2012年3月22日木曜日

パンダと藍子丸

こいつ俺にだけは懐きやがらん。
たぶんなんかあげたら「しゅき」なんて言うんやで。
まーそのうち俺が偉くなってから俺に平伏すがよいわ。
パンダをクロクマにしてあげたい。

もうすぐ弐歳。

2012年3月21日水曜日

人生に意味はあるか?独り言たち

●俺が今真摯に欲しているものは、死と生を分け隔てて取り扱うことのない俺自身の宗教であり、信仰だ。「命が最も大切だ」という人がいてもいい。だがそれは貴様自身の小さな宗教に過ぎぬ。そんなものは歴史の法廷での評価に耐えぬ。命が最も大切だという人間は、命なんぞ手段に過ぎぬという人間に、あらゆる戦いにおいて絶対に勝てぬ。

●鈴木大拙先生は、北条時宗を激賞している(「禅と日本文化」)。元寇のおりには台風(=神風、とは教えられなかったが)があって、そのおかげで鎌倉幕府は日本を守った、という程度の知識しかいまだにない。しかしこれは国防を志すものとして許されざることだ。鈴木大拙先生は、あたかも時宗を、ヒトラー・ナチスから英国を守り抜いたチャーチルのように書いている。
なにかよい北条時宗の本があったら教えてください。加えて、やはり禅だろう。

●軽く浅い感情レベルしか知らぬ人間達は、セックスや旨いものを食べることの快の感情を幸せと定義してしまう。そんなものはありふれていて、どこにでも転がっているから精神の貧乏人には都合の良い目標だろう。コンビニは軽い欲望をホイホイと気楽に叶えてくれる。彼らはそうやって軽く浅い生のなかで自らの欲望を満たすことに汲々としていやがる。だが、俺が求めるものはそんなものではない。

●「さみしい」と平気で言える人は、自分が蔑まれていることを知らぬようだ。終わりなき「感情」の追求は、しかし永遠に満たされることはない。なぜなら、人生は絶対的に寂しいものだから。どこのどいつが我々の一時的な快や不快の感情を玉座に祭り上げたのか?

●人生に意味はないし、人生は意味と同義であるはずがない。だが、意味は、我々自身の人生の中にしか存在しない。

●最近読んでいる本…読みかけのままたまりゆく本たち…
ちゃんと読了するからね!

・ヘーゲル「歴史哲学講義・上」
・シュンペーター「資本主義・社会主義・民主主義」
・牧野洋「官報複合体」
・正木静修「マントラを掲げよ」
・佐々木中「切り取れあの祈る手を」
・中野剛志「新日本政治思想史」

●これから読むもの。

・川田稔「昭和陸軍の軌跡」
・R・アクセルロッド「付き合い方の科学」
・銀河英雄伝説(アニメ)
・ハイデガー「ニーチェ・Ⅱ」
・ルソー「懺悔録」
・高山岩男「世界史の哲学」(再読)


外苑前にて

陽光は燦燦と照る風は吹く早や五年目の青山の春

2012年3月20日火曜日

マツダの革命



マツダの次期アテンザとも目されるプロトタイプ、「雄(たけり)」。
昨年の東京モーターショーにて。
世界で唯一のロータリーエンジン車メーカーであったマツダだが、今年6月でRX-8の生産を中止する。
ネット上ではこの「雄」に新世代のロータリーエンジンを!などという声もあるが、そんなわけはない。
この今はまだプロトタイプの「雄」が将来生産ラインに乗った時、搭載されるのはSkyActive、クリーンディーゼルに間違いない。
というより、マツダよ!ぜひそうしてください。

CX-5というマツダの野心作(SUVになるのかな~)が発売されたが、目下異常な売れ行きだ。


この車は、電気自動車・ハイブリッドに次ぐ第三のエコ・カーとして、日本メーカーでは初のクリーン・ディーゼルがラインナップされた。2月末の発売から、月間販売目標である1000台の8倍の台数が3月中旬までに売れたという。うち70%がディーゼル。

このエンジンは、日本人の「ディーゼル=五月蠅い、汚い」という悪しきイメージを打破し、走行中は”エコ”だが生産と廃棄の両時点ではとても”エコ”とは言えぬハイブリッド以外の選択肢をマーケットに提供するものだ。非常に価値は高い(EVは普及の途上)。
1L辺り20kmを走り、トルクは4LのV8エンジンに匹敵する。アウトバーンという弱肉強食道路を持つドイツで強いマツダが作ったこの新作は、最高の長距離・高速クルーザーでもある。
家族四人でキャンプに行ったりスキーに行ったり、あるいは妻と二人で1000km以上のドライブ旅行をしたり。あるいは、トレーラーを引っ張ったり。25~45歳の活動的で野山が好きで、既存の「自動車ヒエラルキー」が大嫌いで、大箱の先っちょにエンジンを積んで四隅に小さなタイヤが申し訳なさそうにくっついているミニバンはいやだなぁと考えている父ちゃんにぜひおすすめしたい。

ちなみに、ディーゼルエンジンが使う軽油は、石油を精製する過程で副産物として大量に出される。現在は、なんと日本からこの軽油を輸出している。つまり?クリーン・ディーゼル車が増えれば、自動車の全体数が増えない限り、日本に輸入される原油量を削減できるのだ。

日本の中東の石油への依存を減らし、貿易赤字発生の防止に努め、安い軽油と抜群の燃費で家計を助け、しかも420Nmという巨大なトルクで加速性能もこれまでのエコカーとは段違いのFUN TO DRIVE。

デザインが気に入ったら、即買いでもいいぐらいの車だ。かつてアテンザが窮地のマツダを救ったように、この3月期に大手自動車メーカーで唯一の大赤字決算となるマツダを救う救世主になるだろう。

内燃機関から遠ざかろうとする(?)大手メーカーがあるなかで、エンジンの可能性を常識を無視して追求したマツダに拍手を送りたい。欲しいなぁ。


備前焼珈琲杯

陶芸家・中平美鈴氏作。無骨な美というのかな、あからさまに「きれいでしょ!」と主張しない控え目さが好きです。

備前焼は岡山の誇る陶器です。他にもたくさん陶器は日本にありますが、日常の生活で使ってこれほどしっくりとくるものはあまりないだろうと思います。

麦酒杯、珈琲杯、大皿、小皿、大きな花瓶、小さな花瓶、等々我が家で活躍中です。

土を練り上げて焼いただけ(のはずがないのだが)だから、花瓶にチョコンと小さな花一輪を生けてもよく似合うしとても風流です。もっと世界的に評価されてもよいと思うのですがね。

身の周りに自分のこだわりの品が増えていくのは嬉しいものです。愛着があるものが増えていくというのは、生活がとても豊かになります。同じ珈琲を飲むのでもね、そりゃ当然違うでしょう。

2047年に、スキンヘッドの俺が能登上布の浴衣を着て高梁川の花火を見に出かける頃には、我が家には俺と妻のこだわりの愛用品ばかりが転がってるんやろな~


2012年3月17日土曜日

そして来たる君へ

俺の両親が勝手に俺を生み、いま俺は俺と妻との子である貴様を勝手にこの世に生もうとしている。
あの時存在しなかった貴様の意思とは全く無関係に、だ。

貴様にも、かつての俺と全く同じように、自分を生み出した父と母と自分自身を腹の底から呪う日が来るだろう。世界は君のためにはできていないという単純だが、幼い頃は誰もそうは教えてくれない原理のために、君はやがて世界から拒絶され、自分自身の内に閉じこもり、こんな馬鹿げた世界と両親なぞ滅びてしまえと願わざることあたわざる日が来るのだ。

世界と自身の無意味さを痛烈に自覚せざる総ての意識は理性とは呼べず、この理性なき生が決定的に欠いているのは意思である。そして意思なき生とは畜生の生であるという意味で、そんなものは産廃処分場にでも捨ててしまうがよい。
無意味な人生のなかで、干からびた陳腐な馴れ合いの友情や資本家達が喜びそうな消費に夢中になって、この無意味を誤魔化しながら生存すること、これを俺は絶対に許さん。バーナード・ショーに倣って言えば、これは、生きているのではなく存在しているに過ぎぬ。

俺は貴様に命と時間と血で書かれた書物を与えよう。だが、貴様が生きることの意義は与えぬ。もちろんそんなものは与えられぬ。誰も貴様にそれを与えることはできぬ。それは貴様が、貴様自身が闘い、勝ち取るべきものだ。

こんな馬鹿げた世界に来たる君よ。
君が世界以上に馬鹿な弩阿保であることを切に望む。世界には何も望むな。ただ自らがなすべきを問え。
世界は滅ぼされるべきか救われるべきか、畢竟、我々の問題はこれだけなのだから。

"お前のためにチームがあるんじゃねぇ。チームのためにお前がいるんだ。"

ー安西先生


2012年3月11日日曜日

一年

陸奥に幸あれかしと手を合わせ
億の心はひとつなりけり

父祖の地を冒して消えぬ放射能
如何に贖う史上の大罪

野良猫が夕暮れの道ただ独り
ニャーと泣く目は寂しかりけり

小利口と阿呆の道のありとせば
などて選ばん弩阿呆の道

地震国同時にここは火山国
ならば愉しめ極楽温泉

2012年3月5日月曜日

顔本

大阪から東の京都に下る新幹線のぞみ250号の6号車8E席にて我れ在り。
余談だが、「のぞみ」の名前は、戦前、朝鮮鉄道に、南満州鉄道の特急「あじあ」と同時に登場した第七・第八急行列車の愛称であったそうな。
司馬遼太郎の真似でした。「余談だが、〜」。〜がメチャクチャ長いんね。それがまたメチャクチャ面白いんだが。

隣でオジサンが顔本、つまりFacebookをやっている。
先日の城東会でみーんなFacebookを使っていて、お前もやれやーと勧められたんだが、如何せん、俺は自分の思いや言葉を他者に伝えたいという欲求はあるものの、反対に他人から何かを聞きたいとか誰かとつながりたいとか誰がいまどこでなにをしているかということに皆目興味が持てぬクチのようで、そういう意味じゃ双方向の意思の疎通がひどく苦手、というより、もしかしたら嫌いなんかもしれぬ。

そんなわけで、限定された友人に向けてではあっても自分がしていることをお報せし合って、互いに「イイネ!」とやり合っている皆さんの動機が全く分からん。だってみんな暇な学生さんじゃないからね。
お前のほうが一日に何個も投稿してる暇人だろう!?って。
むぅ。然り、と答えておくか。

などと考えながら、週間現代を読んでいたら、酒井順子氏が短いエッセイを書いている。
このFacebookを人々が使う原動力は、三つあるんじゃないかと氏は言う。
曰く、一つに懐古。つまり懐かしい友人を見つけ「友達になる」。二つに、自慢。つまり、こんなかわいい彼女ができました、なんてやつ。三つに、伝道。あのラーメン屋うまし!というのはこれかな。

ははぁ、なんじゃい。結局俺もFacebookユーザーと同じような動機からブログを書いてるんぢゃないか。懐古趣味はさすがにこのブログにゃないじゃろうし自慢もあまり(あまり、ね!)ないはずだが、伝道の欲求は激しくありけりだ。例えば武蔵御嶽神社に行ったことは自慢であり伝道ですわな。

人は孤独を嫌うそうな。
孤独だと寂しいそうな。
孫正義氏もそう言っておりました。だから通信事業をやるんや、と。真偽はと兎も角。
人々のつながりたい、認められたいという欲求を資本主義のマーケットにおいて情報技術によって充たし、これを金に替えたFacebookは、物質的に満たされて「車もいらない家もいらないなにも欲しいモノはありゃしませーん」というポスト産業資本主義世代が、唯一渇望していた「他者とのつながり」という需要を充たすものなんでしょう。この需要は、「友達」が芋づる式に増えていくFacebookという電磁空間の中で際限なく拡張し得るから、有限の人々の物質的欲求よりもさらに盤石でありましょう。
資本主義というものは、凄まじいものだと思わずにいられない。何も売れない先進国全部デフレで資本主義が終わるのか?なんて時代に、Webという新しい空間にこんな需要を見出して荒稼ぎをしてみせるのだから。
資本主義への興味は尽きない。

以下は独り言。上も独り言だが。

●人間の大きさは行動に現れる。行動の母は良いもの悪いもの一切合切の思いである。思いは感情に由来する。だから、感情が前にも後ろにも右にも左にも大きな人間は、人間が大きいと言える。

●陛下が退院された。よかった。
不敬の謗りを覚悟で言うが、皇后殿下に異様なほどの親しみを感じる。俺のもう一人のおばあちゃんのような、そういう気持ちがしている。
念願されている両陛下の東北の慰霊祭への御出席が実現しますように!

大阪某所にて

凍り付く便座に座り思い知る
原発のなき大阪の冬

京都駅にて

比叡山霧に霞みて見えねども
永久にあれかし護国の霊峰

2012年3月4日日曜日

天下乃諤々君一撃不若!!!


「天下の諤々(がくがく)は君が一撃に若かず!!!」

1889年11月1日、福岡県博多市の崇福寺で開催された、来島恒喜の葬儀における、頭山満の弔辞である。弔辞の一部ではなくて、ただこれだけ。

来島は玄洋社の社員。極右団体などと言われるが、そんな狭い世界に留まれる男たちの集まりではなかった。大西郷を尊敬する頭山満を筆頭に、大亜細亜主義を掲げ、掲げたのみならず実際に大陸に飛び革命家たちを命がけで支援したのが彼らである。

その社員の一人であった来島。

幕末以来の不平等条約の改正を巡って当時世論は沸騰していた。1880年代後半のことだ。
鹿鳴館を建てて欧米化政策を進めた井上馨外相が伊藤博文内閣においてまとめた改正案は、外国人にかかわる裁判の判事の多数は外国人を起用すること、また外国人居留区に限定されていた居住と商取引の制限を撤廃し全国に拡大するものだった。これについては仏人法律顧問ボアソナードも、「屈辱外交」とまで言ったそうな。
これに激怒した国民的な大反対運動により、井上は外相を辞任したが、後任の大隈重信は豪胆にも、井上案のほとんど変わらぬ改正案で走ろうとした。

政府は、1887年に保安条例を施行し、自由民権派の集会と結社を全面的に禁止した。つまり、言論封殺を意図したのである。
それまで旺盛にこの条約改正案に反論を唱え続けてきた来島は、ここで大隈を爆殺することを決意した。

そして、1889年10月19日、霞が関の外務省前。
来島は、大隈が乗った馬車を爆破し、右脚切断の重症を負わせた。政治的意思を不法な暴力行為により実現することを意図したという意味において、正真正銘のテロであった。
襲撃の直後、来島は皇居に対して一礼し、携帯した短刀で首を刺し自決。

結果、黒田内閣は外相以外全員辞職。条約改正はついに中止となり、すでに調印されていた改正についても撤回された。
つまり、テロは大成功したのである。

そして1889年11月1日、博多での来島の葬儀。来島の実家から崇福寺までの8キロの道沿いには、老若男女が人垣をなしたそうな。

その葬儀において、来島の盟友であった頭山満は、

「天下の諤々は君が一撃に若かず!!!」
(世間ではありとあらゆる人が争論しておるが、それは貴様のたった一度の行動に及ばぬ)

と言い放った。
言うほうも言うほうだが、言われるほうのやったことももの凄い。
そこらへんの芸能人が死んだ友人に送る長くつまらんお涙ちょうだい弔辞とは次元が違う。

ちなみに、やられたほうも凄い。
大隈は、後日こう発言したそうな。

「爆裂弾を放りつけた者を憎いやつとは少しも思っていない。いやしくも外相である吾輩に爆裂弾を食らわせて輿論を覆そうとした勇気は、蛮勇であろうとなんであろうと感心する。若い者はこそこそせず、天下を丸呑みするほどの元気がなければだめだ」

さらに大隈は、玄洋社が毎年行う来島の法事に香料を送り続けたという。

こういう話をすると、決まってこういうやつがいる。

「俺らの時代にいきていれば、彼らも俺らと同じ程度の人間さ」

然り、そうかもしれぬ。
だが、この場合、来島は実行したのだ。俺や貴様が反対の立場にあったとき、つまり1889年の秋を生きる大丈夫であったとき、来島と同じことができたか???できるか???

「テロを認めるのか?」と言いたい人がいるかもしれない。
確かに、戦前の日本は一大テロ大国だったから、テロという言葉は9.11があろうがなかろうが日本においては重大な意味を持っている。
暴力によって意思を実現することが必ず歴史に鑑みて正しいとはいえぬ。だが、国家とは暴力を正当に行使する権利を独占する団体である。そして、国家そのものがテロを行うことだって幾らでもあるのだ。歴史はこれを証明している。
我が身と引き換えにでも実力で以てことをなそうという気迫は、無条件の尊敬に値する。
大隈が上記のように言ったのも、自分と来島が祖国の独立と繁栄を願う同志であるという強い認識があったからに違いない。

歴史というものが、人を作るのだなと思う。
人は歴史に対して作用を行うのみならず、歴史との相互の連関の内に自己を見出し、歴史を把握するのだ。
歴史を作るのは必ずしも世界史的個人だけではないだろう。
世界史的個人が特殊的意思を持つにいたる過程において、それまでの歴史が彼の断固たる決意を促すのである。

上記は、小林よしのり「反TPP論」幻冬舎より。

あなたの来歴は何ですか?

小学校三年生だったと記憶している。
ふと、自分という存在について考えた。もちろん「自分の存在」という言葉で思考したのではない。思えばあれが俺にとって初めての自覚的に自己を対象として認識した時であったように思う。

何を考えたかというと、自分は何者なのかと考えた。

自分が、三谷原基という人間であるのは分かる。
なぜこいつがいまここにいるかと言うと、両親が生み育ててくれたからだ。その両親がなぜ生まれたかというと、両親の両親が彼らを生み育てたからだ。そこからとりあえず380万年前に(だったっけ?)人類が誕生したから俺がいま生きているということは分かった。百科事典をみれば人間が一生懸命に暮らす土地を広げ文明を築い命をつないできたこともわかった。最初の人間に至るまでの数十億年という途方もない時間をかけて、最初に海に誕生した単細胞生物が徐々に複雑化し、有性生殖を獲得し、様々な生命へと分化してきたかもわかった。さらに、遡れば、地球が46億年前(だったっけ?)にガチャガチャとできたことも百科事典に書いていた。
ここまでは順調だ。なんとなくだが、納得できた。
しかし、地球を生んだ宇宙がいつできたかは分からなかった。ビッグバンがあったと書いているのだが、その前になにがあったかはまったく分からなかった。無から大爆発???と思った。なにもないところに大爆発なんてあってたまるかと思った。卵を使わずに卵焼きができるかと思った。
で、とりあえず、自分という人間は、全くの偶然、究極的には絶対に判明されぬ原因に由来する偶然の産物でしかないと知らされたようで、空恐ろしく感じた。自分が偶然の産物でなんの目的も意味もなく生まれてきたのだとしたら、自分が生きていることと生きていないことの間に、一体全体なんの違いがあるというのか。

この問いは、初めて発してからいままで20年ほど、俺の深層心理にこびりついて消えることはなく、ことあるごとに脳の思考に使う部分を完全に占拠してきた。

2000年の夏に東岡山工業高校にノックアウトされた日の夜に考えたのは、まさにこれだった。
俺の「世界」であった野球は、はるか彼方に飛び去ってしまい、俺は野球から拒絶され、それまでの俺を不気味な世界から守ってくれていた野球という外殻は失われ、剥き出しの無意味さが支配する荒々しい世界に放り出されたように感じたのを鮮明に記憶している。マスカットスタジアムに鳴り響くトランペットの音も蝉の声も、地獄の子守唄の趣味の悪い伴奏のようだった。

大学に入ってからは、宝塚の武庫川と京都の賀茂川の河畔で、もくもくと流れる水を眺めながら、「自分がいまここに在ること」の意味を理解しようと努めた。どうやって認識すればいいのかと思案した。だが認識しようとする主体たる自分の存在が意味不明なわけで、結局何もわかりはしなかった。時間があると人間はここまで不毛な思索に精を出す。

だけどねぇ、目的に向かって一直線に走れるような人間なら本なんて読まないですよ。
目的がある人生?そりゃ楽チンだな。だが目的が果たされたら、どうするかね。死ぬしかないのかね。
いやいや、そんなもんじゃないだろうよ。

2012年3月3日土曜日

G.W.F.Hegel

「民族精神は、普遍的原理を根本要素とし、根本目的とするかぎりでのみ、世界史的存在である」

「世界史とは、精神が時間のなかで展開していくものである」

「自由は自覚されるものであり、思考と同一の根を持つ。動物は思考せず、人間だけが思考するのだから、人間だけが思考しているときだけ、自由を持つ。人間が自由を意識するということは、個人が自己を人格としてとらえること、すなわち、個でありながら内部に普遍性を持ち、あらゆる特殊的なものを捨象し放棄できる、無限の存在として自己をとらえることである」

「世界史は、道徳の本領たる、私的な心情、個人の良心、個々人の意思と行動といった場面よりも、もっと高い次元を動く...世界史的個人と言われるような大人物たちの行為は、かれらが意識しないような内面的な意味で正当化されるばかりではなく、世界の流れいう立場からも正当化される。...つつましさ、謙虚さ、人間愛、慈善などといったくだくだしい個人道徳をかれらに要求しても始まらない。世界史というものは、道徳が問題となったり、人のよく口にする道徳と政治の区別が問題になったりするような領域とはまったく違う。世界史は、道徳的判断などしない」

青山墓地で思ったこと

たまに、会社から徒歩5分の青山墓地を散策する。ここは、有名な墓地で、乃木希典将軍や小村寿太郎や秋山好古や牧野伸顕など、まぁ、近代日本を作った偉人たちの仰山の人がここに眠る。
自然、墓は巨大で立派なものが多い。倉敷の我が家の墓地などのんびりしたものだ。なんせ「海軍中将」とか「勲一等従二位なんちゃら 公爵」とか、つまりは高位の階級と爵位など田舎ではまったく見られない文字か刻まれた墓だらけだ。
俺のような人間には、かなりワクワクする場所なわけである。

で、思うこと。

墓を立派に拵えて華美なものにすることほどの堕落はない。
土台からして地面からの高さが1.5m、墓の高さは地面から4mはあろうかという巨大で威圧的な墓をみて、過去を生きる人は、この人は立派な人だったんかなーとは思うやもしれぬが、この自己顕示欲の巨大さには吐き気がする。まぁ、墓の下の故人は預かり知らぬ仕儀ではあるが。
始皇帝の小ぶりversionなのだ。

恥を知れ恥を。
死んだ後に墓で目立ってどうする。目立ち方に品が求められる。
命は使い切るもの、使い捨てのもんだ。使い終れば肉は土に還るだけだ。精神だけは子孫の魂に生き続け得るがね。そのために必要なのは、巨大な墓じゃあるまいよ。子孫に、「僕のおじいちゃんのひいおじいちゃんは、こんな墓を作ってくれって言ったんかなぁ。ださいなぁ」と思われたら最悪である!!!
命という道具を使い終えた後にも俗世への未練がましく己の威厳と名声を後世に残そうとするような小人物ではなにもできはしまい。

男たるものは、自分の葬られ方にまで断固たる美意識を持ちこれを貫かねばならん。
まぁ、骨を海に流してくれというロマンチストや亡骸を鳥に喰わせてくれというニヒリストにも全く共感できんのだがね。

いちいち生や死を意義付けても仕方がない。アリのように生きて、ただ死ぬ。それだけのことだ。だがDefianceだけは忘れるな。
数十億の過去の人間たちがそうしてきた。粛々と死んだ。死に続けた。つまり、生きた。その意図せざる遠い結果の一つとして、いま貴様や俺がいる。

人生は単純明快がよろしい。
そして、死んだ後は納豆のように粘っこく現世にしがみつかず、スタコラサッサと土になって植物の栄養になりたいものだ。


2012年3月2日金曜日