2012年2月25日土曜日

独り言~円安、就職活動など~

●円が売られている。79円を突破した2月23日日本時間夜の辺りでは、ニュースでも「これ以上円が売られる要因はなかなかない」と言われていたが、あっさりと80円を割り込んで、昨日のマーケット終値では81円を伺っている。
で、これをどう解するべきか。
ちまたでは、米国の経済が復調やユーロ危機の不安が後退したことなどに言及されているが、本当にそうか?
潜在的な日本円リスク=日本財政破綻リスクが、いよいよ嫌気され始めたのではないか?
外貨資産を購入するなら今のうちかもしれない。
「もう一度76円まで上がってから」と悠長にしていたら春先には90円になっている可能性もゼロではない。
長期的にみて、円が売られることは間違いない。
国家の破綻に賭けてぼろもうけを企むヘッジファンドの一部はすでに日本のCredit Default Swapを購入している。
ギリシア、イタリア、そのつぎは日本なのだ。なんせ"あてたら"もうけの規模たるやギリシアの比ではない。

●OB訪問という制度、あれやめたらどうだろうか。まったく意義を見いだせない。ついでに言えば、一定数を新卒で採用する会社は採用業務を外部に委託すべきだ。
OB訪問とは、学生が、就職したい会社の労働者に会いに行くことだ。俺も毎春10人以上の学生さんと会って話す。
やってくる彼らの90%は必ず同じ質問をする。

「三谷原さんのxxx商事への志望動機はなんですか?」
山桜、答えて曰く、「あなたが就職する会社を選ぶために、どうして僕の志望動機を知る必要があるのか教えてください」
さらに、「三谷原さんの仕事のやりがいはなんですか?」
山桜、答えて曰く、「あなたの人生や仕事と僕が今現在僕の仕事にやりがいを感じているかいないかがどう関係するのか教えてください」
さらに、「週末の過ごし方を教えてください」
山桜、答えて曰く、「トレーニングと読書です」
ここで山桜、尋ねて曰く、「あなたはどうしてxxx商事に関心があるのですか?なにをやってるかなんて分からないでしょう?」
学生、答えて曰く、「やっぱり御社の方は面白い魅力的なひとが多いと思いますので」
山桜、意地悪にも曰く、「もし弊社に来ていただいて、上司が鬼畜のようなバカばかりだったらどうしますか?やめますか?」

俺のこういう問答がこの会社を志望する優秀な学生さんの数を減らしているなんてことは、まぁ心配することもなかろう。

仕事ってね、「自分にとって楽しいか楽しくないか」じゃなくて、「(だれか、なにかのために)やらないといけないかどうか」
で選ばないとだめなんだよ。
じゃないと、お金儲けなんて絶対にできないし、そもそも22歳の自分の「楽しいこと」なんて、「彼女とデートしたり友達と酒を飲んだりすること」であるかもしれないわけだよ。楽しいことではなくて、やらにゃならんことに我武者羅に取り組む中で、やっと楽しさが湧き出してくる。そういうもんだともうすぐ30歳の糞餓鬼は思うんだがね。
だって、仕事なんて人生で一番大切なものじゃないんだから。
人生で一番大切なのは、革命なんだから。そうして次の世代に世界を繋いでいくことなんだから。

●ヘーゲル「歴史哲学講義」を読んでいる。なぜだろう、今読むと読めるし、やたらと面白い。
特殊的な意思を有する個人=世界史的個人が、その特殊的意思という自覚のもとに自己の欲求から行動することによって、やがて世界は次の一般的意思を見つけ出す。こういう個人が魅力的なのは、世界史的個人が、すべての人のうちにひそむ次の時代の一般的意思を明らかにするからだ。
俺は、世界のために生きたいと思うんだが、それは世界を俺が愛しているかどうかとはあまり関係がなくて、自分は世界からあらゆるものを与えられるだけの、世界に扶養されるような存在ではないことを他者に見せつけたいからだということに間違いはない。
それにしても、西欧キリスト教文明においては、イエス・キリストの遭難の記憶が常にあるように思う。つまり、世界史的個人は、"必ず不幸"なのだ。
アレクサンダー大王は早死にし、カエサルも信長も暗殺され、ナポレオンは島に流された。
小人は、アレクサンダー大王を、「侵略者だ」と批判するかもしれない。なぜって小人は26歳であれだけの大帝国を建設することなどできはしないから。
だが、世界はそんな小人たちのために作られたのかと言えば、絶対に否だ。
世界は、特殊的意思を堅持しつつそれのために他者との闘争を辞さぬ無法者たちのたたかいの舞台なのだ。
「ツァラトゥストラ」もそうだが、俺はこういう古典を今面白く読めることは、単に歳を重ねただけだからとは思えない。
おそらく、ガッデム会社生活もそれの一助となってくれているのである。

●なぜ俺はAKB48にイラつくのか?
AKB48は、ローカルだ。が、それ自体は価値中立的な含意しか持たぬ。
世界に対して普遍的な価値を訴えようというのではなく、秋葉原というローカルな場所に根を張り、日本という小さな島国だけで完結している。たとえばアフリカの原住民(という言い方に一つの位置性が含まれていることを俺は認識している)の生活に関心を持つ西欧の文化人類学者は、たしかにそのアフリカの原住民の珍奇な生活に関心を持っているのだが、それはあくまでも辺境の、突飛なものに対する学術的な関心でしかなく、普遍的な価値の対象として見ているのではない。日本のアニメ文化=秋葉原文化は、世界において絶対に主流にはなりえない。「ローカルでいいのだ」と言うのはいいのだが、結局それは世界の主流からは相手にされぬ。で、AKB48に俺がイラつかされるのは、それ(=AKB48)が、戦後以来の日本が、世界に対して普遍的な価値を提唱することをまったく諦めてしまい、敢えて言えば、物真似とマニアックで変質的な「ものづくり」とやらに耽溺しながら自己満足の世界に安住している姿と大いに重なって見えるからだ。
鎖国の時代であれば、たまに箱根に湯治にいって、歌舞伎を見て、平穏な生活を楽しんでいればよかった。だが、この全地球化の時代にあっては、指導者も思想家も、自国が依って立つ価値の如何について、世界に対して論じてみせる理念と情熱を持たねばならない。