Nietzscheが巷で人気のようだ。本屋でもやたらと多くの本が平積みされている。
ニーチェは、近代主義が世界を覆う時に人間たちが神との決別故に直面せざるを得ない冷たすぎる現実を、誰よりも早く、誰よりも鋭く見通した人物であった。
今年1月の僕の落書き帳に、「ニーチェの永劫回帰と日本人の現世肯定の優しい思想には親和性があるように思えてならない。日本の、とくに江戸時代にみられたような現世肯定的な生き方(それは、以前マックス・ヴェーバーについて書いたときに言及した、”来世のためにべルーフ(天職)を全うする”という生き方と正反対である、だからこそ日本に近代資本主義は誕生しなかった)と、ニーチェの永劫回帰の思想は、近代主義を超克するために必要ななにかを備えているように思える」と書いている。
どういうことか。
ニーチェの永劫回帰とは、端的に言えばこうなるだろう。
「すべてのものは終わりもなく始まりもない(”歴史の終わり”なんてものはない!というF.フクヤマへの批判になる)。すべては平等に無価値である。その始まりも終わりもない”永劫回帰”の虚無から、運命愛に至り、無から新たな価値を創造し、確立するもの、それが超人である」
この理屈でいえば、ヘーゲル的な近代主義の大前提=弁証法は無意味となる。というより、弁証法への批判・攻撃に至らざるを得ない。なぜなら、歴史を弁証法的世界観でふりかえるならば、マルクスだろうがF.フクヤマだろうが、「歴史は一定の法則に従って動いており、ひとつの単線的な経緯を辿っている」というふうに理解するからである。たとえば我々が、「先進国、途上国」というとき、すべての国は、「野蛮・未開⇒経済成長⇒先進国(&民主主義)」の順に時代を下るということが無意識的にではあっても想定されている。
近代というものは、基本的に歴史をそのようにのみ理解してきた時代だ。誰だったか忘れてしまったが、こんな言葉がある。「今の時代を、過去と区別して”近代”と呼び、過去を古代と呼ぶことほど、近代人の傲慢を示しているものはない」。
つまり、我々近代人は、世界は一直線に進むと考え、その線の先端に自分たちが生きており、その時代は過去より徐々に、社会に存在する矛盾を止揚するかたちで「進歩」してきた最終の形態にあると考えているのだ。
ニーチェは、そんなことを考えてはいない。
すべてはぐるぐる回り続ける無価値の時間の連続なのだ。今のこの瞬間と、100年前の瞬間に違いはない。
キリスト教の千年王国の思想や、個人の死後の救済を、頭ごなしに否定し、ついには「神は死んだ」と宣告したのが超・近代主義者、ニーチェであった。
では、なぜ今ニーチェが持て囃されるのだろうか。
思うに、それは環境問題に由来するように思う。
昨今の地球温暖化に象徴される環境問題全般は、近代主義の産業の方面における偉大な達成というものが、地球という有限のステージの限界のために、これ以上継続することができないのではないか?という疑問を知識人のみならず我々一般人にも投げかけていると思われる。
もちろん、資本主義の枠内で、例えば水素自動車や超高効率なソーラー発電等によって、我々は環境破壊の桎梏を乗り越えられるという楽観も一部にはある。しかし、それでも、これまでにないほど我々は「大量生産・大量消費」に駆動される”成長”に依存した経済社会モデルを、単純には信じられなくなっている。
現在の日本を覆う閉塞感も、部分的にはこれによって説明されよう。なぜなら、日本は明治維新以来、誰よりも忠実で熱心な、西欧が生んだ近代主義の生徒であった。この事実は、大東亜戦争の前後を問わない。いやむしろ、戦後の経済成長の時代のほうが、日本的なものをかなぐり捨てて必死に西欧に右倣えをしてきた。
「すべての国が、アメリカになり、日本になれば、みな豊かになる、世界は平和になる」という楽観主義は終わりつつあるのだ。
ニーチェは環境問題を見たわけではなかったが、やがて近代主義が到着するであろうこのボトルネックを知悉していたのだろう。それが、環境問題という形で顕在化したのだ。
そして、我々はいまこう自身に問うのだ。
「極限まで地理的にも規模的にも拡大した資本主義の時代のあとに我々が生きる時代はどんな時代なのだろうか」と。こうして、我々は初めて近代というものを相対化することができるようになる。つまり、「近代」はその絶対的な地位をはがれ、古代・中世と同列の、「ひとつの時代」として認識される。その時代とは、別のある時代と意味においてなんら異なることのない、のっぺりとした時代である。近代は、もはやぐるぐる回る観覧車につけられたひとつのゴンドラに過ぎない。つまり、我々の近代は、遂にニーチェの「永劫回帰」に到達してしまったのだ!!!
このように理解するならば、渋谷の本屋にニーチェが平積みされている理由がわかる。
時代は、ーーー不幸にもーーーニーチェを読まずして理解できないところまで来ているのだろう。
いや、単にニーチェの言葉がかっこういいから売れているのかもしれぬ。
だが、僕はこのように考えた。
日本のことについては、また後ほど書きたいと思う。だがなんとなく想像がつくだろう。
山桜