。
ひとつは安陪総裁が選挙前から主張したインフレ・ターゲットを導入し公共事業を全国規模で推し進めることであり、これは古い自民党への回帰といえよう。このインフレ政策は、世界経済のマクロ要因によってデフレ経済が恒常化しているいま、物価は年率5%上昇したが給料は2%しか上昇しないということになりはしないか。国民は、経済の見通しを楽観し金を使うようになるだろうか?
いまひとつは、小泉流の経済成長路線への回帰であるが、これはインフレ政策を採ることはない。この場合にはおそらく労働法の改革や法人税減税が政策課題として議論の遡上に乗ってくると思われる。

これまでの安陪総裁の発言を見聞する限り、安陪第二次政権の経済政策は、インフレ・ターゲットを導入し、無制限な金融緩和・量的緩和と公共事業の組み合わせによってデフレを脱却、税収増を目指すものとなる。
小泉政権の経済政策によって、経済が成長したにもかかわらず格差が拡大し民主党に政権を奪われたという経験を持つ自民党としては、再び同じことはできないのだろう。

だが、これは大いにギャンブルである。
日本の長期金利がひとたび急騰し始めれば、これを押しとどめるために日銀は国債を買いまくるという危険な状況に追い込まれる。
すでに世界最大規模の日本の財政赤字の上にさらに建設国債まで発行し、それを日銀が買い取る(ということも検討されるだろう)ことまでやってデフレ脱却を目指すということは、短期的には財政収支をとりあえず無視して目の前の経済を浮揚させようというものであり、国民に聞こえはよいが、永続するものではありえない。

にもかかわらず、民主政治においては、政治家は国会に登るためには国民に痛みを押し付けることを可能な限り回避しようとする。
上記の意味でいえば、この選挙は非常に成熟した民主主義国家での選挙というにふさわしいものだ。それはもちろん良い意味ではなく、どの政治家も国民に阿ることをまず第一として長期的戦略を説明し、目の前の痛みを引き受けさせることに失敗しているのである。
それは言うまでもなく有権者たる国民の責任でもあるのだが。
とは言え、俺はどちらが正しいのか未だによく分からない。その知識と知恵がない。
イギリスのキャメロン首相の思い切った財政改革をたたえる人がいるが、他方でボロクソに言う人も少ないない。
山田法谷先生であれば、どうせよと仰るだろうか。


NYに向かうAmtrackから東海岸の寂しい冬の街並を眺めつつ記す