2011年1月26日水曜日

渋谷の奴隷

異様な光景が、街の中に溶け込み誰もがその側を何も感じることもなく通り過ぎる。
人間の看板のことだ。
東京の都心では、人間が看板を抱えてある場所にじっと立っている(座っている)、そういう場面に出くわすことは普通のことだ。誰も驚きはしないし、最早都心の雑踏の風景の一部になっている。

俺も一人の労働者だ。マルクス風に言えば、俺自身の労働力以外に売る物を持たない。つまり俺は労働商品として資本家に搾取されている、とまぁ、こうなるのだろう。
だが、たまに深夜2時のタクシー帰宅があろうが、土日出勤があろうが、俺は資本家に搾取されているとは思わない。たまに期待されているとさえ傲慢にも思う。(たしかに投資家にとって商社のエネルギー部門は高い利潤率を期待できる数少ない投資先ではある)
俺の小さな小さな仕事のうちには、恐らく個人としての成長の可能性もあるであろうし、もちろん同じ職場や顧客との意思の疎通、対立、紛争、葛藤がもともと前提されている。その意味で、少なくとも俺が今関与している職場は、バラ色ではないとしても、極めて人間臭い、人間らしい仕事ではある。少なくとも資本の奴隷の仕事ではないと思いたい。俺は、あくまでも俺という人間として仕事をするなかで、失敗したり成功したりしている。

翻って、今この瞬間もこれを書いている渋谷のカフェのすぐそばで看板を持って真っ赤なウィンドブレーカーを着て路上に立っていたあの小さな女性はどうだろうか。

彼女がしていること=仕事は、「そこに立っていること」だ。
ザッツイットだ。ナッシングモアだ。それだけで”サンキューベリーマッチ”だ。
彼女は、看板なのだ。
彼女は、そこに立っているとき、彼女自身ではない。
彼女はモノになってしまっているのだ。
さすがに俺の仕事でもここまで底が抜けた没個人性はない。あなたの仕事もそうだろう。
あなたがいなくても明日も会社は何事もなく動くかもしれない。だが、あなたの後に来る人は、あなたよりも仕事がよくできるかもしれないし、できないかもしれない。完全に同じではあり得ない。
マルクスは、モノとしての「労働力」しか労働者は提供するものがないために、資本家の絶えざる搾取に遭うと言ったのだが、これにならって言えば、彼女はモノとしての労働力を提供するどころか、彼女自身がモノそのものになってしまっている。看板になってしまえばいいのだから、そこで失敗して叱られることさえないだろう。そもそもそこに人間間の意思の疎通が予定されていない。

おぉ!資本主義社会において、人間は看板になれるほど自由である!

恐ろしいことは、誰もそれに異を唱えたり怪訝の目を向けないことだ。まぁ、彼らをモノとして見ればそれも当然というべきか。俺はかなり異常なことだと思うのだが。
「彼らは合理的に消費カロリーが最も少ないアルバイトを選んでいるのだ」とでもいえるだろうか。
馬鹿げている。自分の意思が働く可能性がない仕事もアルバイトも遊びも人間交際も、すべて無駄と断じて構わない。だってそれは奴隷だろう。自分の意思に発しないすべての行為から、人間の成長が生まれることはない。自分の意思に元を発する大失敗ならば、数年数十年の後には偉大な教訓となって自分の肥しにさえなるだろう。

勘違いしないでほしいのだが、俺は、看板と成り果てた人=現代の奴隷に憐れみなど持ってはいない。
彼らは公権力から救いの手を差し伸べられるべきだなどとは思わない。
俺は、競争こそが生物としての人間の本性に合致していると思う。誰もが「日本に住んでいる」という事実だけで、最低限の生活を保障されるべきとするベースインカム制度の導入なぞ、まさにこの世界を天国にしようとして地獄にしてしまうくだらん努力の最たるものだと思う。というより、日本人は皆きちんと暮らせないとだめだが北朝鮮の民はそうではないという国粋主義なぞ唾棄すべきだ。ロールズの「無知のベール」の議論にはここでは触れずあえて粗っぽく言うが、ヨーイドンでスタートしたなら、どれだけ速く遠くまで走るかは個人の意思と能力の問題だろう。
言いたいことは、資本主義という我々が現在自明のものとしているものは、人間を看板にしてしまうほどに乱暴なものだということ、そして、人間が看板になっているのを見てなにも思わない人間というのは、馬鹿ではないとしても、この時代の日本に拘束され過ぎではないだろうか。これを世に近視眼という。
五万年前の人類も、350年前の江戸時代の町衆も、なかなか容易には彼女が看板になっていることを理解できないだろう。俺は理解できない。だから、正直なところ、資本主義に責任転嫁するしかないなぁ...という思いもないではない。

それとも、社会には、「看板を持って立っているだけなら楽に稼げていいな」と邪気なく考える人が存在するのだろうかね。
世には、理解不能なことが多い。まことに。