2012年12月10日月曜日

制度としての結婚


時差ボケの週末。独房のようなマンションの一室で一人結婚について考えた。

自由奔放な(自由奔放でなくとも)婚前のセックスの結果女が子を孕むことが問題とされてきた理由は、その父が確定されないということだ。
もちろん今は、確定できる(女がセックス依存症でもなければ)。しかし、人類の歴史でそんなことが科学的に可能になったのはほんの数十年前のことで、つい最近のことに過ぎない。

一人の子が、誰を母として生まれたのかは明らかに分かる。3000年前でも現在でもそれは変わらない。看護師が名札を間違えでもしない限りは。
しかし、その子供が誰を父として生まれたのかということは、自明のことではなかった(男の支配欲というのはたぶんここに淵源を持つ)。古いキリスト教文化やイスラム教文化や儒教文化のいずれにおいても、女の貞節が極めて重視されたのは、恐らくこれが故である。日本の地方では大昔、かなり自由奔放な性行動が見られたというが、その場合には生まれた子をムラの責任として育てるか、さもなくば間引くということが行われた。つまり、父を確定する科学技術が存在しない時代においては、強烈なまでの閉鎖的社会(村八分の社会、さもなくば「村の責任」なんぞない)か、人権意識のかけらもない社会でのみ可能であったのが、自由セックスである。

頭の固い保守主義オヤジは、そもそもセックスそのものが悪であるかのように言いつのることがあるが、子を生み育てる大本になるのが男女のセックスなのであってみれば、それ自体が悪であろうはずがない。飯を食うのが悪だとでも言う気か。もしセックスを本質的に悪であると断定する文明があるとしたら、それは生殖を否定し民族の自殺を希求する文明であるから、そんな文明はとうの昔に息絶えているだろう。民族を殺すような文明が、道徳的であるはずがない。
そうであってみれば、婚前の自由恋愛=自由セックスが数多の文明において禁忌とされてきたのは、男女に対する道徳的戒律としてではなく、むしろ子の命を守るためであったと理解するのが適当だろう。もちろん、それが時代を経てやがて道徳的戒律となったということは言えるにせよ。

上記の意味で、結婚とは、ある男女が性的関係に入ることを宣明することであり、かつこれを公的な第三者に確認されることである。タキシードとドレスを着て米粒を頭に投げつけられることが結婚なのではない。役所に結婚届けを出して夫婦として登録されることが、結婚の本質である。
不倫が不貞行為として民法上の不法行為に該当するのは、まさに結婚という制度が意図していることに対して真っ向から反逆するものが不倫だからだろう。一昔前の姦通罪などはそのあからさまな現われである。
こう考えると、結婚とは、男女の間の関係を規定するものという外見を持ちながら(少なくともこれまでの俺にはそう見えた)、その本質はその二人の間に生まれていく子の命が守られ、育てられることを社会的に保証しようとする制度であるということが分かる。そのために、男女二人(あるいは最近では男と男、女と女を)を特別な法的関係にある二人として認めるわけだ。
結婚とは、夫婦のものではなく、子供のものなのだ。
そうであればこそ、いつくかの文明では一夫多妻もあり得た(明治天皇も側室を持っていた)。子供の命が守られる限りにおいて、一人の男が妻を何人持つかということはさして重要なことではない。繰り返しだが、子が「誰を父とし、母として生まれたか」が公証されることが重要であったわけだ(念のため言っておくが、俺は一夫多妻を支持しているのではない)。

法=国家は、子を守ろうとしてきた。なぜなら、子を生み育てることが、国家・社会の最大の関心事項であり、国防も外交も教育も社会保障も全て究極的には「その国家・社会において人々が子を生み育てられることを保証すること」にこそ政治の目的があるから(だからと言って「国民の生活が第一」と叫んで短絡的に原発は廃止だーなどと叫ぶ人たちと混同しないで頂きたい。)。

忘れたころにいつもこんな記事を読んでは落胆する。「女子高生、駅のトイレで男児を分娩し、直後に絞殺、死体遺棄」。
この殺された子の命を守るのは、誰か。
この子は母親の所有物、「モノ」ではないと宣言し、独自の法的人格を与え、守られるべき一人の人間として存在せしめるものは、なんなのか。それが現在、国家であろうことはいうまでもない。昔は、教会であり、ムラだったのかもしれない。それは国際連合ではないし、NPO団体でもないし、マスメディアでも隣のおばちゃんでもない。

人は生まれながらに侵すべからざる人権を持つ、そう法学部での最初の憲法の授業でそう教えられた気がするが、そんなものは民法を実効的に施行することができる有能な主権が存在しないところでは、なんの意味もない言葉だ。それは、子が生まれても、届け出る役所が存在せず、その子が殺されても「ある赤ちゃんがある男に殺された」としか報道されない社会であり、そこでは、殺人の対象も主体も常に匿名である。
主権のない社会では、「私は誰なのかよく分からない」、つまり自分が誰であり、誰を父とし、母として生まれたのかを証明することができない子供が多く存在するだろう。そういう状態であっても、権力(=暴力機関)が存在せぬほうがいいというような無政府主義者は、単なる無責任者なのであって、そんな人とは俺は口を聞く気にもならんのである。

結婚という制度は、いくらでも変わってもいい。生まれてくる命を守ることができる制度であるならば、その形態はどんなものでもいいはずだ。硬直的な制度に固執し、若者が子を生み育てられないような社会こそが、真っ先に変革されなければいけない。保守主義者は、憲法改正や国防軍保有や靖国神社について論じるのもいいが、本当に保守すべきもの、すなわち子の命についてもっと考え論じるべきなのだと思う。俺も含めて。彼らが崇める「伝統」といい「歴史」といい、それは命をつなぎ子供たちが自分たちは何者なのかを知り彼らの力で未来を切り拓いていくために必要なものだろう。

勉強不足!