小学校一年生のとき、いわゆるいじめに遭った。注意深く「いわゆる」をつけたのは、僕は当時それをいじめだと認識せず、一対多の長期にわたる喧嘩だと認識していたからだ。
教室のすべての児童が僕を無視したり、集団で攻撃されたりしたから今の基準で言えばまぁいじめだったのだろう。向こうの意図なぞ知らんけど。
大津市での事件を受けて、いろいろな有名人や教育者が、「いじめはだめだ」とか「いじめている君たち、いじめられる側の気持ちを考えてみて欲しい」などといじめられている子のことを考えているとはとても思えない差し障りのないことばかり言っていやがる。弩級の阿呆。
それじゃだめだ。
俺ならこう言う。
大切なのは、いじめている側に伝えることではなく、いじめられている方に攻撃の意思を与えてやることだ。
「いじめなんかじゃない。君は今小さな戦争を戦っている。やるかやられるかだ。人生最初の生存競争を君は戦っている。だから戦え。」
思えばいじめられて自殺するものは、究極の平和主義者だ。抵抗するでもなく、反論するでもなく、自分なんか消えてしまえばいいと思って死ぬのだから。誤解を覚悟で言うが、国家といい個人といい、究極状況では人を殺してでも生き延びるという覚悟が必要になる。
そして、自分の他者への攻撃を正当なものとして認識するために必要なものは、「自己肯定」と冷静な状況判断(自分に対する「いじめ」はいわれなきものであり、不正義を被っているという社会通念上正当な判断)。
俺は、それを全く教えられず争うこと、戦うことを教えられずにひたすらみんなと仲良くしましょう(「友達100人できるかな♪」って阿呆か?)とだけ言いつけられてきた子らに、戦うことは正しいことなのだと声を大にして言いたい。そして、教室という社会にさえ、悪は存在することを伝えたい。
平和主義憲法では、子どもは我が身を守れないし、国は尖閣を守れない。自分に正しい戦いを認められない国家のなかで、不法な攻撃にさらされながら苦しむ子らが反撃の糸口さえ掴めないでいる。
これを無理矢理なこじつけだという人もいるかもしれぬが、俺には無関係とは思えない。
なんてったって、この半世紀この国では大人たちは子供に、「命がけで戦うべきものなんてありません。みんなと仲良くしましょう。戦いはいけません。競争もいけません。駆けっこも手をつないでゴールしましょうね。」と言い続けてきたのだから。
いつもにこやかに笑っているが、ことに及んでは容赦はせぬという隠された気迫。
これがないとだめだ。
なめられたら終わりだ。
恐れられるか可愛がられるかの二者択一なら迷わず前者を選べ。マキャベリが言わずともこんなことは誰もが知っていることだ。
ちなみに俺に対する無謀ないじめは、俺がその頭目をしっかりと殴り付けてから側にあった椅子で頭をかち割ろうとしたときに完全に終わった。後にも先にも人を殺してもいいやと思ったのはあの時だけだ。「未必の故意」(殺す気はないが殺してしまっても仕方なしという意図)だがもう時効。
この幼少のときの経験は、後に俺が国際政治はジャングルであると考える小さな契機になったかもしれない。
この時先生が仲裁でもしてくれてたら、「世界には国連があるから軍備はいらぬ!」なんて言う頓珍漢になっていたかもしれぬ。
結論:
いじめられっ子よ、戦え。
核兵器とは言わんがサブマシンガンぐらいをやつらの頭に突き付けて空砲を撃ってやれ。君たちの戦いは正しい戦いだ。だから、君たちは絶対に勝たねばならね。負けたらだめだ。どんな武器だって使うがよい。大西郷だって京都では強烈な謀略家でありテロリストだったんだから。
誰かが助けてくれるなんて、おとぎ話か日本昔話かドラゴンボールぐらいのもんだぜ。
あぁ、俺があのいじめに対する時に、確かにひとつのイメージが俺の頭にあった。ドラゴンボールの悟空の父のバーダックがたった一人でフリーザに挑戦してあっけなく殺されたあの壮絶な英雄のイメージ。
治しようのない阿呆。