たぶんなんかあげたら「しゅき」なんて言うんやで。
まーそのうち俺が偉くなってから俺に平伏すがよいわ。
パンダをクロクマにしてあげたい。
もうすぐ弐歳。
陶芸家・中平美鈴氏作。無骨な美というのかな、あからさまに「きれいでしょ!」と主張しない控え目さが好きです。
備前焼は岡山の誇る陶器です。他にもたくさん陶器は日本にありますが、日常の生活で使ってこれほどしっくりとくるものはあまりないだろうと思います。
麦酒杯、珈琲杯、大皿、小皿、大きな花瓶、小さな花瓶、等々我が家で活躍中です。
土を練り上げて焼いただけ(のはずがないのだが)だから、花瓶にチョコンと小さな花一輪を生けてもよく似合うしとても風流です。もっと世界的に評価されてもよいと思うのですがね。
身の周りに自分のこだわりの品が増えていくのは嬉しいものです。愛着があるものが増えていくというのは、生活がとても豊かになります。同じ珈琲を飲むのでもね、そりゃ当然違うでしょう。
2047年に、スキンヘッドの俺が能登上布の浴衣を着て高梁川の花火を見に出かける頃には、我が家には俺と妻のこだわりの愛用品ばかりが転がってるんやろな~
貴様にも、かつての俺と全く同じように、自分を生み出した父と母と自分自身を腹の底から呪う日が来るだろう。世界は君のためにはできていないという単純だが、幼い頃は誰もそうは教えてくれない原理のために、君はやがて世界から拒絶され、自分自身の内に閉じこもり、こんな馬鹿げた世界と両親なぞ滅びてしまえと願わざることあたわざる日が来るのだ。
世界と自身の無意味さを痛烈に自覚せざる総ての意識は理性とは呼べず、この理性なき生が決定的に欠いているのは意思である。そして意思なき生とは畜生の生であるという意味で、そんなものは産廃処分場にでも捨ててしまうがよい。
無意味な人生のなかで、干からびた陳腐な馴れ合いの友情や資本家達が喜びそうな消費に夢中になって、この無意味を誤魔化しながら生存すること、これを俺は絶対に許さん。バーナード・ショーに倣って言えば、これは、生きているのではなく存在しているに過ぎぬ。
俺は貴様に命と時間と血で書かれた書物を与えよう。だが、貴様が生きることの意義は与えぬ。もちろんそんなものは与えられぬ。誰も貴様にそれを与えることはできぬ。それは貴様が、貴様自身が闘い、勝ち取るべきものだ。
こんな馬鹿げた世界に来たる君よ。
君が世界以上に馬鹿な弩阿保であることを切に望む。世界には何も望むな。ただ自らがなすべきを問え。
世界は滅ぼされるべきか救われるべきか、畢竟、我々の問題はこれだけなのだから。
"お前のためにチームがあるんじゃねぇ。チームのためにお前がいるんだ。"
ー安西先生
父祖の地を冒して消えぬ放射能
如何に贖う史上の大罪
野良猫が夕暮れの道ただ独り
ニャーと泣く目は寂しかりけり
小利口と阿呆の道のありとせば
などて選ばん弩阿呆の道
地震国同時にここは火山国
ならば愉しめ極楽温泉
何を考えたかというと、自分は何者なのかと考えた。
自分が、三谷原基という人間であるのは分かる。
なぜこいつがいまここにいるかと言うと、両親が生み育ててくれたからだ。その両親がなぜ生まれたかというと、両親の両親が彼らを生み育てたからだ。そこからとりあえず380万年前に(だったっけ?)人類が誕生したから俺がいま生きているということは分かった。百科事典をみれば人間が一生懸命に暮らす土地を広げ文明を築い命をつないできたこともわかった。最初の人間に至るまでの数十億年という途方もない時間をかけて、最初に海に誕生した単細胞生物が徐々に複雑化し、有性生殖を獲得し、様々な生命へと分化してきたかもわかった。さらに、遡れば、地球が46億年前(だったっけ?)にガチャガチャとできたことも百科事典に書いていた。
ここまでは順調だ。なんとなくだが、納得できた。
しかし、地球を生んだ宇宙がいつできたかは分からなかった。ビッグバンがあったと書いているのだが、その前になにがあったかはまったく分からなかった。無から大爆発???と思った。なにもないところに大爆発なんてあってたまるかと思った。卵を使わずに卵焼きができるかと思った。
で、とりあえず、自分という人間は、全くの偶然、究極的には絶対に判明されぬ原因に由来する偶然の産物でしかないと知らされたようで、空恐ろしく感じた。自分が偶然の産物でなんの目的も意味もなく生まれてきたのだとしたら、自分が生きていることと生きていないことの間に、一体全体なんの違いがあるというのか。
この問いは、初めて発してからいままで20年ほど、俺の深層心理にこびりついて消えることはなく、ことあるごとに脳の思考に使う部分を完全に占拠してきた。
2000年の夏に東岡山工業高校にノックアウトされた日の夜に考えたのは、まさにこれだった。
俺の「世界」であった野球は、はるか彼方に飛び去ってしまい、俺は野球から拒絶され、それまでの俺を不気味な世界から守ってくれていた野球という外殻は失われ、剥き出しの無意味さが支配する荒々しい世界に放り出されたように感じたのを鮮明に記憶している。マスカットスタジアムに鳴り響くトランペットの音も蝉の声も、地獄の子守唄の趣味の悪い伴奏のようだった。
大学に入ってからは、宝塚の武庫川と京都の賀茂川の河畔で、もくもくと流れる水を眺めながら、「自分がいまここに在ること」の意味を理解しようと努めた。どうやって認識すればいいのかと思案した。だが認識しようとする主体たる自分の存在が意味不明なわけで、結局何もわかりはしなかった。時間があると人間はここまで不毛な思索に精を出す。
だけどねぇ、目的に向かって一直線に走れるような人間なら本なんて読まないですよ。
目的がある人生?そりゃ楽チンだな。だが目的が果たされたら、どうするかね。死ぬしかないのかね。
いやいや、そんなもんじゃないだろうよ。
「世界史とは、精神が時間のなかで展開していくものである」
「自由は自覚されるものであり、思考と同一の根を持つ。動物は思考せず、人間だけが思考するのだから、人間だけが思考しているときだけ、自由を持つ。人間が自由を意識するということは、個人が自己を人格としてとらえること、すなわち、個でありながら内部に普遍性を持ち、あらゆる特殊的なものを捨象し放棄できる、無限の存在として自己をとらえることである」
「世界史は、道徳の本領たる、私的な心情、個人の良心、個々人の意思と行動といった場面よりも、もっと高い次元を動く...世界史的個人と言われるような大人物たちの行為は、かれらが意識しないような内面的な意味で正当化されるばかりではなく、世界の流れいう立場からも正当化される。...つつましさ、謙虚さ、人間愛、慈善などといったくだくだしい個人道徳をかれらに要求しても始まらない。世界史というものは、道徳が問題となったり、人のよく口にする道徳と政治の区別が問題になったりするような領域とはまったく違う。世界史は、道徳的判断などしない」
で、思うこと。
墓を立派に拵えて華美なものにすることほどの堕落はない。
土台からして地面からの高さが1.5m、墓の高さは地面から4mはあろうかという巨大で威圧的な墓をみて、過去を生きる人は、この人は立派な人だったんかなーとは思うやもしれぬが、この自己顕示欲の巨大さには吐き気がする。まぁ、墓の下の故人は預かり知らぬ仕儀ではあるが。
始皇帝の小ぶりversionなのだ。
恥を知れ恥を。
死んだ後に墓で目立ってどうする。目立ち方に品が求められる。
命は使い切るもの、使い捨てのもんだ。使い終れば肉は土に還るだけだ。精神だけは子孫の魂に生き続け得るがね。そのために必要なのは、巨大な墓じゃあるまいよ。子孫に、「僕のおじいちゃんのひいおじいちゃんは、こんな墓を作ってくれって言ったんかなぁ。ださいなぁ」と思われたら最悪である!!!
命という道具を使い終えた後にも俗世への未練がましく己の威厳と名声を後世に残そうとするような小人物ではなにもできはしまい。
男たるものは、自分の葬られ方にまで断固たる美意識を持ちこれを貫かねばならん。
まぁ、骨を海に流してくれというロマンチストや亡骸を鳥に喰わせてくれというニヒリストにも全く共感できんのだがね。
いちいち生や死を意義付けても仕方がない。アリのように生きて、ただ死ぬ。それだけのことだ。だがDefianceだけは忘れるな。
数十億の過去の人間たちがそうしてきた。粛々と死んだ。死に続けた。つまり、生きた。その意図せざる遠い結果の一つとして、いま貴様や俺がいる。
人生は単純明快がよろしい。
そして、死んだ後は納豆のように粘っこく現世にしがみつかず、スタコラサッサと土になって植物の栄養になりたいものだ。