「品格」シリーズに始まったと思うのだが、タイトルに何か特定の言葉が付けられた本が数十万部の規模で売れると、その本とは全く関係のない本でもその言葉を一部借用するかたちで本のタイトルがつけられ出版される。
例えば、藤原正彦氏の「国家の品格」に始まった「品格シリーズ」は、えらいことになっている。
少しだけ本屋で見つけるたびにメモし続けた「品格」の本をあげてみると、
「話し方の品格」
「父親の品格」
「横綱の品格」
「朝飯の品格」
「薄毛の品格」
「不倫の恋の品格」
「病院の品格」
「県民の品格」
「ヤマダ電機の品格」
その他a lot more...
もうすぐ新潮社から、俺の
「トイレで上げ忘れたズボンのファスナーを誰にも気付かれないように上げる動作の品格」
が出ます。嘘です。
「品格インフレ」の凄まじさが本屋にあまり行かない人にもなんとなく分かるだろうと思う。
「不倫の恋の品格」を著者がどれだけ真面目に書いたかは知らないが、自分の名前で世に自著を問う時に、このタイトルをつけられる神経のずぶとさだけは多少見習いたくなるほどだ。
ありふれた言い方だろうが、品格を論じようとする人が他人のベストセラーのタイトルの一部を使って中身よりまずタイトルで買わせてしまえという商売根性丸出しのいかがわしさ。
同時に注意しておきたいことは、最近の「ヤバい」という言葉の使われ方にしてもそうなのだが、語彙が貧相になると人間は少ない単語にあらゆる意味を与えようとする。具体的にそれが何を意味しているかを理解するには、精密に文脈と状況を理解するほかない。それが可能になるのは、コミュニケーションの範囲が限定されているからだ。「ヤバい」という言葉をGoodでもBadでも使えるのは、「こういう使い方をすれば(そのヤバいは)Good」で「ああいう使い方をしたらBad」という相互間の了解があるためだ。同じ音に異なる意味をもたせるというのは、「ワン」や「キーキー」という鳴き声を、鳴き方によって異なる情報を伝えようとする犬や猿と同じである。
上にあげたような主題について「品格」をキーにして論じられるのは、そもそも「品格」という言葉に対する敬意がないからに他ならない。
「朝飯の品格」という日本語の繋がりに、違和の感を覚えない人がいるだろうか?「この朝飯は品格がある」という日本語を一体全体誰が使うのだろうか。
皆よくご存じのように、この「品格シリーズ」の次の世代が「人は見た目が9割」に始まる「9割」シリーズだ。
こちらについても同じようにシリーズ化されていて(されていませんが)、いくらでも「9割本」が見つかる。
最近は、やっぱり「~代にしておきたかったこと」系の自己啓発本だ。20代でしておきたかったこと、30代でしておきたかったこと、40歳までにしておくべきこと、そういう本がどこの本屋でも店頭の一番目立つところに平積みされている。ここ数カ月で一気に冊数が増えた印象だ。
自分の人生の失敗を語る人間の後悔談に金まで出して付き合うくらいなら、1000円でニーチェの「この人を見よ」あたりを買って読めばいいのになぁと思わずにいられない。
だいたい、他人の言うとおりに自分が生きれば自分の人生が少しでもよくなると考えられるその無邪気さがそもそも信じられないというか、俺の理解を超越している。それに1000円を出せる人は途方もないお金持ちなんだろうとさえ思う。俺にはとてもそんな余裕はない。
「あの人はこうやって(これをやらなくて)失敗したのか(成功できなかったのか)、じゃあ僕は今からこれをやっておこう」。
こんなものは断じて人間の意思ではない。
何と言えばいいのか、ああいう「過去にこういうことをやっておけば」系の本がターゲットにしているのは、今の将来が暗い日本に生きる、不安だらけの青年層だろう。
だが、読むということをそんな退屈なことにしてしまってはあまりにもったいなくはないか。人生で読める文章は限られているのだから。
そんなものよりも、「どうやって革命を起こすのか」について考えるためにマルクスを熟読しながら「分からん!」と言ってはストレス抱えて箱根にBMWで暴走する、そっちのほうがよっぽど楽しいと思うのだが。
本を読んでいるときに最も怒り狂いたくなるのは、期待した本の著者のあからさまな「こう書けば売れるだろう(儲かるだろう)」という計算が見えるときである。
ニーチェを読んでみてほしい。「こ、このおっさん、なにを考えてこんなに狂ったようなことばっかり書いとるんじゃ....????」と思うだろう。だんだんそれに惹かれていくのだが。章のタイトルが「余はなぜかくもいい本を書くのか」ですから。
ニーチェは、自分の本がどれだけ売れてほしいとか、ある本を書くことでどれだけ稼ぎたいとか、そんな思惑が一切ない。売ろうと思ってあんなものを書けるはずがない。
ニーチェだけではなく、書かれるべくして書かれた本というものは、本質的にそういうものだ。それは、著者が、やむにやまれず書き残したものなのだ。時代によっては、命を賭して。言葉を伝えるために。
そういう本を読むことが大切だ。そういう本を喰らい尽すかのように読んで自身の筋とするのだ。瞬発力抜群だ。
わざと天の邪鬼になる必要もないが、現在の日本では多数派がやっていることの丁度反対をやるように毎日気をつけて生きるくらいでちょうどいい塩梅なのかもしれない。街で見かけるヤンチャぶった若い男も女もなんでみんなペアルック(下手をすればトリプルルック?だ)なんだろうか。
皆が英語を勉強しているなら漢詩や和歌を勉強しよう。みんなが仕事をしているなら365日自分一人で遊んでやろう。皆が彼女と温かい炬燵(こたつ)でぬくぬくとイチャついているならば一人で鼻水垂らしながらトレーニングに出かけよう。自分の意思で動くのだ。自分で全てを決めるのだ。戦場で采配を振るうのは貴様以外にはいない。それができないなら足軽になって長槍を持て。
多数派に対する警戒心以上に大切なことは、自身の箸の持ち方や挨拶の仕方や話し方の全てについて、自分の意思が通っているかどうか常に注意することだ。
人間はどこまでも弱い動物だ。ややもすれば、自分の意思は薄められ、周囲の人間と同じように話し、同じように食べ、同じように考えるようになる。
何度も言うが、「同じことをする」のがだめなのではなくて、意思薄弱のまま周囲のなんとなくの空気に自身が流されてしまうことが危険なのだ。自分で決めた生き方をしていない人間が自信を持つことはできない。
と、一人でブツブツ考えたわけだ。
今夜もね。
考えている限り、寂しいと感じることはない。
寂しい人間は、他者がいないから寂しいのではなくて、そもそも自身が寂しい人間なのだ。