2011年1月16日日曜日

宅島徳光氏の言葉

そう遠くない昔のことだ。
俺の親父が生まれる少し前、俺のお婆ちゃんが美しい乙女であったころ、こんな強くて優しい男がこの国には居たのだ。はっきり言って、民族の、国民のレベルというのは70年弱でここまで変わるものかと思わずにはいられぬ。悲観的過ぎかね。
俺は、これを始めて読んだのがたしか9年前だったかと思うが、激しく泣いた。
泣かずに読めるかこんなもん。

-故郷の美しい田園風景の向こうに、小さな子供たちが海軍士官の制服を見つけてペコリとお辞儀をしてくれる。それに感動して燃え上がる24歳海軍少尉の魂。
分かる、分かるぞ。俺には分かるぞ。そこらへんの1982年生まれの言うことはよう分からんが、あんたの仰ること、痛いほど分かるぞ。

男が、女に向かって「あなたが好きだから―」と言うのはまぁいいとして、それが「あなたより大切なものなどない」となったらもう終わりだ。そんなことを言う男と付き合っている女は悲惨だが、それに気が付かないのもまた幸せの一類型と言えるから寝た子は起こすなグーグーグー。


はっきり言う。
俺はお前を愛している。
しかし、俺の心の中には今ではお前よりもたいせつなものを蔵するようになった。それは、お前のように優しい乙女の住む国のことである。
俺は、昨日、静かな黄昏の田畑の中で、まだ顔もよく見えない遠くから、俺達に頭を下げてくれた子供達のいじらしさに強く心を打たれたのである。
もしそれがお前に対する愛よりも遥かに強いものというなら、お前は怒るだろうか。
否、俺の心を理解してくれるだろう。ほんとうにあのような可愛い子供達のためなら、生命も決して惜しくはない。自我の強い俺のような男には、信仰というものが持てない。
だから、このような感動を行為の源泉として持ち続けていかねば生きていけないことも、お前は解ってくれるだろう。
俺の心にあるこの宝を持って、俺は死にたい。
俺は確信する。
俺達にとって死は、疑いもなく確実な身近の事実である。

宅島徳光 20年4月9日戦死 24歳

福岡高校から慶応大学に進むも、戦況の悪化に伴い学徒出陣で海軍航空隊に入営。
昭和20年4月9日、宮城県の松島基地から出撃し、金華山沖上空で散華した。