2010年11月12日金曜日

缶コーヒー

大学に入ってから、河原やカフェで読書をするのにどうしても手放せなくなったものが、珈琲。
今なら、例えば、どこぞの山に走りに行くぜ!というときは、車に小型バーナーと珈琲豆を積んで行くのだが、かつては屋外で珈琲となれば缶コーヒーしか選択肢がなかった。

20歳で関学に入学してから約9年、恐らく俺個人の類型消費量は数百本(千?)に達するはずだ。

怖るべきことは、俺が口にしてきたこの数百本の様々な缶コーヒーのなかで、一本たりとも「ぬるいなぁ」とか「これは熱すぎる」と感じさせるものがなかったということだ。我々は(少なくともさっきまでの俺は)自販機で缶コーヒーを買えば、たとえば熱い缶コーヒーならば、掌で握り締めるには熱すぎるがさはいえ触れることもできない熱さではないという、あの絶妙な適温を当たり前のことと思っている節がある。だがこれはすこいことだ。 ちょっとした機械文明時代の職人芸とでも呼びたい。

気温が3度のときも33度のときだってあるし、自販機に搬入したばかりということもあるだろう。単純に自販機が気づかれぬまま故障 しているということだってあるはすだ。 それでも、常に同じ。常に同じ”パフォーマンス”。これこそプロの仕事だ。しかも玄人っぽく、全く目立たない。

たぶん、このクソッタレ資本主義というものは、数限りないこういう見えないプロフェッショナルの仕事を生み出すことで社会を支えているんだろうと思う。そりゃイチローは確かにプロだが、イチローだけがプロなわけでもない。そういう隠れたプロを思い遣り(思い遣り=遠くを思うこと)、いい気分になった。が、俺はプロではないな。

街や田舎に乱立する自販機を、とてもいとおしくなど思えぬが、こう考えてみると自販機もそれを管理する飲料メーカー(?)も、たいしたものだなぁと、銀杏並木のとなりの人気のないベンチに座りながら考えた。 とても日本人以外にはできぬ芸当だと思う。外国に自販機がない理由の一つかもしれんね。

おぉ、どこからか「すごいのは自販機だろう」というニヒリストの声が聞こえてきた。

さぁ、今週は山で焚き火じゃ(キャンプ)。寒いから薪はたっぷり必要だが、できる限り現地調達を旨とすべし。

今日買った本:

佐々木中「夜戦と永遠」以文社 2008年

みんなよい週末をお過ごし下さい。



2010年11月11日木曜日

てがみ

掴まり立ちをした姪への手紙。
姪はね、なんとGmailアカウントを持っているんです。
アップするかどうか逡巡したが、まぁ人の悪口じゃないし、よかろうと決めた。



あいこへ

こんにちは。

これをきみがよむのは、なんねんさきのことだろうか。
きみはきょう、うまれてはじめてじぶんのちからでたちあがった。2010ねん11がつ8にちのことだ。
おれはみていないがね。
あねきから「そくほうにゅーす」がとどいて、おもわずにやついてしまった。
きみのちちうえさまもははうえさまも、じじさまももばばさまも、きみがげんきにおおきくなってくれることがなによりもうれしいようだ。おっと、もちろんひいばばさまだってそうだ。
おれもそうだが、きみもたいそうしあわせだ。おれはこうたいしだったそうだが、きみはおひめさまだ。おやばかぶりではあなたのはははなかなかだれにもまけないだろうよ。


でもね、あいこや。
しあわせにうまれついたものは、まじめにいっしょうけんめいにいきて、しあわせをほかのひとにもゆずってあげよう。それがきみのしあわせになる。
せかいからあいされたきみならば、せかいをあいせないはずがない。たとえそれがどんなせかいであってもね。だっておれらのせかいじゃないか。おれらのくにじゃないか。おれらのかぞくじゃないか。ほかのだれのものでもない。


これからきみは、ながいながいじかんのなかで、”すうせんまんぽ”でも、”すうおくほ”でも、そのまだぷにぷにのあしであるくだろう。そのながいみちがうつくしいものであるのかどうか、いまはまだおれはすこしだけふあんだ。
でもね、しんぱいはむようだ。きみをいのちがけでまもってくれるひとがせかいにはたくさんいる。きみにほほえみかけてくれるひとがせかいにはほしのかずほどもいてくれる。
きみのおとうさんはりくぐんのぐんじんさんみたいだし、きみのおじさんはかいぐんのぐんじんさんみたいだ。きみのおかあさんはきみがうまれてからかくじつに”わらいじわ”がふえた。
きみがあるいていくながいみちのほとりには、いろとりどりどりのはなたちがたえずかおっているだろう。
ねがわくは、きみが、そのおおくのはなにきづき、みなとよろこびをわかちあえるうつくしいこころのもちぬしであらんことを。
ほれほれ、わかるかこのぷにぷにむすめ。

きみがだんだんにんげんらしくになっていくのがおれはとてもおもしろい。

きみはそのうちおれのことを「はげおじさん」なんてよぶのだろうね。
まくらことばは、「せかいでいちばんかっこいい」はげおじさんでよろしくたのむぜ。いいこにしてたらたまにはAston Martin DBSにのせてやろう。たまにはニーチェについてかたってやろう。
いまはしっかりおちちをのんでしっかりねておくがよい。しっかり"のう"をせいちょうさせておきなさい。

おれのはなしはむずかしいぞ。みみからはなげがとびだすほどだ。


もとい



2010年11月8日月曜日

人間の間に生きるとき

天山温泉湯治郷での昼飯は麦とろと決めている。
箱根の紅葉は来週-再来週が見頃でしょう。
これを食べる時のイメージは、信長の桶狭間直前の清州城での湯漬け。


下記は、ツァラトストラが彼が孤独を愉しんだ山(洞窟)に久しぶりに戻ってきて語る言葉。

「われ人間の間に生くるとき―、つねに、控え目の真理を以て、愚人の手と痴呆の胸を以て、また憐憫のあまたの小さき虚偽を以て、生きていた。
彼らの間にあるとき、われは仮装して座っていた。かれらに堪えんがために、すすんで自己を誤解していた。また、われみずからに『なんじ、愚かしき者よ、なんじは人間を知らぬ!』と諭していた。
人間の間に生きるとき、人間は人間を忘れる。すべての人間には、あまりに多くの前景がある。―遥かをみはるかし遠くを求むる目は、ここにあってはその用をなさぬ!
かれらがわれを誤解したときも、愚かしきわれは、己を宥恕する以上にかれらを宥恕した。われみずからに対して峻酷なるに慣れ、しばしばこの宥恕の故にわれみずからに復讐した。
毒ある蠅にさされ、多くの悪意の滴によって穿たれし石のごとくに空洞と化しながら―、われはかれらの間に座って、みずからに説いた、『すべての小人らはかれらの卑小に罪はなし』と。
なかんずくわれは、おのれを『善き者』と呼称する輩を、こよなき毒を有する蠅と知った。かれらは邪意なくして刺し、邪気なくして偽る。このかれらが、いかにしてわれに対して―公正でありえたろうぞ!」

―ニーチェ「ツァラトストラかく語りき」下巻、P.90-91

社会に出て仕事をするようになって二年半。
自身の成長は皆無だ。「お疲れ様です」を午前中から言うことに25%ほど抵抗がなくなったぐらいだ。
だが、たった3年前にこれほどニーチェの言葉が脳髄を震わせることは想像できなかった。
最近ニーチェニーチェと五月蠅いが(俺が)、まっこと、心酔しかけている。惚れちゃいかんがね。



2010年11月7日日曜日

空腹と走れ!

最近、腹を空かせている。
ろくに仕事の出来ないへなちょこサラリーマンでも解雇にならない有難い(?)会社に勤めているので、毎日の食事ができず腹を空かせているわけではない。
つまり、意図的に腹を空かせている。

今の日本の社会(都心部)は、異常だ。
人間が誕生してから20万年、昼夜を問わずいつでもなんでも食べ物を手に入れることができる環境というのは、どんな物差しで測ってみても、異常だ。日本と同等の先進国においてさえ24時間開店のコンビニなんてものはないという国も少なくない。(だが今日の目的はコンビニが蔓延するこの状況の是非について語ることにはない。蔓延なんて言うてしまったが)
その結果、我々は、「腹が減った⇒何かを食べる」ことが当然だと思っていないだろうか。残業している時に空腹を感じれば、近くのコンビニとかファーストフード店で食べ物を手に入れられる。我慢する理由なぞない。小腹が減った時のために開発しました!という風な食品がとりわけコンビニに膨大に並べられている。こうなれば、我々が当然のことだが、空腹を感じる時間は少なくなる。
俺は、説明できないのだが、このことは生物としての人間を弱くしているように思えてならない。
考えてみてほしい。
確認されている最古の農耕は、中国において15,000年ほど前に行われていたという。
つまり、人類の誕生から15,000年前までの十数万年の間、人類は、「腹が減った⇒コンビニ」ではなくて、「腹が減った⇒狩り(猪がいるといいですね!マンモスを倒せたら何日ぐうたら?)」という暮らしを生き延びてきたのだ。その人間が、この21世紀初頭の日本では、いつでもどこでも鶏の唐揚げだろうが肉マンだろうがパスタだろうが食べることができる。このことの意味は、けっして軽くないと思う。

さはさりながら。
仕事をする平日に腹が減ってはなかなか集中できぬという事情がある(実験済)。
だから、お勧めはやはり土日だ。
まず、金曜日の夜は水とプロテインだけを摂る。ついでに銭湯のサウナで大汗を書き新陳代謝を上げる。そして、「腹減った~」と言いながら就寝。土曜日の朝、昼も珈琲と水しか口にしない。
毎日真面目に三食きちんと食べている人は、これで土曜日昼3時にもなれば、けっこうな空腹感を感じるはずだ。で、大切なのはここから。

この空腹常態で、筋肉が分解されるのを覚悟で(我々の身体は低血糖状態で運動を行うと、筋肉(=たんぱく質)を分解してエネルギーを得ようとする)、トレーニングを行う。
今週末の俺の場合は、アップダウンのある5kmのコースを時折75%ぐらいのダッシュを混ぜつつ、走る。その後、懸垂・腕立て、それから少々瞬発系のトレーニングを入れる。すると、面白いことに気が付くはずだ。空腹を完全に忘れるのだ。さっきまでひどく空腹だったのに。
そりゃそうだろう。腹ペコの子どもライオンに獲物をせがまれた母ちゃんライオンがトムソンガゼルに飛びかからんとする時に、空腹もなにもないだろう。昔右手の中指の爪がパックリ割れて血まみれなのに、問題なくピッチングを続けられたことがある。人間=動物は、ちゃんとできているものだ(試合後に号泣するほどの激痛に襲われた)。
だいたい90分間ぐらいのトレーニングを終えて、食事をとる。当然ながらやはりたんぱく質が主体となる。イメージだけで言えば、1,500kcalくらい一気に摂る。理想的には、ササミ・卵白などで十分なたんぱく質を補い、新鮮な果物と根菜で身体を整えたい。ここまででだいたい土曜日の「食事+トレーニング」が完了。そのあとは実はプレミアムモルツを一本空けつつニーチェを音読するという怠惰な夜を過ごしたりもする...赤ら顔で。

いかがだろう。
この機械化文明の恩恵を当然のものと思って二本足では走ることもできない動物園の肥満動物に堕落したくない戦闘者のあなたは是非一度お試しを。
身体が若返って元気になるのを実感できるはず。
なにより食欲という欲求さえ自身のコントロール下における自分に自信が持てるだろう。
空腹のときのほうが、戦闘的なんだよね、人間って。ライオンと同じで。頬のこけた奴には注意するべし。


独り言:

日本シリーズ盛り上がってますな。
だけど放映権料に依存したビジネスモデルはもはや成り立たんでしょう。
アメリカがあの国土で一つ(二つ)のリーグでやれるのだから、台湾韓国日本中国でトップリーグを12チーム、セカンドリーグを12チームぐらいにして、Asian Professional Baseball Leagueぐらいでやれば楽しい。野球版大東亜共栄圏?うーん、Maybe。



2010年11月6日土曜日

読書は孤独な体験であるという誤解について

読書とは孤独な行いである―。
もしあなたがそう考えているとしたら、あなたは残念ながら途方もなく浅薄な人間だ。そう断言することに俺は全然躊躇しない。
読書とは孤独な行いであると考えることは、読書における他者性を無視するか、意図的に排除している。
例えば、なんらかの情報・知識を記憶すること、まぁこれは受験勉強において頻繁に必要になることであるが、これは多くの場合孤独な行いである。大学センター試験の日本史で100点を取ろうと思えば、794年に平安京が設立されたことだけではなく、その数千数万倍の情報を記憶する必要がある。記憶するのはあなた自身だから、誰もその行いに介入しないし、助力もしない。
だが、読書とはそういうものとは本質的に違う。形而下的に言えば、机に座って書物を開くという行為は受験勉強のような孤独な行いと似ている。だからこそ、「読書=孤独」というおかしな一般通念があるのだろう。
本来、読書とは、自分とは異なる他者がこの世界に存在することを大前提とし、読者とは異なる言葉の用法を以て読者とは異なる(たまに同一でもありうる)思想を紡ぐその他者と直接に関わらざるを得ない、これ以上ないほどの能動的な活動である。
読むということを見下してはいけない。読むという行為を見下すことができるのは、命がけの文章に触れたことがない人間だけだ。そういう「読者」は、2時間で目を通すことができる1500円のビジネス書しか読んだことがないのだろう。そんな本を一万冊読んでも、一冊の真っ当な読書には敵わない。
著者が全人格をかけてものした文章に直接触れる読者の精神が、一体全体どういう理屈で孤独であり得るのだろうか。俺はそんなことは理解しないし、想像もできない。単なる情報の交換・伝達を媒介として他者と「交流」することはそもそも無理な相談なのだ。なぜといって、情報それ自体を保有する者の匿名性は、それが他者に伝達されたとしても未だはぎ取られはしないから。そもそも考えてみればすぐに分かることだが、情報が流通するのは貨幣と同様にその一般性のためである。そうであれば、情報に個性などありはしないのである。個性なき他者?そんな者が存在しえる筈がないではないか!!個性なき他者というのは、空気と同じである。特殊的であるからこそ我は我でありうるし、あなたは他者として存在しうるのだと思う。
話が逸れた。
読む人は、他者の存在を前提として生きる者だ。この他者とは、根本的に理解し合えない敵も当然に含むものだ。読む人が減ったからこそ、他者の存在を許容できぬ狭量な社会になっているのだと思えてならない。世界=自分、そういう極端な自己愛とその反対の個人の不安、そういう矛盾が蔓延っている。



完全な人間

母たる女性こそ、人間という生物のうちで最も美しいのだと思う。つまり、彼女は、吠えることも唸ることもなく冷静に鹿を殺す狼なのだ。
彼女にとって世界は、完全な身体性と即時性を持って常に彼女の側にある、否、彼女と世界を区別するものは最早存在せず、彼女即世界の関係が成立し、主客二分論は止揚される。
これに対して男は、自分の卑猥な自己顕示欲と性的欲求の混入した支配欲に動かされ、これがために仕事に励み身体を鍛える。まるで、女性に受容されざれば自身が存在すること能わざる者であるかのように。陥穽は此処にある。
女性との関係ー殆どの場合それは性的関係を伴うーによって大方の男は世界に受容される。それは彼らが望むことである。しかし、このことによって、男は世界内存在(注)として、謂わば世界に包含されてしまう。かかる上は、彼は世界を批判することはできない。世界内存在が、「世界」を変えることはできないし、破壊することもできはしない。
俺は、女性の優しい砂糖によって世界という苦い対象を甘くして、そのなかに自己を没入させることで得られる幸福を拒否する。俺は、その道が幸福であるか否かに関心を払うことなく、世界外存在たるべきだと信じる。俺は、集団登下校を拒否する。おぉ、異教徒の聖夜に色めき立つ畜群よ!

「私は、ここに立つ。私には、ほかにどうすることもできない」

-マルティン・ルター
ハプスブルグ帝国皇帝カール五世のヴォルムス国会の召喚に応じて

(注):ハイデガーがいった「世界内存在」ではない。単純に、in or outと考えられたい。

追伸:

「自分や自分の作品を退屈だと感じさせる勇気を持たない者は、芸術家であれ学者であれ、けっして一流の人物ではない」

-ニーチェ



武田知弘「ヒトラーとケインズ」

少しまえどこぞの本屋で、帯に「なぜ冷静なドイツ人がこの独裁者に従ったのか?」と書かれた本を見た。
戦前戦中は軍=加害者、国民=被害者という後味のよい善悪二元論に歴史を還元したくなるのは、その社会全体の痴呆の始まりか。

さて、この本は、ヒトラーの経済政策とケインズの経済思想・主張を比較したもので、その類似点を強調することでナチスに新たな光を当てようとしている。同時に、それが大恐慌(1929)後のハイパーインフレ(マルクの価値は1兆分の1になった)をいかに克服し、工業大国ドイツを成長させて国民に職とパンを与えたかについて述べている。

端的には、「ナチスの経済政策は効果において素晴らしかった。アメリカのニュー・ディールは失敗したが(アメリカの景気が本格的に回復したのは1941年以降)。そして、それはケインズがさまざまな著作などで主張したことと基本的に一致した政策であった。」ということを言っている。

俗に言われるケインジアン政策とは、「不況期には、政府が財政出動を行って有効需要を創出し、以て失業を減らすべし」という政策だといえる。リーマン・ショック後の世界経済の動揺・低空飛行のなかで、数多くの政府が行ったことはまさにこれを地で行くものだった。
ヒトラーがドイツ帝国の総統として全権を掌握した1933年、ドイツは世界恐慌により大打撃を受け600万人以上の失業者を抱えていた(失業率34%)。経済破綻といってよい。
ヒトラーは政権奪取の3ヶ月後、有名なアウトバーンの建設を発表した。ドイツ全土を全長1万7千キロの高速道路(いまだに一部は速度無制限!あぁ、なんて甘美な響きだ)を6年間で建設するというものだった。このアウトバーンの建設に始まり、住宅建設、都市再開発などのきわめて積極的な公共投資(ヒトラーは当時は財政赤字をものともせずに16億マルクの国債を発行した)によって、わずか3年間で失業者を100万人にまで減少させた。経済は順調に回復し、1936年のGNP(国民総生産)はナチス政権誕生以前の最高であった1928年を15%も上回ったという。
この時期、同じく世界恐慌により崩壊した米国は、ニュー・ディール政策を1933年から行うも1938年の時点ではいまだに800万人の失業者を抱えていた。

さまざま特徴のある経済政策を行ったナチス政権のなかでもヒトラーの公共投資戦略は非常に現在にあっても示唆的だ。ヒトラーは、高額所得者・大企業に対する増税を行い、それを公共事業の原資とした。かつ、公共事業費は、労働者に厚く分配した。要するに、高額所得者・大企業の金を労働者に分配したということだ。観念的に「平等が大切!」だからこの政策が正しいというのではない。
なぜ、労働者の取り分を厚くする必要があったのか?
それは、単に公共事業(地方に橋を作る道路を作る、例えばね)を行うだけでは、それは地主層や大手建設会社を潤すことはあるが、彼らは相対的に労働者よりも大きな富を既に保有しているために、公共事業による収入増=消費につながらない。だが、失業していた労働者にこの収入が分配される場合、彼らはどうしても消費にその収入を回さざるを得ない。つまり、ヒトラーは、増税によって金持ちの資産を吐き出させて、それを公共投資によって有効需要に還元してから労働者に分配したのだ。それによって、眠っていた富が市中に動き出すようになり、経済が活性化した。ナチスは、公共事業を受注した企業にナチス党員(SS?)を送り込み、業者が労働者にきちんと収益を分配しているか監視を行った。
(翻って日本の公共事業ときたらどうだろうか?)

著者は、ヒトラーとケインズの社会に対する見方(それを経済思想と呼んでいるのだが)について、両者の根底には、「とんでもない格差社会を作らない」という意思(=当為)があったという。例えば、ケインズは、1917年に母親に宛てた手紙でこう述べる。

「戦争がこれ以上長引くことは、・・・これまで我々が慣れ親しんできた社会秩序の消滅を意味するえあろう・・・残念ですが、私はこれを全面的に悲しいとは思いません。金持ちがいなくなることはむしろほっとすることです。それより私が恐れることは、(国民)総貧困化の恐れが生じることです」。

ちなみにケインズは、イートン校からケンブリッジ大学という典型的なイギリス特権階級の教育課程を経ている。他方で、ヒトラーは、1940年11月、ベルリンの軍需工場で行った演説で次のように述べた。

「現在の資本主義の経済原則では、国民は経済のためにあり、経済は資本のためにある。しかしわれわれは、この原則を逆転させた。つまり、資本は経済のためにあり、経済は国民のためにある、ということだ。別の言葉でいえば、何より重要なのは、国民なのだ」

政治とは、夢を語ること以上に、限界的な決断を行うことだ。つまり、有限的資源(このパンを二人で分けることはもはや不可能だがどちらかが食べないとどちらも死ぬ!)をいかに配分するかについて、暴力を背景に決断して実行することが政治である。そうであれば、政治を行う者の精神は、どれだけ頑丈であってもそれに過ぎることはない。なぜといって、政治とは人間の活動において唯一の合法的のみならず、「正しく」人を殺すことができる活動なのだから。
しかし、その頑丈さは単なる不感症が故であってはならない。過敏なまでに、対立せる諸個人・諸集団にとっての死活的利益を「理解」しながらも、それを裁断していくための断固たる「信念」を持つ者だけが、政治を行いうるのだと思う。

「覚悟だぜ」


2010年10月31日日曜日

読書論

平均的な28歳の日本人よりも、読んできた本の数は少々多い方だと思っている。
文系の修士だから、そうでなければ恥ずかしいのだが。

ここでは俺なりの本の買い方、本の見つけ方などについて書きたいと思う。

まず、書店には必ず毎日脚を運ぶ。基本的には、夜帰宅の際に渋谷、あるいは最寄駅の書店に立ち寄る。
夜まで仕事が遅くなりそうだと思ったら、昼ご飯を立ち食いそば(これが感動的に不味い!!!)で3分で済ませて、残りの昼休みを外苑前駅側のLibroで過ごす。
その際の順番は、まず週刊誌および月刊誌。必ず目を通すようにしているのは、”週刊現代”、”週刊ポスト”、”週刊文春”、”週刊新潮”、写真週刊誌”Days"、”AERA”、”文芸春秋”(これは毎月買っている)、”中央公論”、”世界”、”諸君”、”論座”、”正論”。次いで、その向かい側にあるファッション雑誌(女性誌もみます)。それから車やスポーツのいわゆる男雑誌。そのあと場所をぐるっと変えて、ハードカバーの時事についての本が並んでいる書棚へ。そこからゆっくり移動して新書の棚ではじっくりと時間をかける。特に、信頼している中公新書と講談社新書の新刊はできるだけ多く目次に目を通す。これでとりあえず一段落。ここまででだいたい30分くらいかかる。そのあとは、先に見た本や雑誌で気になったものをもう一度見に行って、「本棚にいれとくべき」と少しでも思ったものは迷わず買う。
(あまり皆さんご覧にならんと思うが、”Days”は優れた写真週刊誌です。Fridayもいいが、こちらも是非)

休日、時間がたっぷり(2時間~)あるときは、大型書店にいく。関学時代は西宮北口のジュンク堂。京都時代は四条河原町のジュンク堂。東京にきてからは丸の内の丸善。最近、渋谷の東急本店6Fに丸善&ジュンク堂ができて、俺の寮からは30分でいけるので重宝している。
この時は、画集・魚や恐竜の図鑑にまで探す本を広げる。告白すると、休日の巨大書店で恐竜図鑑を時間を忘れて眺めることは俺の大切な趣味である。
なにせ時間があるので、この時は平日の昼休みのようにバタバタとは動かない。広大なフロアを散歩しながら、いつもは見ようとしない本にできるだけ出会えるように努めている。

以上がざっくりとした本屋の使い方。

では、よい本をどうやって探すのか。
まず、週末の各新聞の書評はある程度注目するようにしている。特に、読売が俺の好みだ。朝日はたまにイデオロギッシュ過ぎるが、その筋の著作を探す場合にはよかろうと思う。
今にして思うが、よい本を薦めてくれる「読書仲間」を持つことは人生において非常に重要だと思う。
これだけ情報があふれた時代であっても、ニーチェが言うような「人格を変えてしまうような」本に出会うことは稀だ。まぁ、そんな本だらけだったら多重人格者になってしまうだろうが。
それと、「必読著者」という枠を俺は設定している。現在は、西部邁・佐伯啓思・岩井克人・佐藤優・水野和夫・トマス・フリードマンなど。さらに、「この単語がタイトルに含まれていたら買う」という単語も決めている。例えば、「ハイエク」・「エドマンド・バーク」・「山田方谷」・「戦略論」など。
松岡正剛氏の”千夜千冊”も参考にしている(http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0001.html)。
もちろん、読了した本のなかで著者が頻繁に引用していた文献・参考文献に芋づる式に読書を広げていくのは常套手段である。

読書について難しいのは、幅を広げる必要があるのだが、他方で自分の専門分野(俺なら政治思想・安全保障と言いたい)を深めていく必要もあることだ。そのためには、読書ノートを作って、定期的に分野別の読書計画を策定して実行するほかないのだろうと思う。

読書は趣味ではない。趣味がゴルフである人は、嫌いになったらやめてしまってもよいが、読書はそういう類の活動ではない。
人間は生きている限り、量の大小はともかく、死ぬまで読書を続けなければならないと思っている。
「本なんて読みません」という傲慢人間とは会話が成立する気がしない。



航空会社の敵はGoogle?

たまに台湾に出張に行くことがあるので、羽田空港から台湾の松山空港(桃園空港よりはるかに台北市街に近い)に飛べるようになったのは嬉しい。
しかし、羽田の国際ターミナルが稼働したばかりだけれど、俺はやはりLCC(=Low Cost Carrier、格安航空会社と日本では呼ばれる)の日本乗り入れのほうに注目している。
アジア最大手のLCCであるAir-Asia(http://www.airasia.com/my/en/home.html)が、最近日本に乗り入れた。Kuaralunpurまで最安値ではなんと5000円で運んでくれるという。5000円では”こだま”で東京駅から小田原のちょっと向こうぐらいまでしか行けない...!これはフリース1000円の価格破壊という次元ではないだろう。ちなみに今調べると、Kuaralunpur-羽田の往復はJALで72,000円(当然エコノミークラス)。文字(数字?)通り、桁違いなのである。
米国国内線のシェアは、Jet Blue、SouththWest、AirTranの3社で約20%を占めるにまでなっている(http://www.asahi.com/business/topics/economy/TKY201007030368.html)。欧州では最大手のRyan Airが好調だ。航空業界の地殻変動が、ついに日本にもやってきた。

10,000円で東南アジアに飛んでいける。あるいは、LondonからParisに5,000円で飛んで行ける。
こういうことは、俺は当たり前のことだと思う。
では、それはいかなる意味で当たり前か。
成田からジャカルタやクアラルンプールをJALで往復して7万円だとか8万円という値段は、インターネットが万人に普及せず、東京とジャカルタの間で連絡をとろうとすれば高額の国際電話料金か郵便代を負担しないといけなかった時代の名残なのだ。世界に出かけること、日本を出ること、海外の人と連絡をとることが「非日常」だった時代の昔のことなのだ。
2010年の今日、普通に暮らしている庶民はジャカルタに暮らす友達と話すならば、普通Skypeを使うだろう。つまり無料だ。カメラを付ければ顔を見ながら会話できる。話す必要がなければ、Gmailを使ってメールを送るだろう。写真だろうが動画だろうがなんでも基本的には添付して送付できる。当然無料。

そういう時代に、その友達が暮らすジャカルタに飛んでいくのに、8万円をあの狭苦しいエコノミークラスのシートのために支払おうという者は、最早多くないのではないかと思う。現在においては、情報通信技術の飛躍的向上と低価格化(というよりも、”Free化”)によって、人々が自身の移動に支払ってもいいと考える金額は、決定的に下落しているのだと思う。つまり、「直接会って会話すること」の価値が、相対的に低減しているのだ。もちろん、彼らの懐事情のために毎回の渡航のために数万円を支出できぬという事情もある。
かつては高給取りのビジネスマンや富裕層だけのものであった海外渡航は、完全に「民主化」された。それを背景にあって招導したのは、限りなくゼロになった情報の蓄積と交換にかかる費用である。
LCCというのは、航空業界が我々の生活するインフラの改善と変異に対応したものだと理解してよいと思う。航空会社の敵は、航空会社のみならず、実はGoogleなのかもしれない。

独り言:

大好きなPremium Molt'sに”黒”が出た。早速買ってきて今ジャガリコのじゃがバターをつまみにちびちび飲んでいるが、これ、たいそう旨い。みんな是非飲んでみてちょうだい。
暖炉の前のソファに腰掛けてドストエフスキーを読みつつMacalanを飲んでいる...というのは何年後でしょうかね。いや、囲炉裏の側で作務衣姿で黒霧島か。

ロッテマリーンズの主将、西岡選手。
最近この選手の顔つきが全然違う。かつては茶色い髪の毛で「ちゃらーい」感じだったのだが、今の顔つきは完全にサムライ、大人の男の顔だ。ああいう顔つきに俺もなりたい。
彼だけではない。サッカー日本代表として南アフリカで活躍した長谷部選手、イタリア・セリエAに移籍した長友選手。いずれも俺より年は下だが、本当に立派な顔付だと思う。男は自分の顔に責任を持たねばならん。

不藤(先日の投稿参照)はニースの隣町の語学学校の庭に生っていたミカンを捥いで食うてたらそこの庭氏に叱られたそうな。いやはや、なんとも自由ですなぁ。普通、なかなか捥いで食べんよね。みかん。



TPP(環太平洋連携協定)と農業

TPP。トランス・パシフィック・パートナーシップ。環太平洋戦略的経済連携協定。
なんでもかんでも英語で略すから、東アジアだけでもAPECだのARFだのASEANだのごちゃごちゃになっている。またその一つか、、、と思いながら、日経新聞が毎日TPPについて「はよせんとバスに乗り遅れますよ!」と大慌ての体で書いているのを読んでいる。これは、チリなど四カ国が始めた自由貿易協定を基に、米・豪など計九カ国が協定の拡大・改定について交渉しているものだ。関税撤廃の例外を絞り、貿易自由化の度合いが高い協定を目指すもので、加・韓・中国も関心を示しており、日本も加われば文字通り環太平洋の巨大貿易圏が誕生する。

日本にとっての論点は、要するに「農業保護か、自由貿易による製造業支援か」ということになるのだろう。現状では、管首相は来月の横浜でのAPEC首脳会議で参加表明をするそうだが、政府にも民主党内にもTPPへの反対は非常に強くある。当然ながら、農業団体・農水省は必死になってTPPへの参加表明を阻止しようとしている。全国農業協同組合中央会(JA全中)の茂木会長は、10月28日の記者会見で、TPPへの参加によって、「農業が壊滅し、農業機械といった製造業、運送業など幅広い産業が影響を受け、地方の雇用が失われる」と述べた(http://www.jiji.com/jc/c?g=eco_30&k=2010102800737)。価格競争力のない日本の農産物は、関税の庇護を失えば、海外からの輸入農作物によって圧倒されてしまうという。

これに対して、日経新聞は、TPPへの参加が必要だという立場であり、打撃を受けることがほぼ確実な農業については、「関税による保護から財政による保護」への政策の切り替えで対応し、米などの国際競争力のあるものとそれ以外(たとえばこんにゃく芋や砂糖)を分けて、前者についてはこれまでの減反政策を廃止、後者については追加的財政支出は不可欠と主張している(http://www.nikkei.com/news/editorial/article/g=96958A96889DE3E5E0E0EAE4E5E2E0EBE3E2E0E2E3E28297EAE2E2E2;n=96948D819A938D96E38D8D8D8D8D)。

簡単な事実と対立している意見を羅列したが、俺はこの問題について回答を出せていない。
韓国との比較で考えてみよう。
日本と主要産業がほとんど同じであるお隣韓国は、既に米国・EU(注)という巨大市場とFTA(Free Trade Agreement)を締結済であり(批准はまだ)、東南アジアの多くの国とのFTAはすでに発効している。たとえば、2015年には現代自動車がドイツに輸出する自動車に関税はかからなくなるが、ニッサンの自動車はEUが域外から輸入される自動車に課す10%の関税がかかってくる。韓国自動車産業はまもなく日本よりも100m競争で10mも前からスタートすることになるのだ。ただでさえ労働力が日本より安いのに。韓国のGDPに占める輸出の割合は実に45%。日本は、日経新聞の円高恐怖症のせいでひどく輸出依存度が高いように思われているように思うが、実際は韓国30ポイントも低い15%。韓国が、資源国(韓国は日本と同じ程度の資源輸入国)や新興国(韓国は海外市場がどうしても必要)とのFTAを戦略的に結ぼうとする理由はよく分かる。そもそも、少女時代などのアイドルグループがわざわざ日本語をおぼえて日本でデビューするのは、国内市場が製造業だろうが芸能だろうが小さすぎるからなのだ。それと製造業についても構図は同じなのだ。

では、日本はどうするべきなのだろうか。
農業の競争力強化。生産規模の拡大。海外への生産物の輸出。ぐらいだろうか。
アメリカの27分の1の耕地に、500分の1の牧草地に、アメリカの1.8倍の農家がひしめいている。そしてのその農家は後継ぎがおらずほとんどが60歳以上。
戦後日本=自民党一党支配=地方の土地持ちの支持基盤。
なにやら問題が見え隠れするよなしないような。。。

引き続き考えます。

「農業と製造業」、あるいは「財政と農業」についてご意見をお持ちの方、あるいは読むべき本はこれ!というのがあれば、ぜひ教えてください。
よろしく頼みます。
キーワード:「農業生産性」「食糧安全保障」「個別所得補償制度」「地方の景観維持」「製造拠点の海外移転」「円高」などなど

(注):EU-韓国のFTAでは、米が除外されている。ただし、EUでの米の生産はスペイン・イタリアで細々と行われているだけで、EUにとってはさしたる問題ではなかっただろう。さすがにというべきか、キムチの国はやはりトウガラシもFTAの対照から外している!したたかなるかな、大韓民国。これをして我は「キムチ安全保障」と呼びたい。キムチのない韓国は、廻しをつけない相撲みたいなもんですね。

独り言:

ところで、管首相の口から出てくる、日中間の「戦略的互恵関係」という言葉、恐ろしいほど内容空疎だ。さすがに我が国の首相なので、「阿呆の空念仏だ」と言ってすますわけにはいかん。
人民解放軍海兵隊が尖閣に上陸してきても、「戦略的互恵関係の維持が大切だという点で我々は一致している」とでも言うつもりか?国内政治だろうが国際政治だろうが、ゼロサムの局面があるから政治があるのであって、十分に大気中に存在する酸素をめぐっては「政治」は発生しないし、発生する必要がないのだ。
”国際政治とは、ほかのすべての政治と同じく、希少資源の権威的配分である”(ハンス・モーゲンソー)
日本人よ、戦争はしなくていい(しないといけない)が、戦争をする覚悟を持とう。じゃないとヤクザに脅されて終わりだ。世界におまわりさんはいない。おまわりさんがいないからイラクの10万余(多すぎやしまいか?阪神大震災でさえ犠牲者は1万にはるか及ばぬ)の民は米軍の「誤爆」で殺されたのだ!!!

米国中間選挙がまもなく。茶会党がブイブイ言わせとる。
だが、建国の理念が、「権力への批判=個人主義(銃保持の憲法による保障⇒革命権?)」である国って、そもそもどうなんだろうか???そもそも国家というのは”神話”の上に成立するものだと思う俺からすると、今回改めてあの国の異様さを感じざるをえない。ホッブズが「リヴァイアサン」で書いた怪獣の姿が、これまでのアメリカという国の暴力専横ぶりに重なって見えるのは俺だけか?
まぁ、「俺の税金を博打やって大損こきやがった弩阿呆バンカー野郎に渡してくれるでねぇ!」というサウスダコタ辺りの農家のおっちゃんの叫びは、分からんでもないのだが。(銀行・証券業の方へ:銀行・証券業=博打だと俺は考えてません。一部企業においては、そういう要素もあったのだろうという程度に思っている)

ブログ開始より約5か月。投稿は約100。
これぐらいのペースを維持していこうと思う。