自然、墓は巨大で立派なものが多い。倉敷の我が家の墓地などのんびりしたものだ。なんせ「海軍中将」とか「勲一等従二位なんちゃら 公爵」とか、つまりは高位の階級と爵位など田舎ではまったく見られない文字か刻まれた墓だらけだ。
俺のような人間には、かなりワクワクする場所なわけである。
で、思うこと。
墓を立派に拵えて華美なものにすることほどの堕落はない。
土台からして地面からの高さが1.5m、墓の高さは地面から4mはあろうかという巨大で威圧的な墓をみて、過去を生きる人は、この人は立派な人だったんかなーとは思うやもしれぬが、この自己顕示欲の巨大さには吐き気がする。まぁ、墓の下の故人は預かり知らぬ仕儀ではあるが。
始皇帝の小ぶりversionなのだ。
恥を知れ恥を。
死んだ後に墓で目立ってどうする。目立ち方に品が求められる。
命は使い切るもの、使い捨てのもんだ。使い終れば肉は土に還るだけだ。精神だけは子孫の魂に生き続け得るがね。そのために必要なのは、巨大な墓じゃあるまいよ。子孫に、「僕のおじいちゃんのひいおじいちゃんは、こんな墓を作ってくれって言ったんかなぁ。ださいなぁ」と思われたら最悪である!!!
命という道具を使い終えた後にも俗世への未練がましく己の威厳と名声を後世に残そうとするような小人物ではなにもできはしまい。
男たるものは、自分の葬られ方にまで断固たる美意識を持ちこれを貫かねばならん。
まぁ、骨を海に流してくれというロマンチストや亡骸を鳥に喰わせてくれというニヒリストにも全く共感できんのだがね。
いちいち生や死を意義付けても仕方がない。アリのように生きて、ただ死ぬ。それだけのことだ。だがDefianceだけは忘れるな。
数十億の過去の人間たちがそうしてきた。粛々と死んだ。死に続けた。つまり、生きた。その意図せざる遠い結果の一つとして、いま貴様や俺がいる。
人生は単純明快がよろしい。
そして、死んだ後は納豆のように粘っこく現世にしがみつかず、スタコラサッサと土になって植物の栄養になりたいものだ。