2011年2月24日木曜日

「道徳の系譜」

最近、悩む。
ニーチェ以外の者の言葉が耳に入ってこない。小鳥が日本語で囀っている。
自分の言葉も内容空疎で意味不明で曖昧模糊だ。まったく表現するということは恐ろしいことで、自らの無能をさらけ出すのに文章をつづることほど便利な方法もないだろう。だからこそ、誰も表現などせぬ。金にもならんし。

予算策定のための人生の時間を削って(別に悲壮感はない)土日も平日も残業をして、ふと電車で紐解くニーチェの「道徳の系譜」の言葉は、都会のドブ水に浸かっている俺が奥飛騨の桃源郷のごとき温泉に一人静かに浸かっている、そんな気持ちにさせる。

狼と我々人間の違いは、未来を予見し、それを計量的に算定することにある。
地球上に誕生し滅んでいった生命のうちで、人間だけが、投資を行ってきた。インフレと恐慌が資本主義社会に内在している現象であるというのは正しくなくて、インフレというものが発生するのも結局は人間が常に抱く未来への儚い希望が故なのだろう。
マーク・ローランズの言うように、我々にとって死が「悪い」ものである最大の理由は、我々が未来に対して抱く希望を死が奪っていくからだ。それ以外に死を恐れる理由はない。なぜなら、我々は死を絶対に経験できないから(経験したときに我々はすでに「お前はもう死んでいる」)、経験できないものを恐れる理由はないからだ。恐れる理由がないのに我々が死を恐れるのは、我々が今よりより未来(何パーセントの利回り)を予想しながら生きるからだ。
必然的に、未来における利回りがマイナスになれば、我々のうちの幾人かは自ら死を選ぶ。

会社で予算を作成するというような仕事をしなければ、ニーチェのこの言葉がこれほど俺の脳髄を震わすこともなかったのだろうと思うと、俺は株式会社に感謝したいと思う。

”未来をあらかじめ処理することができるようになるためには、人間はまず、必然的な生起を偶然的な生起から区別して、それを因果的に考察する能力、遥かな未来の事柄を現在の事柄のように観察し予見する能力、何が目的であり何がその手段であるかを確実に決定する能力、擁するに、計算し算定する能力を習得してかかることを、いかに必要としたことか!-一個の約定者として未来としての自己を保証しうるようになるためには、人間は自らまずもって、自己自身の観念に対してもまた算定し得べき、規則的な、必然的なものになることをいかに必要としたことか!
これこそは、責任の系譜の長い歴史である。約束をなしうる動物を育て上げるというあの課題のうちには、われわれがすでに理解したように、その条件や準備として、人間をまずある程度まで必然的な、一様な、同等者の間で同等な、規則的な、従って算定しうべきものにするという一層手近な課題が含まれている”
(「道徳の系譜」岩波書店、P.63-64)

我々の人生は、俺の人生は、算定できるものであるのか。
計算できることは、安全のためには重要だろう。むべなるかな。
だが、それは本当に強い生き方であると言えるのか。人生をつまらなくする最大の原因は、実際のところ、計画してそれに従おうとする我々の従順さではないのか。自分の意思に従っているこの俺は、真に自分の運命に対して独裁者であるのかどうか俺には分からない。

ニーチェを面白く読めてしまうということは、小さな悲惨であるのだと思う。
これまでの人生でニーチェが俺に訴えかけてくることが全然なかったことと、俺のこれまでの生が血しぶきが沸騰するような愉快なものであったことは全然無関係ではない。
今過ごす時間の平和、平べったさ、奥行きのなさ、そういうものの一切が、ニーチェが唾棄したものであり、それと質的に同等でありながら次元において隔絶した、俺の現在の憎悪の対象である。
ニーチェは、ある人間個人の内部に革命を引き起こす可能性を持っている。読書は、常にその本を読んだ前後では我々の人格が変わり果てている、そういうものであるべきだが、ニーチェの言葉を文字通りに読む者は、現在のままではいられない。ニーチェの言葉のなかに単なる情報はなに一つなく、あるのは彼の意思だけだ。

人間にとって最大の目的が幸福であるならば、我々はニーチェの本を燃やして根絶してしまえばいい。健康な肉体にとってあらゆる薬が毒であるように、楽天家にとってニーチェは劇薬以外の何物でもない。
だが、ニーチェという爆弾が過去も、現在も、そしてこれからも絶対に少ない数の人々を魅了してやまないであろう最大の理由は、人間にとって健康と幸福が最高の目的ではないということだ。

論語を愛読書という経営者は多い。司馬遼太郎は指導者にとっては必読文献と言ってよい。
だが、「ツァラトゥストラ」を座右の書に挙げる社長はいない。
既存の秩序とそれが取敢えず保証する幸福なる時間を守りたい人にとっては、劇薬よりもジムでの適度な運動とバランスのよい食事のほうが重要なのだ。
だがそれは、我々人間が本当に価値ある高い人生を生きるために必要なことなのだろうか。