2012年7月6日金曜日

ホッブズの視点でこれからの世界を眺めると

ホッブズという人がいる。いや、いた。

「万人の万人に対する闘争」というそういう業界ではとてもとても有名な言葉で人間の原初状態を表現し、あくまでも功利的な人間たちは自己の自然権としての自己保存の権利を放棄して他者と社会契約を結び、主権を「リヴァイアサン」に譲渡することにより自らの安全を担保するという、神無き後において主権を備えた近代国家の統治の正統性を原理的に追求した17世紀のイギリスの思想家である。デカルトなどと同じ時代を生きた人らしく、非常に論理的かつ合理的で、人工的な国家論をぶち上げた。
初めて知ったときは、ようもまぁこんな小難しいありそうもないことをくそまじめに考え出したことよ、と思ったというのが正直なところ。
俺のような、「新婚旅行の目的地は霧島じゃ!高千穂じゃ!」というような男には感情的に納得いかぬところがあるのだが。

で、ホッブズの「応諾問題」というものがある。

これは、神も警察も王様もなにもいないとき、つまりある男Xがあなたの妻子を殺したとしても誰もそのXを捕まえないし、訴追しないし、罰を与えることもない。
そういう状況を想定しよう。
(そんな社会があり得るものかと思う人は、想像力が不足していると思うよ)
こういう状況がホッブズが「リヴァイアサン」を執筆した清教徒革命時代のイギリスだったわけだが、こんな状況下で、実際のところ、誰かと誰かが武器を捨てて戦うのをやめましょうという合意がなぜ可能か?という問題だ。
ええい、なんてわかりにくい表現だ。
具体例。あまり現実的じゃない、、、と言わないように!

ジャングルであなたは銃を持って歩いている。
味方はいない。周りは敵ばかりと認識している。付近には他殺死体がごろごろ。
そんなとき、同じように銃を携え一人で徘徊している男に遭遇した。
この時、あなたがボッブズ流に「社会契約」を結ぶには、まず銃を捨てて、この男に対して自分が害を加える存在でないことを証明し、握手をし、契約書を準備し(ジャングルでどうやって?)、そしてサインをしないといけない。
問題だらけなのが分かるだろう。

・銃を捨てたその瞬間に相手が自分を撃ってきたらどうしよう。
・お互い銃を捨てて武器はないと思ったら実はやつは背中に日本刀を隠し持っていたらどうしよう。
・サインをしようとしたときに石で頭を殴られたらどうしよう。
・サインした後に、「こんなものは紙切れだ」と言われたらどうしよう。

疑いまくりである。何一つ信じられはしない。
お互いがこの疑心暗鬼を抱えながら、どうして相手を信頼できるのだろう。

余談だが、これはすなわち核ミサイルを互いの主要都市に突き付けあって確保された相互確証破壊に基づく米ソ間の「平和」の原因でもある。つまり、相手がどれだけの核による先制攻撃を仕掛けてきたとしても、絶対に残存し得る核戦力(典型的には常に海中深くに潜む戦略核ミサイル原潜)による報復攻撃によって敵に耐えがたい損害を与えられる力を維持することによって初めて、冷戦期間中の米ソの「相手が先に撃ってきたら」という上と同様の(火力のレベルはだいぶ違うが)リスクに対応していた。

つまり、だ。
全くの原初状態を想定する場合、「最初の合意」というものは原理的にあり得ない。
なぜなら、社会契約を結ぶためには、「互いが互いにとって狼ではない」という合意が必要だからだ。狼と狼は契約を結ぶことが出来ないのだ。主従関係だけ。

そうであるから、主権は社会契約によって創造されるのではないというのが正しい。

このことの、現代的な意味の一つを考えてみたい。

現在は契約社会である。
何かしらんが、「契約書」というものに合意内容があってそれにしかるべき人が署名なり捺印を押していれば、とりあえずその合意は守られるという雰囲気をこの4年間商売の世界に身を置いて常に感じてきた。
「こんな紙切れで何百億円がね~」と不思議に思いながら。

だが、このビジネスにおける契約も、人間のやることだから、上のジャングルで遭遇してしまった人間同士の疑心暗鬼を捨象することはできない。
すなわち、契約書の実効性と適切な履行を担保しているのは何か?という問題を提起したいのだ。

答えは、軍事力(警察力含む)である。

あなたにお金を払うべきはずの人がその債務を履行しないとき、それをあなたに代わって強制執行して例えば不動産などを差し押さえてくれるのは国家の機能であり、これに実力で対抗しようとする人には(あまりないが)警察力が行使される。この人が(例えばメキシコのギャングのように)重武装の悪者であれば、軍隊が投入されるだろう。
逆にあなたが自身の力で不法行為状態をなくそうとすれば、これまた国家が実力を以て介入してくる。
あるいは売上高50兆円を超える巨大石油企業と新興国が油田開発の契約にサインするとき、巨大石油企業の本国が抱えている軍事力は、この新興国にとって常に潜在的に契約履行を常に促進している。

そう考えると、冷戦終焉後の1990年代~2000年代において、世界の通商が質・量ともにとてつもない速度で成長したことの背景に、アメリカが世界中の海に遊弋させる巨大空母の存在を思わざるを得ないのである。
よくもわるくもアメリカという国が、恣意的ではあっても世界の警察として全ての海を支配し、地上のどこにでも大規模な火力・戦闘員を投射できたということは、世界が無政府状態ではなかったということを意味している。その世界はアメリカに都合のよいように当然作られていた(それ自体はよいことでもわるいことでもない)のだが、そのルールに従う限りは基本的に合意は守られるという期待が持てた。
余りに当たり前な議論だが、ポルトガル・スペイン・オランダの各海洋帝国の後に、本格的に資本主義が世界に拡大していった過程が、大英帝国の世界への大拡張の時代と一致しているのは全く偶然ではない。

仮に上記がある程度正しいとすれば、これからの時代において通商は、グローバリゼーションはどう変わっていくのだろうか。変わらないのだろうか。
俺はアメリカのの軍事力に部分的にでも対抗しうる軍事力を有する国家が台頭することは、通商関係を根本的に変えてしまうだろうと思う。
投資家が中国の空母に敏感になる理由はこれで十分だろう。

イスタンブール空港、トルコ航空ラウンジにて。
ケバブが旨かったです。
ご馳走様。

ついでにトルコという国について。
トルコ人の顔には歴史が凝縮されているかのようだ。
僕が今日飛んできたカザフスタン(出発地)は、30%をロシア系が占め、それ以外はタタール系、ウズベク系、モンゴル系などたくさんの民族がいるが、それぞれがまじりあって「カザフスタンの顔」を作り出してはいない。あくまでも、「あなたは何系ね」という顔つきの人たちが顔を寄せ合って暮らしている。
トルコは、世界地図とトルコ人の幾人かの顔を見合わせてみれば、たぶん誰もが「ははぁなるほど」と納得するはずだ。

周辺3000kmに所在する民族の代表的な顔のサンプルを合成してコンピュータグラフィックスで作り出すと、たぶんトルコ人のような顔になるだろう。
ブルガリア、イラク、イラン、グルジア、シリア、ギリシャなど多くの民族を抱える多数の国と国境を接し、数千年に渡って文明の交差路であり続けたこの国は、同時に長期にわたって現在のトルコをはるかに越える広大な地域を支配した、オスマントルコ帝国を受け継ぐ国でもある。

だが、帝国であれば必ず混血が進むといえるわけではない。大英帝国でも大米帝国(?)でも、黒人と白人の結婚の比率は非常に小さいと聞く(大統領は混血だが)。
そう考えるとき、トルコがイスラム圏に極めて少数派である民主主義国であることの合点がいく。
大きなオスマントルコという「民族」を歴史を有するが故に、民主政治を実現できるのかなと思う。

が、よう知らんので深入りはここではやめよう。
機内でDaniel Yergin, "Quest"を読もう。楽しみだ。

では、また。