バンがそうではないように、機能こそが美の本質である。
これが真であるならば、人間ほど美から遠ざけられた存在もなかろう。
我々は、あまりになんでもかんでもできすぎる。それでいて、いざとなれ
ばなにもできぬ。
沖縄はちゅら海水族館の水槽のなかの巨大なマグロがカタパルトから放た
れるように急加速し、どんなスポーツカーよりも俊敏に旋回していくのを
見たとき、俺の胸に来たったのは確かにある種の羨望であった。それは、
機能と美をこの世で最も自然な形で結合しえたものの、強烈な生命の躍動
だった。
海中を猛烈な速度で巡航することのみに特化した巨大なこの魚は、水槽の
なかとは思えぬ圧倒的な存在感を放ち、目を釘付けにされてしまった俺は
しばらくその場を離れることができなかった。
マグロだけではない。トムソンガゼルを追うチーター、完璧な強度と粘着
性を持つ糸でトラップを作り上げる蜘蛛、、、世界がこうも豊かなのは、
狂人じみた一点豪華主義を生存競争の戦いにおいて採用した生物たちがい
るからだ。
俺は人間だから、限界を知っている。このひ弱で脆弱な頭でっかちの猿の
群が、たまに盛大に殺し合いをやりながらもここまで地球を完全に支配し
えているのは、巨大な共同体を形成し、かつ自然に工作を加え、自然を抑
圧し、克服してきたからだ。それを可能にする巨大な脳を獲得したから
だ。
だが、自然から乖離し、自然と我々を二元論的な対立の関係としてしかと
らえなくなったために、人間は何を失ったのだろうか?
「哲学者と狼」を書いた哲学者、マーク・ローランズは、「理由、証拠、
正当化、権限。真に卑猥な動物だけが必要とする概念である」とサラリと
言う。卑猥な動物だそうだ、我々は!
クソガキが大人の複雑な社会に疲弊し、ありもしない理想の自然をでっち
あげて悦に入っとるわ、そういう非難は可成正当だ。
だが、ローランズが言うように、「人間はどんな他の動物よりも優れてい
る」というとき、「具体的に如何なる
点で優れているのか?」を自問したいものだ。我々の多くは、川の水をそ
のまま飲むことも、夏の山でテントなしに眠ることも、山でタンパク質を
自ら得ることも下手くそな、あまりに不完全な、性欲ばかりやたら強い、
狂った猿である。これは実はかなり格好悪いことではないか?我々は山で
は一匹の百足にさえ勝てない。
俺の反ヒューマニズムはなかなかに長い歴史があるものだなぁとふと思い
出した。
相変わらずなんともまとまりのない文章である。
独り言:
まことに人の評価なんぞ人によって、場所によって、時によってあまりに
異なる。その一貫性のなさの一貫性ときたら、恐ろしいほどだ。だから、
人の評価なぞ徹底的に無視するがよい。ただし、自分の内なる声をけして
無視してはならぬ。
ー大マルクスの真似。
消費税を増税して得た金で米国債を買ってはならん。それをする奴を、売
国奴という。
一人の絶対平和主義者が恋人と街を歩いていたら、一人の戦闘的好戦主義
者が恋人を殴らんと突撃してきた。絶対平和主義者は、自身が定めた絶対
の道徳律を守ることを、恋人を守ることよりも優先するべきだろうか?
矢張り、全ての真の平和主義者は戦闘的平和主義者たらざるを得ぬ。なぜ
ならば、真の平和主義者は、平和を単に武力行使の不存在だけではなく、
「公正な」秩序を平和に不可欠の要件として愛するためだ。
いや、狼になればいいのだ。
群に襲いくる外部者は殲滅する、それだけのことだ。
自分の仕事にやりがいを感じることは、生き甲斐につながる。それは尊い
ことだ。だが、朧げな自分の存在を確かなものとするために、その仕事の
意義を勇気を持って問わぬことは、弱きもののすることである。
それは、厚化粧の妻の素顔を見ることを恐れて夜はいつも妻より早く眠り
朝はいつも妻より遅く起きる真面目だがどこか阿呆な亭主のようなもの
だ。
山桜