「日の丸・君が代通達合憲」
詳しくない方のために引用する。(朝日新聞1月29日付朝刊一面)
入学式や卒業式で、日の丸に向かっての起立や、君が代の斉唱とピアノ伴奏をしなければ処分するとした2003年の東京都教育委員会の通達を巡り、教職員約400人が従う義務がないことの確認を求めた訴訟の控訴審判決が28日、東京高裁であった。都筑弘裁判長は、一審・東京地裁が、通達は思想・良心の自由を定めた憲法と「不当な支配」を禁じた教育基本法に違反して無効だとした判決を取り消し、通達は合憲と判断した。
一審が都教委側に命じた1人につき3万円の慰謝料支払についても請求を退け、教職員側が全面敗訴した。教職員側は上告する方針。
教職員側は、天皇制をめぐる歴史観などから起立や斉唱を拒否した。しかし、高裁判決は、「『日の丸・君が代は国家神道の象徴である天皇を賛美する』という考えは誤りだ」という発言を強制するものではなく、個人の歴史観を否定しないとした。さらに、全国の公立高校の式典やスポーツ観戦では一般的に起立・斉唱が行われていることを例示。「通常想定され、期待もされる行為で、教職員が特定の思想を持つことを表明するような行為ではない」と述べ、憲法19条が保障する思想・良心の自由の侵害にはあたらないと判断した。
さらに「日の丸・君が代が国家神道と不可分な関係にあるとは認識されていない」とし、キリスト教徒である教職員の心境の自由も害さないと判断した。
3面の社説ではこうだ。後半部分を引用する。
判決理由からは、国民一人ひとりが大切にする価値や譲れない一線をいかに守り、なるべく許容していくかという問題意識を見出すことはできない。
「誰もがやっているのだから」「公務員なのだから」と理屈を並べ、忍従をただ説いているように読める。
それでいいのだろうか。
私たちは、式典で国旗を掲げ、国家を歌うことに反対するものではない。ただ、処分を課してまでそれを強いるのは行きすぎだと主張してきた。
最後は数の力で決まる立法や行政と異なり、少数者の人権を保護することにこそ民主社会における司法の最も重要な役割がある。最高裁、高裁とも、その使命を放棄し、存在意義を自らおとしめていると言うほかない。
ー中略ー
今回の高裁判決が、こうした息苦しさを助長することのないよう、社会全体で目を凝らしていきたい。
阿呆である。有名大学卒業証書付きのサラリーマン・ジャーナリストが、既得権益にしがみついて毎度のように駄文を社会に垂れ流している。それを買っている俺だからどれだけ批判してもよかろう。なんちて。
法学士なのに憲法学の議論をかなり忘れてしまったのだが、まず、「内心の自由」は「それが”内心”に留まる限りにおいて、”絶対的に”保障されるべき」ものであるはずだ。
つまり、「内心」が行動に表れる場合、かつそれが公的な事柄に関わるものであるならば、それは「絶対的に保障される」わけではなく、一定の制限を受ける。
加えて、少数者は少数者であるという理由だけで保護されるべきではない。
多数者が絶対に正しいというのと同じぐらい、少数者=マイノリティーを保護されるべき被抑圧者とみなして公権力の正当な行使を批判することは、戦後日本の「反体制派既得権益者群」の常套手段であった。
そもそも、「国民一人ひとりが大切にする価値や譲れぬ一線」が、式典における起立での君が代斉唱で破壊されてしまうというのはどういうことだ。分からん。
「都から給料をもらっておいて、都の公式の式典で日の丸に敬礼せんとはなにごとだ?」などと低俗右翼の批判はすまい。
だが、素朴な疑問として、それほどこの日本を嫌悪するものが、日本の未来を担う将来の国民を教育する立場にあるというのは一体全体どういうことだ?思想的な葛藤に苦しんで夜も寝られんのじゃないかと心配してしまう。
クジラの捕鯨船に乗りながら拡声器で「捕鯨反対」を叫ぶのはやめよ。
あなたには日本を捨てる自由がある。ユニクロと同じように。別にあなた以外には日本の未来を担う教師たるべき者は沢山いる。
これは理屈の話ではないから、論理でもって俺は彼らを論難する意図を持たぬ。
これは、この日本社会が、どういう基盤の上に成立している共同体であるかという根本的で感情的な議論に最終的には行きつく問題だ。それは、国家社会をゲゼルシャフト=利益共同体とみるか、ゲマインシャフト=感情共有体とみるかの違いによる。
先週、韓国海軍の特殊部隊が海賊を射殺して自国船を救ったという報道があった。
かたや日本では大新聞が、「日の丸と君が代を強制してはならない」とほざいている。
国家の姿勢=姿の勢いの違いは明らかだ。
ベネディクト・アンダーソンが言ったように、国家は想像の共同体だ。だが、我々が生みだしたものの中で、一つとして我々の想像の所産でないものが史上あっただろうか。
原始共産主義社会、空想的社会主義、科学的社会主義、スターリンのソ連共産主義、アメリカの自由・民主主義社会・・・すべては人間の脳みそと物語が作り出したものだ。それは、すべて想像から、人間の意思に源流を持つ。
だから、日本国家は君が代を持ち、日の丸を持つ。我々は、生まれながらに日本人ではなく、日本人に”なる”のだ。
そして、俺はこの祖国は(断じて最近の”政権”のことではない!)は、忠誠に値する国家であると信じている。いや、信じたいのかもしれない。
国家といい家族といい、「有り難い」ものなのだ。
すなわち、「有ることが難しい」ものなのだ。
国家はその一体性を堅持し皆が幸福に暮らせるように絶えず努力せねばならんし、家族は顔を合わせて食卓を囲んで話をするべきだ。それは放っておけば崩壊していく儚いものだ。
日本人は、国家がなくなるということは、本当のリアリティをもって想像できないのだ。
この国がなくなったことは事実上ないし、国土で他国との戦闘が行われたこともない(元寇?)。おまけに腐った平和が65年も続いた。
それが欧州大陸の諸国や中国となると、全然違う。
彼らにとって、国家とは、育み、守らなければ消滅するか滅ぼされてしまうものだ。実際に彼らの歴史は侵略し、侵略され、滅ぼし、滅ぼされの血塗られた歴史だ。現在のEUを観ても、「まぁ数百年ひたすら殺し合って最終的に大戦争を少し前に二回やったんだからね」と思わされる。
そんなわけで、彼らにとって国旗に対する敬礼は紳士淑女としての最低限度のマナーである。
長くなった。
とりとめのない文章だが、載せておこう。