2010年6月27日日曜日

「日本辺境論」読書メモ

内田樹氏の著作である。よく売れた。

メモ:
日本は主体なき国だ。
「自分は何者か」ではなく、「自分は何者ではないか」という論理でしか自己を規定出来ぬがゆえに、常に自己を確立するための「外部=中心」を必要とする。
そのため、中心を模倣し、それを学ぶことには抜群の能力を発揮する。
(フォードを真似て、やがてそれを超える経営モデルを構築してみせたトヨタ。しかしフォーディズムが日本で生まれたなかったように、IPhoneも日本では誕生しなかった)
しかし、宇宙論的な世界観を持たぬがゆえに、世界を理解するための統一的論理は生まれず、他国を侵略するにも「英米(中心)からの解放」というように、常に「中心」が措定されることになる。

華夷秩序のなかで「周辺」として数世紀を暮らした日本人にとって、「中心」は常に自明のものであったのかもしれぬ。
中心が失われた象徴的な事件が、「眠れる獅子」と言われた大国・清が英国に負けたアヘン戦争であったとすれば、幕末から大東亜戦争にかけての約80年間の日本の歴史は、「中心」としての中華帝国が失われたが故の狼狽であり、自国が「中心」たらんとするぼんやりとした覚悟とそのための一連の行動としてみることができるかもしれない。
なるほど、戦後に新たな「中心」=アメリカを発見し、これに沿い続けた半世紀は、さまざまな問題を抱えながらも、少なくとも物質的には日本人にとって歴史上まれにみる安全で幸福な時代であったのである。

21世紀、「周辺」=日本は、「中心」をいずこに求めるのか。
それとも「中心」=日本となるのか。

山桜