電車のなかでサラリーマンがIphoneなどのいわゆるスマートフォンで花札やマージャンやテトリス(のように見える)などに夢中になっているのをよく目にする。そういうとき、「石器時代にも石をみて『石コロ』と思う人間と『より先鋭な石器の原石』と思う人間の2種類がいたのだろうな」と思う。同時に、「大人になっても公衆の場でゲームに夢中になれる人って幼稚なのか無邪気なのかよう分からん」とも思う。
携帯電話向けのゲームを作って大儲けしている人間がいるのに、他方ではそのゲームで人生の何分の一かを浪費している人が少なからずいる。彼らの主観的には浪費ではないのだろうが。
俺はけっこう新しい物に飛びつく軽薄なところがあって、Iphoneを使い倒すことが目的と化している、というのは自虐的だが、けっこう使っていると自分では思っている。
俺のIphoneからいつでも大学院時代に書いたすべてのレポートやエッセイや小論文を持ちだせるし、過去数年間に撮ってきたそれなりの数の写真にも瞬時にアクセスできる。それをメールに添付してヒョヒョイと送ることが可能だ(今さらなにを言っているこの時代錯誤車め、なんて言わないように!)。ウランのトレードについて小さな頭で作戦戦術大戦略を練るために必要な情報もある程度ここに入っている。
これを全部プリントしてバッグに入れたら大変な量になるだろう。そんなもの何時取り出すの?などと野暮なことは言わんでほしい。ドラエモンの四次元ポケットみたいでやたら楽しいのである。
山で一人で焚き火を眺めながら、クラウド上に保管されている10年前の青臭いレポートを読んで恥じ入る。なかなか愉快ではないか。
いわゆるクラウドサービスのアプリで、Dropboxと並んで巷でも有名で、かつ評判通り便利なのだEvernote(http://www.evernote.com/)だ。
誰かが言っていたが、これは「記憶専用の第2の脳」ともいうべきもので、ボイスメモ(つまり録音)、メモ、写真の3つでありとあらゆる情報を保存し、検索することができる。Dropboxよりもはるかに使用頻度が多い。
当然「フリー」の時代だから無料だが、45ドル(一年間)を払えば、エクセルやワードのファイルも保存することが可能になる。
”保存する”というと、これまでのデスクトップ上に保存するのと同じように思う人がいるかもしれない。
もちろんそんなことではなくて、例えば会社のPCのデスクトップ上にあるEvernoteにエクセルファイルをポンと入れてどこかに手ぶらで出張したならば、現地でネットにさえ接続できればそこでそのエクセルファイルを開くことができる。つまり、「どこにいても」「いつでも」必要な情報をその手の中に収めておけるようになった。そのための手元の端末がいわゆるスマートフォンというもので、スマートフォンは既に電話という範疇を超え出た製品である。
それはあくまでも一つの、膨大な情報へアクセスするための”窓”であり、また情報を捕まえるための”網”である。
「そんなのいらないでしょ?」と言う人もいるだろうが、俺の生活はIphoneとEvernoteでかなり快適になった。
例えば、これまでであれば、新聞紙上に興味深いグラフを見つけたときには、切り抜いてMoreskinに貼り付けるか、Iphoneで写真を撮ってそれをGmailに送るということをしていた。まぁ、すこしだけ手間である。Gmailで探すのもまた手間である。
それがEvernoteとIphoneがあれば、Evenoteのカメラで写真をとっておけば、それが”クラウド”上に自動で飛んで行って同期されることになる。ボイスメモや普通のメモも同じだ。Iphoneをなくそうが、破壊しようが、地球の反対側に行こうが、ネットに接続さえできればこれらの情報はどこからでも呼び出すことができて、かつ容易に検索が可能だ。このブログのドラフト(草案)も、土日にLet's Noteに乗せたEvernoteでネタを何個か書きためておいて、平日の電車の中や昼飯後の散歩の時間に今度はIphoneからちびちびそれを追記・添削して、最終的に「山桜」に貼り付けるということをよくやっている(ちなみにこの投稿もそうして書かれたものだ)。
思いついた言葉、唸らされた偉人の名言、美しい風景やけったいな街の看板。
世にはまことに沢山の記憶されるべき情報がある。それら一つ一つを吟味してノートや日記に書き散らすというのも一つの情報収集の仕方であるが、俺は今は関心を持った情報はすべてEvernoteにゴチャゴチャに入れることにしている。Web上で見つけた面白いNewsや意見もすべてとりあえずこの保管庫にエイヤと入れておいて、夜寝る前や朝の電車の中で読み返して面白いものは友人に転送したりMoreskinに書き残したり。つまらんものは削除する。情報は相変わらず洪水のように流れているのだが、その中の妖しい小さな輝きを捕まえないといけない。
携帯電話によっていつでも誰とでも連絡がとれる時代が10年以上前に来た。
その時は、いつでもどこからでも自分が持っている情報すべてにアクセスすることなど誰も望みはしなかったのだが、真の意味での「ユビキタス」時代はこれから本当の幕開けなのだろうと思う。
情報の蓄積と検索機能は機械に任せて、それ以外の仕事を俺の脳ミソにはしてもらおうと思う。
そもそもそんなになんでもかんでも蓄積できるほど俺の脳の容量は大きくない。
で、どこでもいつでもWebに繋げて遊べます(仕事できます)~というためにものすごく使えるのが、DOCOMOが昨年発売したこの無線ルーター。12月に別の会社の「超高速」ルーターとやらを買ったのはいいが新幹線はおろか箱根の温泉でも全くつながらず、これでは仕事(仕事?)にならんと1カ月でDOCOMONOのBF-01Bに乗り換えた。
こいつは、FOMAの回線を使っている(詳しいことは知らん!)。だから、本当によく繋がる。
地下に入ろうが、160kmで移動中だろうが、本当によく繋がってくれる。
Ipadその他のタブレット型端末やAirbookなどの機動性の高いモバイル製品を日常的に使用する人は買って損はしないと思う。おすすめです。
IphoneはWeb閲覧にはあまり適していないが、それでもこいつで武装すれば3G回線よりはるかに速いし、重たいデータもスタコラ入ってくるし送ることができる。
今日は原田武夫「世界通貨戦争後の支配者たち」を読もうと思ってスタバに来たのだが、結局これを書き足すのと西尾「ニーチェとの対話」の再読に2時間を使ってしまった。意志薄弱というかなんといいますか。
それにしても。
金融・経済を日本人(俺を筆頭に!)は知らな過ぎる、そんな気がする。
いや、別に江戸時代ならいいのだ。鎖をしてたのだから、国に。
もはやそれじゃ生きることさえ危うい。
儲ける為ではなくて、生き残るための勉強が今ほど必要な時代はない。勉強が好きとか嫌いとかではなくて、食うか食われるかのための勉強だ。我が意思のみに従って生きるためには、自分と家族の腹を満たし本を買うための富がどうしても必要なのだ。
先日陰謀論を言うなよ~と友人に批判された。
しかし、この国を管首相や陛下が支配していると思っている人はいないだろう。かといって国民である我々が支配している!という変人もいないだろう。
と、いうことはだ。支配者はいるのだ。当然のことだ。それはいいとかわるいとかの話ではない。
そういう見えにくい意思というものが、歴史とその中で暮らす民に対してときどき甚大なる影響を与えてきたのだということだけは、銘記しておきたいものである。誰なのかは知らんがね。