2012年3月5日月曜日

顔本

大阪から東の京都に下る新幹線のぞみ250号の6号車8E席にて我れ在り。
余談だが、「のぞみ」の名前は、戦前、朝鮮鉄道に、南満州鉄道の特急「あじあ」と同時に登場した第七・第八急行列車の愛称であったそうな。
司馬遼太郎の真似でした。「余談だが、〜」。〜がメチャクチャ長いんね。それがまたメチャクチャ面白いんだが。

隣でオジサンが顔本、つまりFacebookをやっている。
先日の城東会でみーんなFacebookを使っていて、お前もやれやーと勧められたんだが、如何せん、俺は自分の思いや言葉を他者に伝えたいという欲求はあるものの、反対に他人から何かを聞きたいとか誰かとつながりたいとか誰がいまどこでなにをしているかということに皆目興味が持てぬクチのようで、そういう意味じゃ双方向の意思の疎通がひどく苦手、というより、もしかしたら嫌いなんかもしれぬ。

そんなわけで、限定された友人に向けてではあっても自分がしていることをお報せし合って、互いに「イイネ!」とやり合っている皆さんの動機が全く分からん。だってみんな暇な学生さんじゃないからね。
お前のほうが一日に何個も投稿してる暇人だろう!?って。
むぅ。然り、と答えておくか。

などと考えながら、週間現代を読んでいたら、酒井順子氏が短いエッセイを書いている。
このFacebookを人々が使う原動力は、三つあるんじゃないかと氏は言う。
曰く、一つに懐古。つまり懐かしい友人を見つけ「友達になる」。二つに、自慢。つまり、こんなかわいい彼女ができました、なんてやつ。三つに、伝道。あのラーメン屋うまし!というのはこれかな。

ははぁ、なんじゃい。結局俺もFacebookユーザーと同じような動機からブログを書いてるんぢゃないか。懐古趣味はさすがにこのブログにゃないじゃろうし自慢もあまり(あまり、ね!)ないはずだが、伝道の欲求は激しくありけりだ。例えば武蔵御嶽神社に行ったことは自慢であり伝道ですわな。

人は孤独を嫌うそうな。
孤独だと寂しいそうな。
孫正義氏もそう言っておりました。だから通信事業をやるんや、と。真偽はと兎も角。
人々のつながりたい、認められたいという欲求を資本主義のマーケットにおいて情報技術によって充たし、これを金に替えたFacebookは、物質的に満たされて「車もいらない家もいらないなにも欲しいモノはありゃしませーん」というポスト産業資本主義世代が、唯一渇望していた「他者とのつながり」という需要を充たすものなんでしょう。この需要は、「友達」が芋づる式に増えていくFacebookという電磁空間の中で際限なく拡張し得るから、有限の人々の物質的欲求よりもさらに盤石でありましょう。
資本主義というものは、凄まじいものだと思わずにいられない。何も売れない先進国全部デフレで資本主義が終わるのか?なんて時代に、Webという新しい空間にこんな需要を見出して荒稼ぎをしてみせるのだから。
資本主義への興味は尽きない。

以下は独り言。上も独り言だが。

●人間の大きさは行動に現れる。行動の母は良いもの悪いもの一切合切の思いである。思いは感情に由来する。だから、感情が前にも後ろにも右にも左にも大きな人間は、人間が大きいと言える。

●陛下が退院された。よかった。
不敬の謗りを覚悟で言うが、皇后殿下に異様なほどの親しみを感じる。俺のもう一人のおばあちゃんのような、そういう気持ちがしている。
念願されている両陛下の東北の慰霊祭への御出席が実現しますように!