この4月から一部の大学や病院で、新しい出生前診断の検査法が始まった。
これまでの羊水検査とはことなり、妊婦の血液を少しだけ採取して調べれば、胎児の染色体に異常があるかどうか相当の確率で分かるらしい。
これはパンドラの箱だと騒ぎたいわけではない。
だが、これは1つの、振り戻すことが極めて難しい不可逆的な流れのなかの一里塚である。
それは、「健康な子供を産みたい」というありふれたー通常誰もが首肯するー願望から派生する、際限のない人間の完全性と優越性への欲求へとつながっていくに違いない。
羊水検査のような気が重たくなるような検査をせずとも「異常」をより簡単に発見できるのに、それを行わずに結果障害を持つ子を産むという可能性を排除しないことは、人によっては無責任だと考えるだろう。
健康な子を欲する親の気持ちは、全く自然なもので、親となった今でも親となる前でもそんなことはよく分かる。犬でも猿でも猫でも子供でも、健康でそこらを走り回れるほうがいいに決まっている。
だが、我々にとって「異常」とは何なのだろうか。
退行性の脳障害を40歳以降に起こす遺伝子は、「異常」だろうか。
生殖能力がないことは「異常」だろうか。
160cm以下の身長は、「異常」だろうか。
120kmhの速球が投げられない身体能力は、「異常」だろうか。
東大に現役で入学できない知能は、「異常」だろうか。
禿げは、「異常」だろうか。
肥満は、「異常」だろうか。
卵アレルギーは、「異常」だろうか。
これらの問い全てに「異常」と答える人が行き着く先は、徹底的な遺伝子診断(スクリーニング)によって、上記の「異常」な遺伝子を持たぬ、背が高く、容姿端麗で、脳障害に悩むことのない、140kmhを投げられる、髪の毛ふさふさの卵アレルギーのない秀才を「デザイン」するということに他ならない。
当然だが、完全で網羅的な遺伝子のスクリーニングには金がかかる。保険でカバーされるようにはならないだろう。
つまり、金持ちはより広範な遺伝子のスクリーニングが可能になる。新しい検査方法が可能になれば、それをすぐに試せる。他方で、裕福でない者は全くスクリーニングを受けられずに、「背が低く、肥満で、禿げた、身体能力の低い子供」を産む「リスク」(それはリスクなのか?)を負わねばならなくなる。
そんなことが世代間に経済的資産とともに受け継がれていくとき、誕生するのは遺伝子レベル全てが分かたれる、新しい階級社会である。
セックスなんぞは快楽のためだけで、セックスによって子供を作ろうなんていうのは野蛮人か時代錯誤者の行いと言われるようになる。
すべての子供の胚は顕微鏡を使った体外受精によって誕生し、受精卵は遺伝子的に徹底的に検査され選別され、両親がOKと承諾した受精卵だけを母(代理母)の子宮に戻して出産に至る。
そんなことは、近い将来十分ありえそうなことに俺には思える。
よいことなのか、わるいことなのか。
ある友人は俺に「哲学ってさ、もう"終わった"んじゃないの?」と言ったのだが、別にサンデル教授をアメリカから引っ張ってくるまでもなく、未来はこれまで以上に政治的であり、そこで活動する政治家に信仰と哲学を要求するだろう。
ご参考までに、カリフォルニア精子バンクのHP。