2010年6月19日土曜日

勉強

僕は頭が悪い。
というよりも、恐ろしいほどに要領が悪い。合目的的な活動に僕ほど向いていない人間はいないだろうと確信している。
いや、過去には、夢中になって野球や勉強に取り組んだ時分もあった。しかし、そういう時は、冷静に目的を見据えてその日その日の行うべきをきちんと把握し、実施状況を把握しながらという場合では全然なかった。
子供のころ、朝から釣りを始めて気が付いたら太陽が西に沈んでいた、そういう経験は皆あると思う。
そういう風に野球や勉強をしたことはあるのだが、どうも僕という人間は、現代の時代に求められるような落ち着きや段取りの力を欠いているようだ。
今日も立ち読みをしていると、ある雑誌が「勉強力」という特集をしていた。
だいたいのところ、最近の巷にいう「勉強」とは、ある目的に対して行う合理的な方策を意味している。目的に対して最短路をとって走ることが最善とされている。
だから、勉強によって自分が得られるものがある一定程度まで判然としていなければならない、そういう大前提が存在する。つまり、それ以外は勉強には該当しない。ように感じるのは俺だけか。
もちろん、職務における自分の効用を増大させるために、簿記を勉強することは有意義だろう。
問題は、勉強がひどく浅薄なものに貶められていることだ。
何かを知りたい、真善美を究めたいという欲求こそが、勉強のそもそもの原動力だと思う。哲学だろうが物理学だろうが完全に同じと思う。
僕は、世界に自分が理解できないことがあることが許せない。何も知らぬという危機感がある。だから、本屋と図書館がとりあえず最も時を過ごすのによい場所だ(理解できないことだらけだと観念すると、山に行くのだが、山に行くと何故か全能感に襲われてまた書物が恋しくなる)。
答えのないもの、ありそうにもないことを問いたい。それに意味があるかなんてことは俺の知ったことではないし、知っているならそんなことは最早問わぬ。
俺にとって勉強とは、普遍的に適用して誤ることのない真善美の基準を、自らの経験と違和感のない形式において把握するための行動の総体であると一先ず定義したいと思う。
さはいえども、答えのある勉強もしたほうがいいような気はしている。


独り言:
最近、雨のなかを歩くのが好きである。
傘がないからと雨にぬれるのを嫌って走る男は二流だ。
雨にぬれることがなんだというのだ。
夜の雨にうたれるあの自由な感覚、あれはなんなのだろう。とても自由な感じがある。
雨=傘という方程式は、どこの誰が作ったのか知らぬが、出鱈目なものだ。
野生の動物は傘なぞ知らぬ。

思えば「腹筋をする」ということばは変な言葉だ。
「上腕二頭筋をする」といったら誰も理解しないのに。

通行人の目の前に路上で無遠慮にティッシュを差し出すのも迷惑だが、それを無視して目もあわせずに歩き去るのもどうなのか。僕はティッシュを配る人の目をみて「結構」と言うことにしている。

メキシコ湾が心配だ。
メキシコ湾周辺に暮らす方たちは本当に気の毒だ。故郷が油で汚染されるのは、辛いことだろう。
一刻も早い解決を望む。

EUROはもう少し下がるかもしれぬ。今問われているのはEUROの基礎となった、EUという共同体が存立する基盤が何であるのかということだ。この問題は、単なる金融・財政政策のことではない。後者をEUは持てぬのだが。ドルはどうか。オバマ大統領の2010年までに輸出を2倍にという掛け声にもかかわらず、米国の貿易赤字は拡大し続ける見込みだ。同時に財政赤字も。つまり、ドルが長期的に減価することも避けられないだろう。となると、円?ということにはならぬ。成長余力に欠ける脳は幼稚園児だが体は70歳のアジアの老人国の通貨で資産を持つ人はいないだろう。となると、どの通貨も下がるほかないのではないか?結果、コモディティーが流動性を吸収するということになり、石油をはじめとした資源・エネルギー価格を高騰させ維持するのだろう。
元は中央アジアでは域内決済に使用されだした。アメリカを見れば分かるのだが、日本人一般はもう少し基軸通貨国の特権について考えてみるべきだろう。中国は、真に大国たらんとしている。

2006年の夏、京都で同志社大学のゼミに出させてもらっていた。アメリカ外交がご専門の村田先生のゼミである。ある日のこと、議論をしているとある学生が、「中国が他国のロールモデルになることはない」と述べたので僕は噛み付いた。「フランスやオランダが中国をロールモデルにすることはありえない。しかしベネズエラはどうか?リビアはどうか?イランはどうか?ロシアはどうか?世界は先進国だけで構成されるのではない。中国の、強権的な政府が資源を重点分野に集中投資して安い労働力を武器に輸出を増やすという成長モデルも、独裁的ではあるが世襲というほどひどくもないエリート層による集団指導体制も、アメリカの急進的なやり方についていけない国の指導者には魅力的に映るはずだ」というようなことを述べた。今、その通りになったと思っている。短慮と不勉強は世界を見誤る。
中国は世界を見ている。やがて世界一になることを決めた国だ。日本は「とりあえず貧乏はいややから金持ちになろう!」と頑張ってきたのだが、それ以上のものはなかった。別に「世界帝国になる」という野望がよいものであるかどうかは別として、そこに確固たる意思があるかどうかが重要なのだ。個人だろうか国だろうが同じだ。

やるべきこと:
中国空軍の爆撃機の航続距離とベースロードを調べること。

ブログ開設より約3週間。
なぜにこうも何も考えていないのか、愕然とするばかりだ。

山桜