といいながら、話は酔払いがドライブする雨天のF1のようにフラフラの蛇行を免れないことを先に断っておこう。
端的に言えば、読書や日記の効用のうちで-害悪も当然あるのだが-、最大のものは自己の意識の幅と深さを拡大していくことに尽きると思う。
読書によって、我々は2000年前の著者の思索や行いを間近に体感し、それを思い遣り、自らの言動と比較する。そして多くの場合、自己の矮小なることを痛感しては恥じ、精一杯背筋を伸ばす(そりゃそうだ。2000年間読まれ続ける本を書いた人というのは、どう控えめに評価してもほとんどの読者よりはるかに偉大だろう)。
また、読書のうちで最大の快楽は、自己の脳裏にぼんやりと去来し、ゆっくりと醸成されつつある思索が、著者の言葉により見事に言語化されることだ。
千年王城の北を流れる賀茂川で「そう、それだ!俺はそれを言いたかったんじゃっ!!!」と、西部邁氏や佐伯啓思氏の著作を読みつつ思ったことは数限りない。自己の精神が共鳴し、震える。これは、苦しみも伴う読書という体験のうちで、最大の快楽であり、褒美だと思う。これは、麻薬的である。俺がこのブログで綴っている言葉たちも、所詮はそういう他者の言葉を俺なりに腹のなかに溶かしこんで練り上げてなんとか俺の言葉にしようという努力の数少ない結果なのだろうと思う。
意識というものを我々は持っている。
あるいは、これを理性と言ってもよいだろう。外部に生起する物事に対して、理性的主観を備えた自己が、物事に対して客観的に対峙するという前提がここにはある。だが、我々の日々あわただしく流れていく暮らしの中で、理性といい意識といい、一体どういうふうに作用しているのだろうか。いや、そもそも、作用しているのか。
情報洪水時代を生きる我々は、情報に神経を麻痺させ、その外部に流れる情報への意識もそれを分析する理性も磨耗していく他ないように思えてならない。情報の増加は、個人の精神における意識の量を増加させはしなかったし、理性をより安定的で精緻なものにすることもなかった。佐々木中がいうように(『切りとれあの祈る手を』)、何故我々はかくも何かを「知っていること」を強迫観念的に追いかけているのだろうか。何かを知っていること、それについてそれらしく語ることは、なぜそれほど重要なのだろうか。なぜいちいちニュース番組にコメンテーターなり専門家なりが登場して、もったいぶってその専門的知識とやらを開陳しないといけないのだろうか。それほど、「知らない」ということは危険なのだろうか?それほど格好悪いことなのだろうか?
人間の脳味噌の容量は無限ではないから、知識(この「知識」には島田シンスケがドウシタコウシタという馬鹿げた事実も含む)を無際限に詰め込めば、次第に自身の意識はなくなっていく。意識が減少すれば、思考は減速し、やがて停止する。つまり、入力をそのまま出力するだけの無個性のロボット人形が出来上がるだろう。情報が「購入される」産業主義時代に各地で全体主義が生まれたことは、アーネスト・ゲルナーを引用するまでもなく、全く偶然などではなかっただろう。つまり、批判的精神の欠如という現代大衆社会に広く見られる精神的病理は、情報の無際限の流入と情報の源流における独占に強く規定されているのだ。
これに対する処方箋の一つは、独りになることだ。情報の交換のみに終始する話ばかりをしていては駄目だ。
携帯を捨て、友や家族から離れ、独りになり、孤独へ沈潜していくことだ。
独りになって、河原に静かに座ると、風が身体の周りを走っていくのを感じることができるだろう。
少しじっとしていると、その風の一筋一筋に、流れがあり、暑さや冷たさがあることまでも分かるようになる。
近辺に鳴く鳥や虫の声、自動車のエンジンやタイヤと路面の摩擦音など、耳に入ってくる情報だけでも膨大である。
そうしながら、脳裏に去来することをフラフラと考え、それをメモしてみると面白いことに気が付くだろう。
つまり、自分が自分自身では何も考えられていないこと、また自分が考えていることのほぼ全てが「誰かが考えて喋っていたこと」をそのまま記憶しているだけであることに。あるいは、月曜日の朝の到来を憂鬱気に待ち、何か楽しいことはないかなぁなどと他人任せの人生を生きる自分を再発見する。
俺が欲しいものは、世界の全てについての知識ではない。
俺は、深み茂みの奥で獲物を待ち伏せる虎の集中力が欲しい。
意識の絶対量を圧倒的な次元にまで高め、それを一点に集中させて、とてつもないものを生み出すという力がなくては人生において何事も成し遂げることはできないだろう。