「長渕剛のファンです」とデブが言ってはいけない。
ハゲは言ってもよい。
もちろんデブが「AKB48のファンです」というのは非常に分かりやすい。
長渕剛のライブにデブは似つかわしくない。
長渕剛の言葉と曲を聴くのならば、まずトレーニングをせよ。
走れ。ダッシュせよ。心拍数を180まで上げろ。
ニーチェにとってのワーグナーが、俺にとっての長渕剛なのだ。
石原莞爾にとっての日蓮ではないとしてもね。
おぉ、ワーグネリアンなどというとすぐにナチス!という人がいるんだよな。あぁ怖い怖い。
Parisのフドウさんが良いこと言うた。
いみじくも台北のダイキも同じことを言うた。
なにかというと、仕事以外のことも夢中になって必死にやらないかんと。
フドウにとってはボクシングでありダイキにとってはラグビーだと。
それは、フロマートカが神学者でありながら俗世から絶対に離れずに現実のなかで神学を究明していったことや、チェコ共和国建国の父であるトマシュ・ガリック・マサリクが、卓越した哲学者であり思想家でありながら同時に平衡感覚に優れた大統領であったことと重なって見える。
ということは、だ。
俺がニーチェを読めるようになったのは、変な会社で仕事をしているからーというのはあり得そうなことだ。
であるならば、恐ろしいまでにザッハリッヒな世界にどっぷり身を浸しながら、そのなかで人間のあり方を見つめながら勉強を続けていくことが、やがて偉大な何かにつながるだろう。
行動はそこから自然に生まれ出ずるであろう。