2010年9月30日木曜日

圧倒的な散歩-暇人乃思索的散歩私論

思索しない哲学者がいないように、散歩しない哲学者もいない。
と、思いながら京都の街をいつもふらふら歩いていた。
散歩ぐらいせにゃ思想家にはなれんわ、と一人思いながらのことである。笑わば笑え。

まぁ、全然圧倒的でもなんでもないんじゃが。

京都時代は、いつも白のTokyoBike(http://www.tokyobike.com/shoppin.html)か、オレンジのチビチャリで自分の部屋と吉田にあったひどく居心地のよい自習室を往復していた。
京都は、言うまでもなく日本有数の観光地だ。これから秋が深まり紅葉の季節ともなれば、清水寺や嵐山などの紅葉の名所はとんでもない数の人でごった返す。東大路通りは京都近郊からやってきた県外ナンバーの車とタクシー、バスで大渋滞だ。こういう時に百万遍から206号に乗って京都駅に向かうと最悪なのである。

そういう街に暮らしていたわけで、当然ながらのこのこいろいろなところにいったーと言いたいところだが、そうでもない。同じような散歩コースをいつも一人でてくてくと歩いていた。
百万弁から白川方面に抜けて、哲学の道を下る、或いは白川まで行かずに吉田山に登って頂上近くにある公園の懸垂用の鉄棒で懸垂をしてから吉田神社の方に降りてくる。水辺に行きたければ哲学の道とは反対の方向に500mほど歩けば、出町柳の通称”デルタ”(賀茂川と高野側が合流する三角州)に出られる。
特に哲学の道は、西田幾多郎だけではなく彼とともにかつて京都学派の思想家たちもふらふら散歩をしたという道だけあって、観光客が消えて暗くなり始めた冬の夕方などは最高だ。孤独を感じるためにこんな素晴らしい場所はないだろうと思う。川崎のこの30年ほどの“歴史”しかしかない街で過ごす休日の夕方、何度「あぁ、下賀茂神社の参道を歩きたい。。。」と思ったことか。下賀茂神社の参道は俺の通学路であった。あの400mくらいの、鬱蒼とした森に囲まれた参道だ。

ある初秋のLong Walkの行程はこんな具合。

朝最初の講義があって、次の講義が3時からというような日。
11時から財布と三色ペンだけを持って(携帯はいりません)、百万遍⇒出町柳⇒鴨川を三条大橋までに一気に南下!⇒(11時40分)四条河原町のBALの六階より上に入っているジュンク堂で新刊を探し、その後数件の古本屋で古本を漁る⇒(12時30分)BALから少し北へ上がった六曜社(http://r.tabelog.com/kyoto/A2602/A260202/26000159/)でしばし珈琲を飲みつつ朝日と産経に「左翼かこのやろー」「右翼かこのやろー」と突っ込みながら読む⇒(13時30分)はるか遠くに北山連山、そこから右に霊峰比叡を眺めつつ南下したときの反対側(西岸)を北上、たまに河畔に座ったり寝転がったりしたり読書したり⇒荒神口(すごい地名だ)あたりで川端通りを渡って東大路通へ、さらに北上してルネ(カフェテリア)で1500kcalの遅めの昼食(1440)⇒いざ、講義へ。

あぁ、なんと甘美な時間だったことだろう。
こうやって自分で書いてみると、本当に贅沢だ。
九段下から丸の内まで歩いて、オアゾの丸善で本を買って皇居を散策しながら戻るーというルートでは、あぁまで楽しくはなかっただろうな。

散歩の本質:

①行く先は決めるるべからず
②人とともに歩くべからず
③はるか遠くを見ながら、たまに足元の草を見やりながら歩くべし
④風が吹き、緑が葉を鳴らす場所が最適なるものと心得よ
⑤本とペンを忘るるべからず
⑥多少の空腹感を大切にせよー散歩前の食事は避けるべし
⑦二本脚で歩くべからず、常に脊柱をコアとして意識しつつ、四本脚で闊歩するべし
⑧街の変化に気を配るべし
⑨風が身体を吹き抜けていくかの如く歩くべし
⑩臍下丹田から生えた両足が地球を鷲掴みにする意識を持ち続けるべし


2010年9月29日水曜日

頭は尖閣尖閣尖閣。。。あぁなんとも疲れる日々よ

正道を踏み、国を以て斃るるの精神なくば、外国交際は全かるべからず。彼の強大に萎縮し、円滑を主として、曲げて彼の意に順従するときは、軽侮を招き、好親却って破れ、終に彼の制を受くるに至らん。」
「国の凌辱せらるるに当たりては、たとえ国をもって斃れるとも、正道を踏み、義を盡くすは政府の本務なり。 ・・・血の出るところにのぞめば、頭を一所に集め、ただ目前の康安を謀るのみ、戦の一字を恐れ、政府の本務を墜しなば、商法支配所と申すものにて更に政府にはあらざるなり。」

ー大西郷

さは云えども、

”Keep your friend close, but your enemy closer".
(友は近くに、敵はさらに近くに)

はあるべき真実だろう。

我々日本人は、このヤクザ国家の台頭を一つの機会として捉えたい。
強大な敵ほど我々を一致団結させるものはないのだから。
戦争の真っ最中においては、生きるか死ぬかの瀬戸際においては、格差社会なんて言っている場合ではないのだから。
まぁしかし、中国と日本が戦争をするといっても、かつてのような総力戦にはならないと思う。
核ミサイルを政令都市総てに打ち込むぞというブラフ一つで我が国はハンズアップだ。

だから、だから、だから。
核兵器を日本は持たなくていいのですか???議論さえしなくてもいいのですか???
と俺は小さな声で10年前から言い続けてきた。そろそろ、市民権を得てもいい主張じゃないでしょうか。だってみんな核兵器国のイギリスにいってアフタヌーン・ティーを楽しんで、パリのシャンゼリゼを散歩してるんだから。
「日本は世界で唯一の被爆国だから絶対にだめだ」という人は、ある村でたった一人の狼に襲われたことがある少年に、「君は村で唯一の狼アタックの被害者だから、鉄砲を持って山に入ってはいかんよ」というのと同じくらい目茶苦茶な論理でしゃべっていることを理解してほしいと思う。
俺はどうしても理解できないのだ。「①日本は唯一の被爆国である⇒だから⇒②核兵器はだめ」というのが。①だから②というのではなくて、「①だから③最高限度の核武装によって核抑止力を維持しよう」、という論理だってありうるだろう。
そういう頭の柔軟性のなさというのは、本当に鬼畜米英を平和主義に代えて暴走しているこの国の頼りない外交・安保政策の根本的原因であると思う。

Armとは腕だ。恋人や娘を抱くことができる。
だが、Armとは武器だ。人を殺めるものだ。
俺は、自分という存在が、自分のこの腕が、最も高貴に振る舞うときでさえ、他者に対して脅威であり得ること、核兵器と本質的には変わらない武力であることを十分に受け入れようと思う。
我々はそういう罪を背負った存在なのだ。そうであればこそ、優しいArmに触れたときに、我々は心を震わせて感動し、心から優しくなれる。
だが銘記せよ。人間をして数万年に渡って戦わせしめたところのものは、まさにその「優しいArm」なのだという現実を!!!
俺は、、、俺のお婆ちゃんや母親を攻撃するどんな主体も、小学生が蟻を踏みつぶすように殺すと思う。その時の俺のArmは、どちらのArmなのだ。それは渾然一体として分離不可能だ。子熊を守るために敵と戦う羆の母ちゃんは、凶暴なのか?優しいのか?恐ろしいのか?慈悲深いのか?
この矛盾から目を背けるな。それは命からの逃避なのだ。人間が人間から逃避しては世界は動きはしない。

2010年9月25日土曜日

国防?亡国?

国を守るというと、たいていこういう問いをされるのがオチだった。過去数年間ずっと。

「誰が攻めてくるの?誰が侵略してくるの?」

将来誰が侵略してくるかを論証する責任が、自主防衛を主張する者の方にあって、国防の必要を疑うものには将来にわたって我が国への侵略や不法な攻撃な発生せぬことを論証する責任はないと戦後日本ではされているために、こういうバカげた問いが可能になる。本当に馬鹿げていると思う。鍵をかけて家族旅行に出かけようとする夫に、妻が、「誰が泥棒に入るの?どこのだれが何時に私たちの家の何を盗るために泥棒しに来るの?」と尋ねるようなものだ。
そうであればこそ、国会で武力攻撃事態対処法についての議論をしているときに、阿呆な野党議員が「もしやどこかの国を仮想敵国としているのですか?」などと戯言を叫ぶのだ。
かつてS.W.S.チャーチルは、「Sir、 大英帝国の仮想敵国はどの国ですか?」と尋ねられて、「英国以外のすべてだ」と答えた。今回の一件で、「中華人民共和国が敵性国家であるかどうか、仮想敵国とすべきかどうか」についての巷の議論は終結する。かの共産党独裁の国は、どう評価しても拡張的傾向を持った時代遅れの覇権主義国である。

日本は、もはや独立国、一等国たるの地位を失った。
2010年9月24日は、我が国の歴史における屈辱の一日である。聖徳太子が隋に小野妹子を遣って、「日出づる処の天使、書を日没する処の天子に致す....」と書いたとき、我が国は初めて華夷秩序から脱し、亜細亜大陸の東のはずれの島国は独立国家としての最も枢要な要件を備えるに至ったのであるが、それから15世紀を経て、日本人は再びシナに朝貢する民になろうとしている。
独立国たるの最重要の要件とは、特定の領域を完全に支配しているということだ。この場合の支配とは、法律学的に言えば、実効的な法律執行(警察、検察による)が完全に行われることをいう。
我々は、「領土問題が存在しない(前原外相)」はずの、我々日本国独自の領海に不法に侵入し、あろうことか海上保安庁の巡視船に体当たりを敢行した中華人民共和国の人民を、日本国の法律で裁くことを得なかった。しかも、政府は、「検察の判断であり政府の介入はない」などと欺瞞を言う。もはや、政府の体をなしていない。

どこからか聞こえてきそうである。

「あんな南のリゾート地でもなんでもない島(ヤギさんしかいません)は中国にあげればいいじゃない(石油がたっぷりあるんですが)」

然り、まぁそれもよいと100,000,000歩譲るとしよう。しかし、中華人民共和国には既に「沖縄は中国の領土だ」という声が出始めて久しい。軍の高官さえそう主張している場合もある。中華人民共和国の西太平洋への進出は、政治的意思というよりも、冬眠前の熊が餌をあさる本能のようなものだと理解したほうがよいと思う。国家は、個人の集まりである以上に、それ自体として動く内在的論理・駆動力を宿している。13億の民だけだった国が、新たに経済力と軍事力を手に入れた時、新たな領土や領海(実効的に支配できる海洋)を求めて拡張することは、当たり前のことなのだ。その意味で、俺はなにも中国が悪い国だなどとは全然思わない。主権国家として、自国の民がより豊かに暮らせるように、他国の国益を無視しながらやるべきことをやっているだけなのだ。当然ながら、これは我が国は過去において行ったことだ。

敢えて俺は今読者諸氏に問いたい。
我が国は、北朝鮮、ロシア、中国、アメリカという四つの核兵器国に囲まれている(=四つの国が東京上空で核爆弾を炸裂させることで数百万の我々を殺し、都市を壊滅させる力を実際に保有している)。我が国周辺では、中国・韓国は言うに及ばず、ベトナム・マレーシア・インドネシア・台湾、総ての国が軍事力の近代化・増強に邁進している。
かかる戦略的状況においては、我々はどのような道を採るべきなのか。
陸軍15万、空軍5万、海軍5万の人員に、GDPの1%に満たぬ4兆5千億円の国防費で、独立国として確固たる地位を国際社会において占めながら、かつ国益を保守していけるのか。

平和主義だの世界平和だのと寝言をほざいておられる時代はようやく終わった。ペリーが江戸幕府や志士たちを目覚めさせたように、今回の中華人民共和国による我が国主権の侵害とその後の傲慢すぎる対応を見て、我々が今目を覚まさないならば、日本はもはや日本海溝に深く沈んでいくしかない。
かつて中華人民共和国の李鵬は、日本に滞在中の1990年に、「20年後には、日本などという国はこの地上から存在しなくなっているだろう」と言ったのだが、今年2010年がその20年後である。主権を失い中国にもアメリカにも従属する我が国であっていいのか。我々はそのような国のなかで、つまり国家として他国に媚び諂いながら繁栄を求めることが我々日本人の理想であるのか。

やがて日本という島だけが残り、巨大企業も英語と中国語を公用語として残るだろう。
だが、そこに暮らす人々は、俺が知る日本人では最早ありえない。そんな時代にまで生きていたいと思うほど俺は生きていることが好きではない。

俺は、脂肪で豊かに肥え太った豚であるよりも、痩せこけた、誇り高き兵士の死体であることを望む。

2010年9月23日木曜日

独り言

さっき河北省で日本人四人が中国当局に拘束されたというニュースが入った。
報復である。
米軍はグアムに36時間滞空可能な無人偵察機をGuamのアンダーセン空軍基地に、B52 爆撃機を三沢基地に展開させた。
示威である。
あぁ、これからは「人間の安全保障」だ、などという主張に幾分かの正当性が認められるかに思われた時代がはるか昔のことのようだ。この東アジアの非常に微妙な国際関係は、均衡を失えば破滅する小さな可能性を秘めている。
恐らくは、現在の尖閣諸島をめぐる問題で弾丸・ミサイルが飛ぶことはないように思うが、中国国内の不動産バブルがはじけ、成長率が3%ほどに停滞し、国内の秩序が動揺するような事態になれば、北京は外部への実力行使、或いはそのための挑発によって国内を統一しようとするだろう。
今この瞬間にも、海上保安庁の隊員は、ヘルメットをかぶって海上の巡視船の上にあるだろう。それは、恐るべき緊張を伴う仕事に違いない。彼らの日々の任務遂行に敬意を表し、二国関係にこれ以上の不足の事態が起きぬことを祈る。
ジョセフ・ナイ流のリベラリズムの時代は終わった。それは、所詮冷戦終結直後の特殊な国際関係の状況を記述したのみだったというと言い過ぎだろうか。これからは、E.H.Carr やKissingerが再度評価されることになるだろう。国際関係を規定するもの、それは実力=軍事力を筆頭とする、他者に対して行使しうる有形力。
中国と日本の間の最悪の事態を想定することは何よりも大切だ。
そして、そのためには中国の対外行動の源泉を注意深く読み解く努力を必死に行わねばならない。
銘記せよ。第一次世界大戦を惹起した直接の原因は、オーストリア・ハンガリー帝国のフランツ・フェルディナンド皇太子を襲った一人の青年が放った小さな弾丸であったことを。

今朝の朝日新聞朝刊に、企業が生産拠点を海外に移転するから日本から仕事が飛んでいく!という不安げな労働者の声を代弁するぞ!という意気込みを感じさせる記事があった。
はて。
朝日新聞はこういえばよいのだ。
「日本の労働者諸君、こんな腐りきった国にも国内で仕事を維持することにも関心がなく円高になればさっさと工場を海外に移転してしまう企業にも頼る必要は全然ない。諸君は『世界市民』なのだから、日本で暮らすことにこだわる必要は全然ない。諸君が受けた高度な教育と勤勉、特に製造業における諸君の豊富な経験は新興経済国では高く評価されるだろう。人口が減少し、あとは衰退するのみの日本に、コロコロ首相が変わることが『政治』となってしまったこの日本に、なぜ諸君は愛着を持って暮らし続けようとするのか。モノとカネだけがやすやすと国境を超える時代に、ヒトだけが国境に拘泥していてはだめなのだ。世界市民諸君、君たちは日本を捨て、新たな世界で豊かな生活を始めるのだ。」
まことに我々労働者だけが資本とモノに従属している。
本来これらは、我々が生みだしたもの、我々が支配するべきはずのものであったのに、である。

ANAの新しいテレビCM。「鍛えた翼は、強い」。
最近「JAL 腐った翼」という本が出版されたから、余計当てつけに聞こえますな。
それにしても、AsiaAirの参入でクアラルンプールに5000円で行ける時代に、大手航空会社が東京から博多へ飛ぶ便に25000円を請求し続けることは難しいだろう。やがて国内線にもLCAが参入してくるだろう。

ロンドンから帰国して、まず最初に納豆山菜ソバを食べた。翌日は、箱根の天山温泉湯治郷(http://tenzan.jp/tenzan/)にじっくり浸かった。
ロンドンは好きだが、温泉がないしバスタブも浅すぎる。
よくシャワーだけで人生を生きていけるものだなぁと、源泉かけ流しの湯に身を浸しながらふと不思議に思った。そう思うと、このモンスーンのジメジメの湿気も、温泉という酒の肴なのかもしれぬ。

最近ろくに勉強をしていない。語学、歴史、経済。10月末までに15冊を目標にじっくりと取り組もうと思う。
賀茂川に本を読むためだけに行きたいなぁと思う今日この頃である。あのあたりは観光客も少ないし。散歩と読書と思索。そして賀茂川の風。
俺はビジネスマンとしてのこの時間を、将来の俺のための肥しにせねばならんと思う。
今日買った本。
・船橋洋一「新世界 国々の興亡」朝日新書
・新谷忠彦「ゼニオロジー支配社会」幻冬舎ルネッサンス
・西原正他編「軍事大国化するインド」亜紀書房



2010年9月17日金曜日

London!

今週の日曜日から丁度一週間、大英帝国はロンドンに滞在している。

三年ぶりのロンドンですが、相変わらず「あいかんと(I can't)」とか「おふとぅん(often)」とかいうBritish English (ロンドンだからEnglish English?)は良く聞き取れない。

Buchingham Palaceから徒歩2分ほどのホテルなので、BigBenやThames川までは徒歩で10分だし、Palaceを取り囲むGreen ParkやSt.James Parkもすぐ近く。偉大なる提督ネルソンがおわすTrafalgar広場までは徒歩15分。

というわけで、朝早く起き出して、面談や聞かないといけないプレゼン(カンファレンスなので)の前に、徒歩でこの辺りを歩きまわるわけだ。本当に散歩をするには良い街で、あっという間に4kmほどすたこらさっさと歩けてしまう。しかも9月のこの時期は涼しいので、ジャケットを羽織っていても汗をかかない。公園のベンチで飲む珈琲がちょうど温かくてよい塩梅。リスはかわいいんだが、四つんばいで地を走る姿がどうにも不細工で可笑しい。ペリカンはでかすぎて怖いからこっち来るな。

ホテルの前にデーンととめられたJagurの最新のXJ。スポーツセダン好きから言わせてもらうと、今現在世界で最も美しいセダンだと思う。優雅なのに野蛮かつ攻撃的。紳士的でありながら、非常にBattle Readyなこの感じ。Jagurのデザイナーは素晴らしい仕事をしたと思う。



騎兵の皆さん。Palaceのすぐ隣にはFirst Battalion( http://www.army.mod.uk/infantry/regiments/6306.aspx)が駐屯していて、恐らく女王陛下をお守りする近衛兵なんでしょうね。この騎兵さんもそうだと思う。 近衛兵という言葉もなかなか理解されない時代になりましたなぁ。
この人たち(馬たち)、道路のど真ん中を祭りでもないのに悠然と闊歩しておりまして、車が道路の端を「お邪魔してすいません」という感じで走り去る。なかなかうらやましい光景である。


昨日よるは、競合するウラン・トレーダーさんがThamesに浮かぶ船に皆(200人くらい?)を招待して、Cocktail Cruise。名前だけ聞くと、岡山の田舎もんになにをさせるんじゃいと言いたくもなるのだが、まぁそこは小さな業界のおじちゃんおばちゃんたちですから、仲良くシャンパンを飲みながら小さく揺れるボートでにぎやかにお話をしとられました。ところが残念ながら、離岸した船の写真をとっているように、チームでの夕食が予定されていたのでCruise前に俺は下船。残念。。。



船から眺めた夕暮れのBig Ben。


写真集でした~
写真の勉強をしよう。

2010年9月12日日曜日

Corvette!!

京都時代の友人、稲葉氏の愛車。深夜の丸の内にて。
氏曰く、「妻のものです」。
丸の内でローストチキンを食べているところに、6.2L・V8のエンジン音を轟かせながら登場した。
5000回転くらいまで吹かしたときの爆音は、戦闘機を連想させるような重低音で、「特別な車に乗っている」(まぁこの異形のフォルムからして特別な車なんだが)感はぷんぷんです。
東京都内で左ハンドルのMTを乗り回すこの夫婦、タダものじゃあない。
車のパワーでは我が愛機はCorvetteには到底かなわないので、Driverが身体を鍛えるしかない。

しかし、我が愛機BMW E90 320i M-Sportsよ。
俺は四人乗車の登坂ではべた踏みでも国産3L車に抜いていかれる貴様を何よりも頼りにしとるからね。
これからも日本中を一緒に走り回ろうな。


2010年9月8日水曜日

まわる~ま~わる~よ時代~はまわる~♪

 

経済的格差

ナショナリズム

日本の外交/安保政策

世界の趨勢

江戸時代

大(士農工商)

なし(国=藩)

鎖国(出島のみ)

帝国主義

明治~昭和30年頃

大(貴族制度)

強固(Ex. 教育勅語)

開国、やがて帝国主義

帝国主義

昭和30年頃~1990

小(一億総中流)

経済ナショナリズム

帝国主義、やがて平和主義・日米同盟

冷戦

1990年~現在

中(格差拡大)

弱(自信喪失)

日米同盟の地域的拡大

パクス・アメリカーナ

現在~

大(階層固定化)

なし(原子的個人主義)

基軸なし?(「東アジア共同体」?)

新帝国主義


問題は、「現在~」の時代に、ナショナリズムなき時代に新帝国主義の時代を日本は生きていかねばならんということだ。
江戸時代は、世界は帝国主義だったが日本は海に守られて、鎖国体制のなかで豊かな文化圏を築いた。
明治~の時代には、ついに日本にまで到達した帝国主義に抵抗するために、否応なくナショナリズムを醸成し、先進帝国主義国に倣った。
戦後の時代は、軍事的・政治的なナショナリズムを放棄したが、冷戦構造という時代の枠組みのために、アメリカの核と第7艦隊の力に保護された。
バブル崩壊後の時代は、長き冷戦構造が崩壊し、同盟国が唯一の超大国として世界を制覇し、米国流の資本主義経済が世界を覆いつつあった。日本の”安保ただ乗り”はもはや許されず、湾岸戦争での機雷処理を始め、自衛隊の活動はさらに地域的に拡大した。
そして、将来においては、米国は唯一の超大国(=圧倒的な政治力・経済力・軍事力を背景に他国を無視して行動できる国)ではなくなり、世界は多極化する。世界は保護主義・新帝国主義の時代を迎えるが、日本は脱ナショナリズムのポスト・モダンというべき国内政治大混乱と人口減少・経済規模減衰の衰亡期を迎える。
しかし、こう考えると、帝国主義が世界の常態なんじゃなかろうか、と思う

ナショナリズムという刃を持たず、大荒れの嵐の海のような新帝国主義の海にこぎ出す(こぎださずとも既に海のなか)日本という船に、船頭はいるか。針路を示すコンパスはあるか。海図はあるか。

いろいろ

サンデル教授の哲学講義は特別でもなんでもない by 冷泉彰彦
http://www.newsweekjapan.jp/reizei/2010/09/post-193.php

日本を殺すスキャンダル狂い by 横田孝
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20100907-00000302-newsweek-bus_all

軍拡を進める中国、日本はどう対応すべきか (大前研一)
http://www.nikkeibp.co.jp/article/column/20100831/243833/
 
三菱商事 ”今こそ水のマネジメントを”
http://special.nikkeibp.co.jp/ts/article/a00h/106148/


Bill Gates' Nuclear Energy Baby (Financial Times)
 


ゲイツ、原発挑戦の真相 (日経)
 
 

2010年9月7日火曜日

「自国中心主義=軍拡」ではない!

シュペングラーが、欧州を壊滅させた第一次世界大戦の終わった年に「西欧の没落」という問題作を発表してから92年が経った。金融経済危機に直面して、民間部門の負債を政府が肩代わりしたり政府による補助で需要を先食いしたり公共投資を増大したりすることで、世界経済は2009年の中頃には早くも回復基調にあった。新興国の需要は底堅く、失速した米国消費を補うかという楽観論も現れた。
だが、2010年を迎えてから世界を瞠目させたのは、民間部門を救う代わりに赤字まみれになったあまりに多くの国々の目も当てられぬバランスシートであった。

このことの経済学的なインプリケーションは、緊縮財政による公共投資の削減や自国通貨の実質的切り下げによる輸出増加の必要性などである。つまり、民間部門と違って政府は誰にも頼ることができないため、最終的なゼロサムの局面では他国に痛みを強いて自国の国力回復を計る。
ソフトな帝国主義の時代である。
近隣窮乏政策といってもよい。

では、この過大な財政赤字という問題が持つ軍事・安全保障上の意味とはなんであるか。

”軍縮”

本日付の日経朝刊によると、ブッシュ政権の二つの戦争などによる八年間で二倍にまで膨れ上がった米国の国防費は、現在の7000億ドルから今後5年間で1000億ドル削減される見込みだ。実に日本国の国防予算の2倍に匹敵する額を削減するそうな。750機の生産が予定された第五世代の最新鋭戦闘機F-22(Raptor)の生産は、187機で終了する。イギリスは、二隻の正規空母の建造を数年間延期し、今後五年間で国防費を10〜20パーセント削減する。イギリスは、アメリカに次ぐ兵力をアフガンに展開している国である。ドイツは4年以内に連邦軍25万人のうち約9万人を削減する。ポルトガルにいたっては国防費を3年以内に4割削減する。

これまでの150年間、帝国主義の先兵として、また後には信託委任統治や国連平和維持軍として文字通り世界中に軍事力を展開してきた欧米の大国が、次第に財政上の必要に迫られてますます内向きになることは避けられぬことであるように思う。
19世紀中ごろから世界に覇を唱えた大英帝国は、20世紀を迎えるころ、まず南北アメリカをアメリカの勢力圏として譲渡し、東アジアを日本に任せることでロシアの極東進出を抑止し、そして欧州においては屹立する陸軍大国ドイツを封じ込めるために栄光ある孤立を捨ててフランスと同盟を結び、けっして自ら望まぬ形で血生臭い大陸の勢力均衡に飲み込まれた。
だが、当時はまだ今からみれば比較的よい時代だったのかもしれない。勢力圏を譲渡す相手がいたからだ。米国がイラクから戦闘軍を完全に撤退させた後のイラク国内で、シーア派のイラン、長大な国境をイラクと接するサウジアラビア、クルド人にいつもイライラしているトルコなどが、どのような権謀術策を用いて争うのか。東アジア、西太平洋から米軍がやがて撤退、あるいはこの地での軍事力を縮小するとき、この広大な海洋を勢力圏とするのは誰なのか。

重大な問題は、安全保障政策が、外向的な戦略観ではなくて、財政上の制約によって規定されてしまっていることだ。もちろん、軍事力は金がかかるものである以上、財政規律を無視した安全保障政策など固よりあり得ない。
だが、今我々が目にし ているのは、世界に目を向ける余裕をなくし消極的な自国中心主義という小さな殻に閉じこもろうとする大国の姿である。

もっとも、日本は戦後65年間ひたすらそういう国であり続けたのだが。

2010年9月5日日曜日

かつて親父は子供であった

見たことはないが、貴様の両親も俺の両親も、かつては丸坊主におかっぱの子供であった。
俺がひたすら眠る(たまには起きましょう!)我が姪を見つめた時に我が脳裏に来たったのは、かかる単純な事実であった。
命は大河の流れのように連綿と悠久の時のなかを流れ行く。命というものを歴史的俯瞰の視点から眺める時、最早「俺の命、俺の人生」という言葉に意味はない。俺の命は、ご先祖から与えられたという意味で過去の人々に属し、子孫に対する責任という意味で将来の世代のものでもある。俺の命は俺以外の者たちのものであり、俺という存在は大河を流れる水の一滴に過ぎぬ。
しかし、それは意思によって武装した一滴の水である。その意思は、奴一人のものではなく、歴史をその内部に閉じ込めて青く輝く光である。
先祖とは敬意によって、子孫とは慈愛によって接続されるとき、我々の人生は物語を手に入れる。
それは、車にとってのガソリンの如く、我々の人生を熱して駆動するものである。与えられた燃料でどれだけ先まで走ってみせるのか。足回りを固めてエンジンを一万回転まで回す準備を怠るな。

2010年9月4日土曜日

遅ればせながらのMichael J. Sandel「これからの正義の話をしよう」



さて、大人気のサンデルさんである。
いまだに東京都内のどこの本屋にいっても店の入り口に平積みにされている。まぁここまで売れるのも日本人の右に倣え傾向のなせる業ではあるのでしょう。

マイケル・サンデルは、1953年生まれで現在ハーバード大学教授。オックスフォード大学にて博士号を取得した。専門は政治哲学である。政治哲学という場合、特に断りがなければ政治思想と同一視して問題ないと思う。
NHKの「ハーバード熱血教室」という番組でも放送された彼の「Justice(正義論)」の講義がハーバード大学で大人気になり、開学数百年を経て初めての一般公開講座にされてしまったという、ごくまれに経済学者では出てくるが政治学や哲学では非常に少ない、“スター学者”である(日本でだけかもしれぬが)。

この本の内容は、功利主義、自由至上主義、市場、カント、ロールズ、アファーマティヴ・アクション、アリストテレスなどの、大学で政治思想の講義なりゼミなりをとればどれも必ず読まされることになる主題ばかりで、それらに目新しさは特にない。
この著書が独特なのは、我々が日常生活において直面する、あるいは経験する可能性のある問題を具体的に列挙してそれにカントとかアリストテレスを引っ張りながら解釈を行っている点だ。

例えば、功利主義(最大多数の最大幸福が「正しい」とする政治思想における一大勢力。ジェレミー・ベンサムに源流をたどることができるが、小学生でも思いつく考え方だろう)はついて説明した第2章では、19世紀末のイギリス人船乗りの漂流時の“人食い”の話が語られる。一人を殺して食べることでほかの三人が命を長らえたという話。その前の章では「あなたが電車の運転士だったら5人を助けるために1人を殺しますか?それとも1人を助けるために5人を殺しますか?」などなど。。。どれもこれも明日わが身に起きる確率は高くはないが、現実的に十分起こりえる(世の人すべてにという意味ではない)事態であるだけに、「麻布の価値はこの場合ー云々」の資本論などよりよっぽど読みやすい。なんというか、俗人化された哲学書とでもいえましょうか。
思想的な深さはないし、政治哲学に新たな何かを持ちこんだという点も全くなく、その意味では凡庸な本だ。それもそのはずで、基本的には大学学部生向けの講義が元なのだから。
ただし、哲学書でありながら、一般人にも「読ませる」本である。

で、俺の読後の印象および批判。

著者の主張は明確である。
個人はすべて社会=コミュニティに埋め込まれており、社会が保蔵する「物語」にその価値観は依拠していると考えるのがサンデルだ。ある意味で保守主義的ではあるが、本書のほとんどの部分は功利主義や自由至上主義の批判に充てられており、サンデルが言う「共通善」がなんであるのかはどうしても判然としない。「あるだろう!たぶん!ほらどこかに!」、そういう感じなのだ。

俺は、この本の部分部分で「我々の身の周りには哲学的な事柄がたくさんあるのです。それらについて考えることが大切です」という暗喩を看取してしまう。そこにどうしても価値相対主義者の本質を見出さざるを得ない。
この時代に、「価値相対主義(何が正しくて何が悪いかなんてことは決められない。すべては相対的だーという考え方)はだめだ」ということは、すなわち「絶対的な価値がある!」と主張することに等しい。絶対の価値。そんなものは、絶対的に存在しない、そういう精神の構えを常とするのが21世紀のこの「豊穣」の日本を生きる多くの民ときている。
だが、俺は、価値相対主義を一つの思想として認めようという気にどうしてもなれない。
例えば、「国民の3%が飢え死にしても97%が豊かに暮らせればいい」(=功利主義)とか、「その人の内臓は彼自身のものだから、彼がそれを市場で3000万円で売ったって問題ではない」(=自由市場主義)とかいう主張に対して、「なるほどそういう考え方もあるよね」などと言っていては何も決まらんではないか!
我々が生きているのは、常に臨界的な状況における決断を迫られる現実的な生なのだ。特に、それが公共的な事柄に関する決断であり、大きな規模のものであったならば、とりわけそうである。
「イランの核兵器という脅威を取り除くための自国の若者を数千人単位で死なせること」は正しいのか???とどこぞの国の大統領は数年後に自らに問わねばならんのかもしれぬ。こういう状況において、俺は価値相対主義は無効であると言っている。大学のゼミの教室や京大のルネで昼飯を食いながらあーでもないこーでもないと語る分にはいい。自らを、決断をなすべき人間を以て任じるならば、価値相対主義の海に泳ぎ遊んでいることはできぬ相談だ。

もちろんかかる批判は俺の誤読のせいかもしれぬ。実際にサンデルは最後のページでこう言っている。

「これまで我々が慣れてきた生き方より、より活発で深く関与した公共的生活が必要だ。この数十年で我々は、同胞の道徳的・宗教的信念を尊重するということは、それらを無視し、それらを邪魔せず、それらにーーー可能な限りーーーかかわらずに公共の生を営むことだと思い込むようになった。だが、そうした回避の姿勢からは、偽りの敬意が生まれかねない」

だが、上でも述べたように、やはりサンデルにはあと200ページを使ってコミュニタリアンという保守主義者が依拠すべき「共通善」を支える「埋め込まれた物語」とは、アメリカにおいてはなんであるのかについて語ってほしかった。
だが、それをしなかったこともよく分かる。
それをしてしまえば、彼は米国の赤と青=民主党と共和党の二項対立に象徴される、「どちらか」の側に完全に喧嘩を売ることになるのである。
だが、思想を持つということは、何かを主体的に信じることだとすれば(合理的に選択することでは断じてない)、そこにはやはり闘争の影が忍び寄る。それを避けていては歴史に名を残すことはできないだろうが、現在はそんな人物を受け入れる時代ではないのかもしれぬ。

こういう学者や著作が、米国で生まれたことの意味は容易に理解できる。
あの国は、WASP(White,Anglo Saxon,Protestant)を中心としながらも、やはり歴史的な軸としての中心を持たぬ若い国であり、その内部における葛藤たるや日本人の想像に絶するものがあるのだろう。日本人は、広島県では同性婚は合法ですが岡山県では同性婚は違法です、という状況に耐えられるだろうか。日本人は、国民のなかの一定の人口が、進化論を学校で教えることに反対していたとしたら、どういう顔をするだろうか。
アメリカは、常に分断の危機に晒されている国である。その要因というものが非常に具体的で現実的であるがゆえに、それをどのように理解するか、それをどのように一人の知識人として語ってみせるかということは、米国インテリ層にとって必須の教養なのだと思われる。
そして、恐らくは、日本でこの著作が大売れしていることにも背景がある。
すなわち、社会の分断それである。
本屋の入り口で「これからの正義の話をしよう」の平積みをみてから、雑誌が並べてある書棚の前にたつ。そこで俺は、LEONをパラパラとめくってから、チャンプロードを手に取るのだ。完全に、別世界である。
現在の日本においては、雑誌は性別・年齢・収入・生活スタイルなどによって見事に区分されており、近年とみにその傾向は顕著だ。さらに、これまでは洋服のみに注力してきたファッション雑誌が、住宅・レストラン・車・娯楽など生活全般を包括する「生活スタイル雑誌」となってきている。それが政治的に意味するところは、すなわち社会の階層化である。一億総中流の時代はとうの昔のことだ。
そういう時代にあって、階層間の利益の不一致は否応なく高まっている。丸の内で巨大資本を動かす商業エリート(エリートではなく商業エリート)は、資本の高度な流動性によって莫大な富を得るが、地方の普通の労働者は新興国へ流入する資本と立ち上がる工場で生産される安い工業製品に彼の生活を脅威されている。両者のみている世界はあまりにも違いすぎる。
そのことの経済的な意味は確かによく喧伝される。たとえば、「格差社会」という言葉はまさにそれを象徴している。だが、このことの政治的な意味、日本という国家にとっての意味はあまり言及されない。過去の半世紀人類史にないほど平等な時代を生きた日本人は、もはや階級により分断された社会というものを想像できないのではないか。
話は変わるが、このような時代に「国民のための政治が大事だ。マニフェストが大事だ」などと言っている初老の男性は阿呆だ。「国民」という一体性に対する脅威について語ることはできんのか。

自由至上主義と功利主義への批判の書として読むならば、非常にすぐれたWeaponとなるだろう。
しかし、コミュニタリアンとしてのサンデルに期待して本書を手にとるならば、恐らく失望することになるだろう。


独り言:

Gmailである人に「ロンドンに行くんだが、相変わらずあの国の英語はよく聞き取れません」と書いたら、Gmailの画面の右側に「英語に自信のない人、救います!」という広告が出た。大笑海水浴場である。

熊の回し蹴り(youtubeより)
http://www.youtube.com/watch?v=jHayG0I2ZJc


”浅き川も深く渡れ”
ー星野道夫

西部邁「小沢は背広を着たゴロツキである」、必読である。
誰にかというと、民主党あやしすぎる。。。と思っている総ての人に。

オバマさんは偉い政治家だと思う。
The Economistもほめているが、彼は米国の限界を知ろうとし、それを明確にしながらも、米国でしかできない超大国の責任を一気に放りだしたりはしない。平衡感覚のある人なんだろうなと思う。彼と話すのは、たぶんとても楽しいのだろうと想像してしまう。彼には彼が目指す究極の理想があるんだろう。

MAZDA、”靭(SHINARI)”




MAZDAのの新しいデザインテーマとなる“魂動(こどう)”を表現した第一弾のコンセプトカー”靭(SHINARI)”が発表された。

かっちょいい。マツダびいきは措くとしてもかっこいいだろうこれは。
スポーツカーは、まずもって窓が極端に小さくないといかん。居住性なんちゅうものは車に娯楽で乗る俺には無関係な話。俺は友達8人がアルファードで楽しくおしゃべりしながらドライブしていてもAston Martinに乗って長渕を聞きながら一人走るだろう。
で、側面からみたときの全高に対するタイアの直径がこれぐらいだとバランスがよろしい。当然このフォルムならFRだろう。四つのタイヤが身構える虎のように大地を掴む。

これを950kgの車体(炭素繊維使用)に仕上げてリッター20km走るロータリーを積んで2016年くらいに登場させてほしい。最高出力は140PSもあればいうことなし。三菱零式艦上戦闘機みたいな車になるなぁ。
4Lのエンジンを2トンの車に積んでドカーンと走るのは阿呆かと言われる時代がそこまで来ています。
あぁ、俺の愛機もいつか時代錯誤者が乗る時代錯誤車になるのか知らん。

がんばれマツダ~

2010年9月2日木曜日

105マイル(169km/h)?

人類は170km/hの速球を投じるのだろうか。
150km/hと聞くと、そりゃまぁぼくの最速からすれば途方もなく早いが、それでもまだ夢見れる範囲にある。

だが169km/hと聞くと、それはもはやプテラノドンの両翼は6mを超えるというか、まぁそういう類の話だ。

 
 


ところで、169km/hが弾丸のように飛んでくる打席に立つ打者は、無茶苦茶怖いだろうな。
クーバを亡命したチャプマン投手。
天才を与えられた人は、恐らく「正義論」のJ・ロールズ先生も賛同するだろうが、それを社会的資産として活用する義務がある。頑張って下さい。

130kmのへなちょこストレートしか投げられなかった元投手